第6話 アンティークの喫茶店

「詩織は、まだ来ないの?」

「言われなくても分かっているでしょう。あの女の名前を耳にするだけで、不安になるの。どうして、あの女がまだ私たちの前をうろついているの?」

 薫は、今にも泣きだしそうな声を出した。褐色の古めかしい、狭いテーブルの端に、ステンレス製の容器に入った紙ナフキンと、店のメニューが、邪魔にならないように立ててあった。

「仕方無いじゃないか。こうなってしまったんだからね。どう考えたって、僕らに責任がある。きっと詩織は、僕らを責めているんだと思うよ」

「だって……」

 薫は何か言い掛けて、急に声を潜めた。店のアルバイトだろう、彼らよりも少し若い高校生ぐらいの、私服に紺のエプロンを着けた女の子が、注文の品を運んで来た。彼らはテーブルの上に、注文通りの品物が、座席の並びや頼んだ順番という訳ではなく、無作為に並べられていくのを、何気なく眺めていた。

「そう簡単に、解決できる問題じゃないよ」

 山田は、ウェートレスが離れるのを待って、話の続きを始めた。山田淳二、村井四郎、百瀬薫の三人は、大学通りに面した、こぢんまりとしたアンティークの喫茶店の、隅のテーブルに陣取って、何か深刻な問題を相談する様子だった。しかし、その事で彼らの話が進展した試しはなく、既に策は出し尽くされ、会話はいつも堂々巡りをするだけだった。どうしてあの女と毎晩、人里離れた場所までドライブしなければならないのか? それが、彼らの抱える深刻な問題だった。

 薄明かりの店の中は、ちょうど人の少ない時間帯を選んで来た甲斐があってか、彼らの他には、一人の客も座っていなかった。元より光源の少ない店内は、その日は一段とひっそりと沈んで見えた。それでも、彼らが座ったテーブルの上には、壁に掛かった古風な電灯から、柔らかな光が届いていた。すっかり落ち着いた気分になった。山田は、ここへ来て珍しくアイスティーを注文した。村井は、いつものコーラを頼んだ。薫は、ホットコーヒーを下さいと言った。三人ともそれをときどきじっと見詰めながら、ただ指先で弄ぶだけで、まだ一口も口を付けていなかった。テーブルの通路側には、遠慮勝ちに伝票が伏せて置いてあった。

「詩織がそれを望んでいるんだから、僕らには拒むこともできない」

「そんなの断れないの?」

「断る? そりゃ。断れれば、そうするけど。こんな状況じゃ、どうすることもできないよ。僕らには、何の選択肢も残されていないんだ」

 山田は冴えない顔で俯いたまま、薫も見ずに、テーブルの上のアイスティーを見るともなく眺めていた。細かい氷の詰まった、飴色の紅茶の真ん中に、太い水色のストローを差した、筒型の大きなグラスの表面が、びっしりと大粒の汗をかいていた。それが、とうとう一筋の流れを成して落ち始めた。グラスの底に敷いた紙のコースターが、喉の渇いた動物みたいに、ゆっくりと冷たい水滴を吸い取った。

「でも、嫌なの」

 薫は、くぐもった声になった。

「僕だって、嫌だよ」

 それを聞いて、村井はコーラのグラスに手を掛けたのを、急に引っ込めた。村井のコーラはグラスも氷も、見た目は山田のアイスティーと全く同じだった。ただやけにどす黒い液体が、その氷を包んで、グラスの内面に細かな気泡を、無数に付着させていた。それが、ときおり気持ちよく弾け合って、微細で清々しい音をさっきまでは立てていたように思えた。

「山田くんは、案外楽しんでいるのかと思った」

「まさか。楽しんでいるだなんて、冗談は止めてくれ!」

 村井はコーラに口を付ける代わりに、驚いたような眼差しを、薫に返した。薫は単に村井から目を逸らして、つんと澄ました横顔を、彼らに向けていた。軽く巻いた前髪の掛かった額から鼻筋を登って、丸みのある顎へたどり着く輪郭の中に、その小さく引き締まった薄い薫の唇が、その日に限って血を吸ったように、妙に艶めかしく山田の目には映った。その唇が、吐息に押し上げられて開いたと思った。

