第9話 鈴川詩織の悲劇
どうして、山田が血の付いた包丁を、手にしていたのか分からなかった。彼が詩織を刺したのか、その包丁は、薫から奪い取った物だと思っていた。薫が、詩織に殺意を抱いた。それを止めようとしたのだ。止めようとしたはずの山田が、なぜ詩織の胸を貫いた包丁を握っていたのか、まるで説明が付かなかった。なぜ憎しみが山田ではなく、詩織に向けられたのか、何かとても大事なことが欠落して、突拍子もない夢幻を見せられるようだった。詩織の真っ白だったワンピースが、熱いスープをこぼしたみたいに、赤く染まっていた。山田の手にも、その手の中の凶器にも、赤々とした物があふれていた。
山田は大学裏の寂しい空き地に入るなり、慌てて逃げ出す村井を見た。村井は、そこに居たのだ。詩織と薫と、三人で居たのだ。他には、誰の姿も見えなかった。そこへ山田が、後からやって来た。薫が包丁を握って、詩織に襲い掛かろうとしたのを、山田が、薫から包丁を奪った。男の彼なら、力の弱い女の子から包丁を取り上げるくらい、さほど苦労を要しなかったはずだ。ところが、山田は思いの外、激しい薫の抵抗に遭い、もみ合いになった。もみ合っているうちに、不幸にもそこに居た詩織を巻き込んでしまった。それが、山田が導いた答えだった。山田が彼自身を擁護するなら、偶然が重なった事故だった。が、それは取り返しの付かない事故だった。彼が自責の念に駆られるなら、それは殺人に違いなかった。彼は間違いなく、恋人の鈴川詩織を死に至らしめたのだ。とんでもない事を仕出かしてしまったと、彼はそう結論付けた。
山田は黒くぬめぬめして、まるで別の生き物のような凶器に、食い込むほど握って、固く動かなくなった五本の指を、左手の指で一本一本丁寧に解いて、包丁を地面に落とした。
彼らは、これから深夜のドライブに向かう段になって、山田が車を回してくるからと、その場を離れた。そこに残ったのは、詩織と薫の二人だった。村井はいつ来たのだろう。彼が車を取りに行ったわずかな間に来たのか、偶然にしては出来過ぎている気が、山田にはした。しかし、それがはっきりとしたからと言って、詩織が命を落としたことに変わりはない。
悲鳴は上がらなかった。「ぐあっ」とわずかに、恐らく詩織であろう、うめき声がして、彼女が地面に崩れ落ちた。倒れたときに音はしなかった。彼女は倒れれば、死ぬと分かっていて、必死に抵抗したのだろう。それで、何の衝撃も与えず、緩やかに地面に横たわったのだった。山田も、薫も声を出さなかった。ただ呆然として、地面に倒れた詩織を見下ろしていた。彼女の胸が、見る見る赤く染まっていくのが分かった。それ以外は、まるで静止しているように思えた。
「救急車、いや車で直接、病院へ運んだ方が、早いかもしれない」
山田は、詩織の赤みを失った顔を食い入るように見詰めて、ようやく大声で叫んだ。
「もう死んでいるよ」
ところが、混乱する山田に対して、薫は静かに答えた。
「し、死んでいる? そんなはずがない。詩織が死ぬはずがない」
そう言ってはみたものの、山田は死体に成り果てた物を、詩織とは思えなかった。死体になってしまった詩織を、確かめるのも恐ろしかった。
「病院に連れて行こう」
「詩織は、死んだの。今更、連れて行っても、何も意味ないじゃない」
「そうだけど、詩織をこのままにしておけない」
「どうするの? 埋める?」
「埋める? 埋めるって、どうして? どうして詩織を、犬や猫の死骸みたいに埋めるんだ。どこへ詩織を埋めるって言うんだ」
「ちょっと冷静に考えてよ。私たちの前には死体があるの。どうしてだか分かる。どうして、詩織が死んだか分かっているの? 病院に死体を運べば、それも胸を刃物で突き刺された死体なら、尚更だよ。誰がやったのか。どうして刺したのかを聞かれるでしょう。それも警察に尋問されるの。それ警察の前で、何て説明するつもりなの?」
薫は、いつになく凄みのある目付きで、山田に迫った。山田は、薫の迫力にすっかり押されていた。十センチも、二十センチも背丈の違う、いつも目線を下げていた薫から、見下ろされるように感じた。
「そんなの、正直に話すしかないよ」
「正直に話すって、何を話すの! 私は、警察に疑われるのは御免よ。ある事ない事でっち上げられて、犯人にされるのが落ちよ。そんなの嫌なの」
「詩織……」
山田はその時、詩織が甦ったのではないかと思った。彼に、そう言ってにじり寄る薫の中に、まるで生き写しのような、詩織の姿を見た気がした。しかし、それは彼らが長い間、同じ時間を過ごしてきて、詩織の仕草や、しゃべり方が、薫に移っただけなのかもしれないのだった。山田は、そうだとは思わなかった。
「山田くん、しっかりしてよ。殺人犯になりたいの? 正直に言ったって、詩織はもう生き返らないの。死んでしまったものは、どうにもならないの。分かるでしょう」
