第7話 百瀬薫と狂いだした歯車

 最初、山田へ声を掛けたのは、鈴川詩織からだった。山田には、彼女に話し掛けた記憶も無いし、見ず知らずの相手に、それも飛び切りの可愛い子なんかに、簡単に話し掛けられるほど、彼は社交的でもなかった。

「何て言ってきたんだ!」

 それでいて、詩織に何と声を掛けられたか、彼は全く思い出せなかった。それほど、何の印象も与えない言葉だったのだろう。山田には、そんな気の利いた言葉は思い付かなかった。

「何て言ってきたんだ?」

「えっ?」

 山田は当時、まるで知らない、彼と同じ年くらいの、体格のいい男の子に詰め寄られた。男の子は酷く興奮気味に声を荒らげていた。それが、村井四郎だった。村井が、山田に初めて掛けた言葉だった。風も無くしなびた葉っぱみたいな、幟の二三本立った、大学構内にある購買部の前には、たくさんの学生が行き交っていた。それが、村井の大声に驚いて足も止めずに、不審そうな顔だけ向けて通り過ぎた。村井はそんな事は、お構いなしだった。更に凄みを利かせて、困惑する山田に迫った。

「さっきの女の子だよ!」

「さっきの? 鈴川……さん」

「鈴川詩織だよ。それは知っている。そうじゃなくて、彼女が今、何て言ってきたんだ?」

 山田はしばらくその男の子、当時の村井から目を逸らして、鈴川詩織の肩まで伸びた艶やかな黒髪や、あどけない表情を見せる美しい瞳、桃色の分厚い唇、透き通った白い肌を思い返していた。

「思い出せない」

「何で!」

 その男の子は、ぶっきらぼうに言った。

「何で? 分からない」

「君、鈴川詩織の知り合いじゃないのか?」

「いや、さっき話し掛けられたばかりだ」

 山田の場合、唐突に馴れ馴れしく尋ねる、男の子に対する印象は悪かった。が、その時は鈴川詩織と比較するから、その男の子、詰まり村井四郎の評価が下がるのだと考え直した。

「それで、君は?」

「ああ、ごめん。俺、法学部一年の村井四郎、よろしく。君は、山田くんだろう」

 そこで山田は、初めて男の名前を知らされた。

「そうだけど。僕は教育学部一年の山田淳二、――よ、よろしく」

 山田は、村井に釣られてよろしくと答えたが、初対面の相手に、こんな失礼な態度を見せる村井に、少なからず不快感を覚えていた。何がよろしくなのか納得がいかなかった。ただ知り合いも友達もいない、話し相手にも困っていた山田に取って、その時は、その村井ですら貴重な存在だったということも事実であった。

 山田は最初、村井が詩織に付いて来たのだと思っていた。村井は彼女をよく知っている素振りだったし、話し掛けてきたのも詩織と同時期だった。それでいて、やたらと彼女のことを聞きたがる。今、山田が何を話したのか。何と言ってきたのか。とにかく彼女の話が多かった。ところが、詩織と村井とは、全く面識がなかった。恐らく村井は以前から、詩織に目を付けていたに違いない。確かに鈴川詩織は、誰の目にも品性と華やかさを兼ね備えた、魅力的な女の子に映っただろう。それで村井は、山田が詩織と友達だと勘違いし、接近してきたに過ぎないのだった。山田は仕方なく、鈴川詩織に友達だと言って、村井四郎を紹介する。村井の思惑通りになったわけだ。

 それでも、しばらく三人は友達ごっこと呼べるほど、上手くやっていたつもりだった。もっとも詩織の方は、村井に対して露骨に邪険な態度を見せることも、しばしばだった。詩織は、以前から村井が彼女の周りをうろついていたことも、山田を利用して接触してきたことも、全てお見通しだったのかもしれない。山田には、そう思えた。

 ところが、その歪にも絶妙な均衡を保っていた、三人の歯車が狂いだしたのは、薫がその中へ加わった頃だっただろう。そんな何の変哲も無い、薫は割と可愛い方だったが、詩織と比較すれば、やはり見劣りする。どんな美しい葉っぱも、その花には勝てないのだ。薫には、その華が無かった。良くも悪くも、普通の女の子だった。その普通の女の子が、三人の仲を狂わせてしまった。いや最初からそんな仲など存在せず、ただの虚像に過ぎなかったのだ。それを気付かせてくれたのも、薫だった。


「この子は薫、百瀬薫」

 そう言って、山田に薫を紹介したのは、詩織だった。詩織が薫をどこから連れてきたのかは分からない。大方、詩織のことだから、講義室で一人、退屈にしていた薫を目に留め、誘ったのだろう。詩織は別段、そう言った哀れな子羊を救済して、喜びにしていたわけではなかった。彼女に取って、そんな事は日常茶飯事なことだっただろう。偶然にも、薫を見つけた。それだけなのだ。

