第5話 深夜のドライブ ~車の屋根にしがみつく女②~

 彼らの乗った車は、深夜の人気のない山道を、しばらく疾走し続けた。ところが、幾ら車のスピードを増しても、幾つもの急カーブを曲がり切っても、女を屋根に載せた、不気味な車には追い付けなかった。追い付けないどころか、影も形も見当たらなかった。何もない所に、ぽつんと一本電信柱が立っていた。飢えたように、やせ細っていた。

「どこへ消えたんだ」

「随分飛ばしていたからね。もうずっと先へ行ってしまったのかもしれない」

 山田は、村井の言葉に内心ほっとした。このまま前の車に追い付けなくてもいい。それはそれで、酷く厄介な重荷を下ろしたように思えた。

「あれは、こっちへ向かって来るから、別の車だね」

 山田は遥か前方に、ちらりとその光を認めたとき、まるで彼自身に言い聞かせるように言った。他の三人は彼に言われて、初めてその光に気付いたし、彼の考えに何の疑問も持っていなかった。それが、いよいよヘッドライトの明かりが間近に迫って、対向車の輪郭が鮮明になると、彼らは見るはずもない悪夢にうなされたみたいに、表情を硬直させていた。

 現れた白い車の屋根には、おどろおどろしいあの女が、しがみついていた。女の白い服が、赤黒い血しぶきを浴びて、別の生き物のようになびいていた。それが見る者へ、得体の知れない恐怖と嫌悪を与えていた。

「あの車だ! 間違えようがない」

「どうしたんだろう。戻って来たのかな」

「特に目的地があって、走っているふうでもなさそうだね」

 山田はバックミラー越しに車の後方へ、ちらりと用心深い視線を向けた。もうそこには、その車の赤々とした尾灯の明かりは見つけられなかった。やはりその車は、かなり飛ばしていた。

「あの人、笑っていた」

 薫が急にそんな妙な事を話すから、他の三人は思わずぎょっとし、先ほどの戦慄がありありと蘇った。しかし、その女が口元を歪ませる恐ろしい表情が、他の三人には想像できなかった。

「女の顔が見えたの?」

「そうじゃないけど……。一瞬、女の笑い声が聞こえたの」

「狂っているな」

「まあ、誰だってあんな事態に陥れば、おかしくなるよ」

 山田は何とか平静を保とうとして、当たり前のことばかりを口にした。それは、彼自身を落ち着かせるようでもあった。

「でもね。何で車止めないんだろう」

「さあね」

「きっと止めないんじゃなくて、止められないんじゃないかな。僕だって、あの状況なら、きっと……」

 山田はそこまで口にして、すぐに言葉を濁した。自分でも何を言おうとしたのか、段々と恐ろしくなったのだ。

「どうする? 反対方向へ行っちゃったけど」

「それなら今来た所を、引き返すことになるけどね」

 山田は、どうせそんな面倒なことになるだろうと、大体の察しは付いていた。その時は、大して詩織に反対しなかった。反対したからと言って、彼女の決定が覆るわけでもなし、山田自身もあの女の結末に、全く興味を示さなかったとは言えなかった。だからと言って、危険を顧みず、何でもかんでも興味本位に首を突っ込んでいたら、やぶ蛇にならないとも限らないのだ。

「あの女、凄いよな。あれだけ血だらけになっても、まだ屋根にしがみついていたぞ」

「大怪我しているのかな?」

 村井と薫は、さっきその車が去った後方を、何度も振り返った。が、それが女の血なのか、それとも車の運転手、あるいは同乗者の物なのかは分からなかった。あれだけ力強くしがみついているのだから、女は瀕死の重傷を負っているわけではなさそうだ。当然、頭部や顔面の怪我なら、多量の出血があっただろうし、あの女が車の屋根に、どんなふうに上がったのかを考えれば、女が全くの無傷だとは言い難い。恐らく女は、その車に轢かれそうになったのだ。それが故意なのか、事故なのかは分からない。衝突の弾みで、車の屋根まで飛ばされ、そこで必死に屋根に掴まったということが、誰にでも簡単に想像ができた。

