第13話 帰ってきた詩織
突然、喫茶店のアンティークの柱時計が鳴った。ボーンボーンと暗い所から響くような音を立てて、午後九時を告げた。薫が、銀の装飾のない腕時計を覗いた。
「今から、ドライブに行かない?」
誰かが言った。詩織だった。死体なら、もう腐乱していてもいい頃だ。詩織の体は生きていたときと、ほとんど変わらなかった。そこに昔のようなみずみずしい美しさは認められなかった。その代わりに氷像に似た、無機質な美貌が備わっていた。詩織の体も心も、彼女の命が絶たれたときに凍り付いてしまったのだ。これは、詩織ではないものだ。詩織の形をした酷く恐ろしい存在に、山田は思えた。
山田は、しばらく呆然として詩織を見詰めていた。薫は少し嫌な顔をして、たちまち取り繕った。事をしくじったと言う感情が表に出ていた。村井は、変わらなかった。いつもの詩織を見る目だった。彼女への憧れの眼差しだ。
「詩織、遅いじゃないか」
村井が、はっきりとそう言った。薫も何かしゃべったが、山田には聞き取れなかった。山田は声も出なかった。
「どうしたのそんな顔して、怒っているの?」
詩織が、山田に微笑み掛けた。山田の体は動かなかった。それでいて、何か言おう、言わなければと、彼の頭は必死に思考を巡らせた。
「ごめん」
が、山田にはそれ以外の言葉が浮かばなかった。
「何謝っているの。今日の淳二、おかしい」
その口癖も、笑い方も山田の知る詩織に違いなかった。
「早くこちらに来て座れよ」
村井は丈夫そうな腕を持ち上げ、器用に手招きした。太い手首が滑らかにしなった。山田は、何かに似ていると思った。それは、昔深夜のテレビでやっていた、怪奇映画の幽霊だった。おどろおどろしい女の幽霊が、古い屋敷の中からお出でお出でと手を振って、あらがう主人公を操ろうとするのだ。操っているのは詩織なのか、それとも村井だろうか。
薫も詩織の前では、一様にしおらしくなった。いつもと同じだった。なぜこの状況を否定しないのだ。おかしいと、誰も口に出さないのだ。村井も薫もおかしくなっている。それとも、山田一人だけが何か別のものを目にしているのか疑った。
山田は朝、目を開けても、昨夜の興奮が冷めなかった。その夜のドライブは、久し振りに恐怖に震えた。信じられない出来事が、彼らの前で次々と起こった。
別れ際に、山田を抱きしめた詩織の体は、服の上からでも触った所が冷たかった。触れた瞬間、山田は思わず身を怯ませた。彼女の死体を運んだときには、まだ温もりがあった。生温かかった。それが、完全に詩織の体から失われていた。
薫はいつものアンティークの喫茶店の席に、冴えない顔の山田と村井を並べ、いつになくヒステリックになっていた。
「どうして、あの女がまだ私たちの前に居るの?」
「知らないよ。それにあの女だなんて、酷いじゃないか」
山田は、薫に釣られて大声になっていた。その声も険を帯びていた。
「生き返ったわけ? 心臓動いていたの? 呼吸はしていたの? 血は流れていたの?」
「そんなに詳しいことまでは調べられないよ。生き返ったわけじゃない。現に彼女の体は冷たかった。何の温もりも感じられなかった」
山田は、その時の詩織の感触を思い出した。
「嫌らしい。死体になっても、あの女に興味があるのね」
薫は、山田に意地悪な目をした。山田は、冷たい視線を薫に返した。
「そんなに、向きになるなよ!」
「向きになってなんかいないでしょう。これじゃあ、わざわざ山奥に埋めてきた意味がないじゃないの」
「それはそうだけど。でも悪いのは、僕たちの方だろう。報いを受けるのは当然だよ」
「分かったような、口利かないでよ」
薫は、そう言うと黙り込んだ。そこから、しばらく考えた後に言った。
「でも、どうにかしなくちゃ」
「詩織をどうするって言うんだよ」
山田が答える前に、村井が薫を睨み付けた。
「だから、もう一度埋めて来ようって言っているの」
薫は、今度はもっと遠くに、決して出られないような辺地に、詩織を幽閉することを提案した。