死んでしまったもの、その言葉に、山田は再び詩織の顔を覗き見た。地面には、すっかり色のあせた、何か別の物が転がって見えた。こんなのは、詩織ではない。山田は、そう思いたくて仕方がなかった。
殺人犯になりたいか、なりたくないかと言われれば、なりたくないに決まっている。それから、薫が言うように、車で死体を運び出すまでに、しばらく時間が掛かった。
夜になれば、流石に人は居なかった。山田が車を止めた、大学裏の駐車場までは、何とかたどり着くことができた。山田は最初、薫と二人で、詩織の手足を持って運ぼうと考えていた。が、力の弱い薫では、かえって足手まといになることが分かった。それで、山田はあまり気乗りしないが、かつて詩織だった、途轍もなく不気味な物を、彼の背中に載せて運ぶことにした。それも、一人では到底、背負えないからと言って、何とか薫に詩織の体を、彼に背負わせるように頼んだのだった。が、薫の力だけでは、とても詩織を持ち上げられない。結局、山田が死体を起き上がらせ、彼が体を反転させる間、死体が倒れないように、薫が支えることになった。薫が手を離すと、行き成り山田の背中に死体が抱き付いて、思わず山田は悲鳴に近い声を漏らした。思った以上に大きな声が出て、彼自身が驚いた。詩織の体は、妙に冷たかった。それは、山田の体温より低く、実際はまだ彼女の体には、生前の温もりが残っていた。人の体温に似て非なる、温かさだった。しかし、それも徐々に冷たくなっていた。
「静かにして! 誰か来たらどうするの?」
声を上げた山田に、薫が彼女自身の口元を、手で隠しながら言った。その顔は、青ざめていた。
「ごめん。死体を触るのは、慣れていなくて」
「そんなの、誰だって慣れてないよ」
薫は呆れたように、その薄い眉をひそめた。それから、詩織をあちこちにぶつけながら、運んできた。その度に、山田はごめんよと情けない声を、返事すら返ってこない相手に掛けていた。そうして、何とか二人は、山田が車を止めた駐車場までたどり着いた。山田の白い乗用車が、薄暗い所に物悲しく沈んで見えた。
二人は車に詩織の死体を運んでいると、誰かが近づいてきた。山田は、不味いところを見つかったと思った。が、車一台しか止まっていない、見通しのいい所では、隠れることもできない。絶望を感じながら、山田はゆっくりと、誰かに顔を向けた。そこに立っていたのは、紛れもなく村井だった。村井は表情一つ変えずに、山田をじっと見詰めていた。
「俺も手伝う」
呆然とする山田をよそに、村井は言った。なぜ村井がそう言ったのか、なぜ二人の所へ戻ってきたのか、山田には理解できなかった。村井は、ずっと山田たちの様子を隠れて、覗き見していたのだろうか。山田は、とんでもない勘違いをしていたのかもしれないと思った。が、今となっては、そんな事は全く問題にならない。この最悪な結末が、どんでん返しを迎えることはないのだった。詩織は、死んでしまったのだ。永遠に……。
彼らは、詩織の死体をトランクに載せるか、後部座席にするかで迷った。が、トランクより後ろの席に入れた方が、手間が掛からないから、そうしたのだ。村井が加わっても、狭い車の中へ詩織を運ぶには苦労した。それを座席の背もたれに、もたせかけたが、扉を閉めると、詩織は簡単に倒れてしまった。
山田は無理な姿勢で、詩織を背負ってきたから、体のあちこちが痺れていた。その上、腕や肩が凝り固まって、震えも止まらなかった。山田は運転席に着いて、何度もハンドルを握り締めた。
「駄目だ。手の震えが止まらない。これじゃ、運転できない」
「私が、代わりに運転する」
山田の困惑する様子を見兼ねて、薫が運転席を覗き込むと言った。片手で、水をかくように慌ただしく振って、交替を促すような身振りをした。
「薫、運転大丈夫なの?」
「大丈夫、大丈夫。それに私、死体の隣になんか座りたくないもん。山田くん、早く替わって、早く早く!」
薫がそう言うなり、扉を開けた。薫はいつの間にか、運転席の外に立っていた。山田は薫と交替に、車のボンネットを眺めて、後部座席に回った。山田が車に乗り込むと、隣に死体が横たわっていた。彼には、それが何か作り物のように思えた。どこからどう見ても、詩織そっくりだった。詩織の死体に違いなかった。詩織は、すっかり色艶を失って、肌の色も青白く悪くなっていた。誰も死骸や腐った物に見向きしない。いやそれどころか、激しい嫌悪さえ抱くだろう。が、それでは詩織があまりに可哀想すぎると、彼にはそんな感情が残っていた。
「それじゃあ、どこへ行く?」
車内へそう声を掛けた薫は、免許取り立てのドライバーさながら、意気揚々とハンドルを握っていた。山田には、それが詩織へ言ったように思えたのだった。
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