「それで、どうするの?」

「どうするも、こうするもないよ。今夜も詩織の言いなりだ」

 山田は諦めているふうに、きっぱりと答えた。彼は既に飲む気がなくなって、テーブルの上のアイスティーを弄ぶのも止めた。グラスに敷かれたコースターは、あふれた水滴で溺れたみたいに、すっかりふやけてしまった。

「駄目なの、行かなきゃ? 私、今日用事があるんだけど」

 薫は下を向いて、手元は木綿の白い手提げ鞄のポケットを探りながら、ぼそぼそしゃべった。山田は、今度は薫の手提げ鞄を、じっと眺めていた。薫は、いつもはそれとは別の、青い革の物を使っていたのにと思った。詩織もそうだったが、女の子はときどき、いつも身に着けた物を、急に変えてしまうことがある。他にも色々な種類の物を持っているのだから、その日の気分に合わせたのだろう。が、山田にはふとそれが気になった。彼は褐色の革製の鞄を、一つ持っているだけだった。

「駄目だよ。用事なら先に済ませておけばいい。どうせ、詩織が来るのは深夜なんだから」

「だから、嫌なのよ」

 薫は、急に鞄のポケットを探る手を止めた。

「今夜は、どこへ行くつもりなんだ」

「それは、詩織が来てからにしよう」

 山田は村井に答えるよりも、まるで独り言のようだった。

「もううんざりよ」

 薫が黙ってしまうと、彼らの話し合いは、すっかり煮詰まったふうに思えた。ここでいつまで待っていても、昼間に詩織が現れることはなかった。その事は既に三人の中では、常識に変わっていた。

「それじゃあ、私そろそろ行くね」

 沈黙を切っ掛けに、薫が立ち上がった。

「いいよ。僕が払っておくから」

 山田は、薫が手にした財布から、彼女の勘定を数えるのを見て、慌てて右手を上げて遮った。

「でも、悪いから」

「一口も口を付けてないんだから、勿体無いだろう」

「そうだけど……。じゃあ、お言葉に甘えて」

 薫は少し釈然としない態度を露わにしたが、ご馳走様と微笑すると、振り返りもせずに、急いで店を出て行ってしまった。出て行った薫を追い掛けて、店の入り口に仕掛けた鈴の爽やかな音が、山田と村井だけそこへ取り残されたのだと告げるように、静かな店内に響き渡った。 

 山田は先日、間に合わせに買った、無骨で安物の腕時計をゆっくりと覗いた。次の講義までは、まだ十分に時間があった。

「どうせ教室で、暇つぶしするんだ」

 村井は、あまり美味くなくなったコーラをがぶ飲みする間にも、息継ぎの要領で声を出していた。彼らは大学入学当初には、わずかな休憩時間も、やたらと暇を持て余した。別に一番いい席を求めるためではないのに、早く講義室に着きすぎて、暇つぶしに苦労した。それが四人が知り合って、話し相手に困らない程度には増しになったはずだった。それぞれ学部も違っていたが、同じ講義室で並らんで座ることもあった。そんな時以外は、彼らは互いにどこでどんな講義を受けているのか、全く知らなかった。尋ねようと思えば、幾らでもできたが、そういった気持ちは、起こらなかった。

「僕だって、今もそうだ」

「俺は、寝ている」

 そう言った村井はしばしば、教壇から丸見えだろうが、教授が眉間にしわを寄せようが、露骨に机へ顔を伏せて目を閉じていた。それでいて、村井は講義が終われば、嘘みたいに清々しい顔で起き上がる。山田は寝不足気味であっても、昼間の退屈な講義の中で、不思議と眠れなかった。それで、村井の野太さが、ときどき羨ましく思えた。

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