 当時、既に山田と詩織は付き合い始めていた。それを考えると、なぜ詩織が薫を紹介したのか、山田には理解できなかった。山田は、詩織が彼と同じ気持ちだと思っていた。が、彼女の本心は分からなかった。それは彼女の行動には、山田が不審に思うところが多かったからだった。なぜ山田は、詩織に選ばれたのか。それもその一つのうちだった。薫には悪いが、山田も薫に引けを取らないほど、普通の男の子だった。少なからず、彼はそう信じていた。その普通の彼が、薫を見くびるような目で見てしまった。それもやはり詩織と比べてしまうからだった。しかし、他の女の子と比較してしまうものを、本当の恋愛と呼べるだろうか。それは、山田には分からなかった。彼はそんな事、考えもしなかった。


 その頃、村井はまだ山田と詩織の関係には、気付いていなかったのだろう。もし気付いたなら、すぐ感情的になる村井のことだ。山田の所へ真っ先に駆けつけて、激しい怒りをぶつけるはずだ。村井には、それが全く見られなかった。当然、薫にも秘密にしていたことだった。いや詩織なら、薫に打ち明けた可能性はあった。が、その前に薫は二人の仲を察していたように思えた。そんな素振りを臭わせていた。薫は知っていたに違いない。その事を、村井に告げ口したのは、薫だったのではないだろうかと、山田は思った。

 そんな事が露見すれば、三人の仲は完全に崩壊してしまう。薫がそうする理由は見つからなかった。あるとすれば、仲良しの中に、途中から参加することになる者の疎外感と、嫉妬心くらいのものだ。だからと言って、薫が三人から仲間外れにされたという、事実は無かった。彼らは新入りの薫に、殊更優しく接していた。そのつもりだった。それに、村井などは、詩織に余ほどぞんざいに扱われていたくらいだった。

 三人が四人になって、しばらくの間はまた友達ごっこが、平穏に保たれていた。四人で深夜のドライブに行ったり、昼間は近くの喫茶店で過ごしたりした。彼らはこれまでとまるで変わらない、何の変哲もない日々が続くのだと思っていた。それでも、四人が三人になったり、三人が二人になったりと、明らかにこれまでとは何かが違っていた。

 それは大概、詩織が居なくなるのことが多かった。が、彼女がどこで何をしているのかは、山田にも分からなかった。その度に、村井は鼻息を荒くした。

「どうして、今日は詩織は来ないんだ!」

「そんなの、いつもの事だろう」

 山田は、村井をなだめるでもなく言った。それを尋ねたいのは、むしろ山田の方だっただろう。が、それを考えても仕方がない。詩織が自由奔放なのは、今に始まったことではなかったから、山田は、あまりその事は考えないようにしていた。


 その日、山田は講義室に入るなり、村井に恐ろしい剣幕で詰め寄られた。あの時と同じだった。山田に初めて、村井が話し掛けてきたときのように、むっとした顔をしていた。それは、裏切り者を見るような目だった。唇をふてぶてしく歪めて、色白の頬をときおり痙攣させるくらいに引きつらせていた。鶏小屋の雄鶏が、他の雌鶏を小突くみたいに、突っ掛かってきた。

「何て言ったんだ!」

「行き成り何のことだ」

 山田は、完全に意表を突かれて、村井が怒る理由が分からなかった。

「それは、こっちの台詞だ。何て、詩織に言ったんだ!」

「だから、何の話だよ」

「とぼけるな! じゃあ、何で山田と詩織が付き合っている。何も言わないのに付き合えるわけがない!」

「僕は、何も言っていない。詩織から付き合おうと言ったんだ」

「嘘を吐け! 詩織がそんな事を言うはずがない」

 村井は、完全に頭に血が上って、山田の言う事をまるで聞こうとしなかった。山田は、村井に二三発殴られるのかと思ったくらいだ。村井は、殴らなかった。逆上的ではあったが、人を殴る勇気は、村井には持ち合わせていないのかもしれない。

 山田は、ときおり気の毒そうな顔で傍観する、伏し目勝ちな薫を目にした。村井が怒りだす、直前に話していたのは薫だった。そこに、詩織は居なかった。薫だけが村井と一緒に居た。二人が何を会話していたのか。薫が何と言ったのか。それは分からない。が、三人の仲は、完全に引き裂かれるだろう。特に山田と村井の関係は、絶望的だった。その上、ひょっとしたら山田は村井に負い目を感じて、詩織との間にも亀裂が入るかもしれない。入らないにしても、何かしらわだかまりが生じるに決まっている。薫は、何と村井に言ったのか。山田には、それを問いただすことはできなかった。山田は薫と二人で居るのが、居た堪れなくなって、人の居ない講義室を離れた。村井は、その少し前に怒って出て行った。

 とは言え、山田はこれまで三人の仲を大切に育んできたとも思えなかった。村井への罪悪感が、まるで無いとは言い切れない。が、それは単なる不幸な者への哀れみ程度であった。勿論これまで、多くの時間を一緒に過ごしてきた間柄なのだから、多少の情は湧いていただろう。それが友情だとは、とても呼べなかった。もし詩織が、この事を知ったら何と言っただろう。

「ちょうど良かったじゃない。これで、堂々と付き合えるのね」

 詩織なら、あっけらかんとそう言うに違いない。詩織が居なかったのは、不幸中の幸いだった。それは山田に取っても、それから村井に取ってもだ。彼女なら、村井の傷口に、塩を塗るような真似もしかねなかった。そうなれば、村井だってあの程度の怒りでは済まなかったはずだ。

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