「結局、振り落とそうとしたんだ。酷い話だな」

 村井は、にやにやしながら、本気で避難しているとも思えなかった。

「轢き殺そうとしたのかな?」

「分からないけど、事故だったのかもしれないよ。怖くなったんじゃないかな」

「やっぱり酷い話だ」

「それで、追うの? 追わないの?」

 山田は、詩織の問いには何とも答えなかった。いや答えられなかった。あの車を追い掛けたからといって、何かあるわけではない。いつしか、山田はあの車の同乗者と同じで、あの車から、あるいはあの女から逃れられない心境になっていたのかもしれない。それが何だか全て、詩織の所為に思えた。あの女がどうなろうと、彼らには全く関係がない。しかし、山田は知らず知らずのうち、あの女に詩織の姿を投影させていた。彼らの車にしがみついていたのは、詩織だったのではないかと思った。

「今から追い掛けても、間に合わないよ」

 沈黙を続ける山田の代わりに、薫がしゃべった。薫の声に、詩織はすっかり白けてしまい、詰まらなそうに体を伸ばして、緊張を解すように伸びをした。それが終わると、窓の外へそっぽを向いてしまった。その窓の外は単純な闇だった。


 彼らは小休止のつもりで、そこへ車を止めたのではなかった。この先どうするのか、彼らに選ぶほどの選択肢は残っていなかった。取りあえず目的地だけは、決めておく必要があった。当然、その選択肢の中に、屋根に女がしがみつく車を追跡するという項目は、見当たらなかった。

 そこはちょっと休憩するには、いい場所だった。昼間はこれでも、そこへ停車する車はあるのだろう。十台は余裕で収まる新しい駐車場があったし、自動販売機も設置されていた。明かりは点っていなかったが、公衆便所も見えた。しかし、深夜で辺りは闇に囲まれていたため、何の駐車場かは分からなかった。とにかくそこは完成して、まだ日が浅い場所だから、少し安心だった。

 そこには、この場所の存在を示すための外灯が、一灯点っていた。その外灯の足下に、飲料の自動販売機が、静かに陳列棚の明かりを光らせていた。駐車場は道脇の斜面を、三角形に切り崩した形で、その端の方までは外灯の明かりは届かず、消えて無くなりそうだった。彼らの他には、車は止まっていなかった。もっとも他に車が居たなら、彼らはそこには停車しなかっただろう。彼らの車は、その駐車場と山道との境界に近い所へ、邪魔にならないように止まっていた。

 山田は車の扉から手を離すと、そのままその側に立って、やけに大きい外灯の光に照らされた駐車場を見回していた。ふと後部座席の扉が開いた。その途端に、薄暗いアスファルトの地面を小さな黒い影が、車道の方へ猛然と這って行くのが、彼の目に入った。

「誰か捕まえて!」

 車から降りてきた薫が、大声で叫んだ。黒い影を追った先に、突然と車のヘッドライトの光が射し込んできて、黒猫の輪郭が鮮明に浮かび上がった。暗闇をつんざく急ブレーキの響きと共に、黒猫の影をかき消し、車が止まった。黒猫は轢かれたのか、山田たちの所からは分からなかった。

 山田は、一歩も動けなかった。薫も村井も、最後に出て来た詩織までもが、じっと黙って様子を窺っていた。間もなくその車から、男が現れた。山田は一瞬、あの車ではないかと肝を冷やした。白い車体だが、その屋根に女は、しがみついていなかった。山田は、それを彼らの車の側で突っ立って見ていた。近寄れなかった。男に気付かれるのは不味いと思った。男は、山田と同じくらいの年格好に思えた。車の周りを体を曲げて、見て回っていた。もし猫を轢いていれば、何かしら男の態度に変化が見て取れるはずだ。

 山田は、気が気でなかった。身動きできずに、ただ傍観することしかできない、彼自身を情けなく感じていた。皆も彼に追従していた。もちろん飛び出して行ったのは、その猫の方だ。猫自ら選んだ運命だった。彼らに責任があるわけではない。

 しばらくして、男は車に乗ると、何事も無かったように走り去った。車には、男の他に何人か同乗者が居たように思えた。

 黒猫は、彼らの車に帰って来なかった。当然山田は、酷く動揺していた。が、意外にも詩織が黒猫の不遇に、激しい衝撃を受けているように思えた。帰りの車中でも、何を話し掛けても上の空のようだった。薫は、あんなお利口さんな猫が、車に轢かれるはずがないと言った。が、それ以上は黒猫のことは、一言も口に出さなかった。山田も村井も彼ら自身では制御できない事柄が、頭の中にあふれていた。しかし、彼らもまた、まるで腫れ物にでも触るように、猫のねの字も口にしなかった。

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