「今だって、とんでもない山の奥に埋葬したんだ。それで帰って来たんだから、お手上げだよ」
山田は、最初から薫の話には気乗りしなかった。村井の態度は、はっきりしなかった。どこか薫の顔色を窺う素振りを見せた。それでも最後に何とか、「わざわざそんな面倒臭いことする必要ない。これまど通り、四人で仲良くやろう」と、その事だけは口に出した。薫は、それが堪えられないのと言い張った。
「そんな事したって、僕らが犯した罪からは逃げられないよ」
「それは分かっている。だからって……」
「考えようによっては、まだ増しな方だと思うよ。恨み辛みで、彼女の怨念に襲われるよりはね」
薫は、それでも山田の話に聞く耳を持たなかった。
「それで、あの女は今どこに居るの?」
「それが、分からないんだ。もっとも生きていたときだって、彼女の行き先は、まるで把握できなかったんだけどね」
「もうしっかりしてよ。とにかく今夜中に片を付けないと」
「そんな急に、どうして?」
山田は、薫の顔を真面に見た。薫は、薄い眉も、細い目も、小さな唇も怒ったように強張っていた。
「当たり前じゃない」
薫は一呼吸置いてから、声を潜めて続けた。
「死んだ人にうろうろされるだけで、気味が悪い。それに、隠すために埋めたのよ。それを忘れないで。死体と一緒に居るところを、誰かに見られたら大変でしょう」
山田は、詩織に取り返しの付かない過ちを犯した。その後悔から、少しでも罪滅ぼしをしてやりたいと考えていた。彼女の出現によって、取り返しの付かないことが、取り返せるように思えた。死体だって、動いてくれた方が、むしろ山田には都合が良かったのかもしれない。が、薫は、それを許さなかった。詩織に償いをするならまだしも、更に山田に罪を重ねることを強要してきた。村井は珍しく、薫の言いなりだった。言うことを聞くなら、詩織の方だとばかり思っていた。
その夜は山田が運転し、詩織の死体を郊外に捨ててくること話はまとまった。
「穴は掘らなくていいの?」
村井が、ぼそりと言った。別に何か意図があったわけではない。村井が、率先的に意見を言ったからといって、穴を掘ることと、詩織を遺棄することとは、まるで結び付いていないのだろう。
「掘れれば、それに越したことはないけど。もう無理だよね」
前回の苦労を考えれば、誰も気が進まなかった。
「今度は、大型のスコップを調達すればいい」
村井の考えには、山田は反対しなかった。薫も黙って頷いた。大学の備品をこっそり拝借するのはどう、とまで意見したくらいだ。その夜の計画は順調に決まっていったが、肝心の詩織の消息は、まるで掴めないままだった。
「土の中へ戻ったのかな?」
村井は、真面目な顔をして言った。
「さあね。あんな山奥じゃあ、場所も分からないし、もう確かめようがないよ。あそこは詩織のお墓じゃない。あんな所にいつまでも居るとも思えないよ。――それで、後はどうするんだ?」
詩織を、どうやって捨ててくるのか、具体的には何も決まっていなかった。死体を再び殺すことはできない。それに、誰も人殺しなんて二度としたくないと思っているだろう。詩織が死んだのだって、偶然の事故だったはずだ。が、今度は多少手荒な真似も強いられるだろう。三人で詩織を押さえて、動けないように縛って捨てるか、埋めるかするしかない。その時、当然薫は手を貸すだろうが、それでも薫は小柄な女の子だ。詩織より非力に思える。村井は当てにならない。山田は、一人で何とかしなければならないと思った。詩織は抵抗するだろうか。山田は、また彼一人が罪を被らされるようで、気が重くなった。急に喫茶店の、木製の洒落た扉が開いて、男女四人の大学生が笑顔で入って来た。四人は、扉の近くの座に頭を並べた。それから、何か楽しそうにひそひそ話し始めた。山田は、ついこの間までの彼らを顧みるような、眼差しを向けていた。思わず嘆息が漏れた。
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