第4話 深夜のドライブ ~車の屋根にしがみつく女①~

 山田は車を車道に戻そうと、ゆっくり動かし始めた。不意に車の後部ガラスが輝いて、車内が明るくなった。まだ完全に動揺の収まらない、彼らの横顔が暗がりから、はっきりと照らし出された。先ほどまで、一度も出会わなかった、後続車が突然と出現したのだ。

「車だ!」

 にわかに顔を明るくした村井が、眩しい光に片目をつぶって、嬉しそうに叫んだ。

「あれに付いて行ったら、いいんじゃない」

「駄目だよ。もう行っちゃった」

 暗闇から現れた白い車は、猛スピードで彼らの前を通り過ぎてしまった。尋常ではない速さだった。

「ちょっと、淳二がぐずぐずしているからいけないのね」

「そんな事言ってもな。今、出そうとしたところなんだから、無理だよ」

 山田は急いで発進させたように、車は荒々しく前進した。走り始めから、ぐーんとエンジンが低く唸って、車はスピードを上げた。静かな山道がずっと続いた。それで、みんな前方ばかり見て、すっかりさっきの車を捜すふうに黙ってしまった。道端に立て掛けた、スピード落とせの新しい看板が、ガードレールに、ぐるぐる巻きの針金で留めてあった。

「さっきの車、どこへ行ったのかな?」

「もう見えないんだから、追い付けないほど、先へ行ってしまったんだね」

 山田は、詩織に応えるように、そこでアクセルを強く踏み直して、車を加速させた。

「それに、あの女も居なくなった」

「嫌ね。もう、それ触れないようにしていたのに……」

 薫は口を歪めて、不機嫌な顔をした。黒猫は、薫の膝の上で抱かれていた。そこが、すっかり黒猫の定位置になってしまった。が、ようやく落ち着いたところを、また薫がぎゅっと力を込めたから、黒猫は、にゃーと鳴き声を上げる代わりに、牙の尖った口を開けただけだった。赤い舌まで見えた。

「俺も俺も、それ言おうか言わないか迷っていた」

 村井は、彼一人が仲間外れにされた気分になって、強引に話に加わった感じがあった。

「村井くん、本当にそう思っている。単に忘れていたんじゃない?」

 村井は慌てて頭を振ったが、薫には何も言い返せなかった。いつもそうだった。口達者な薫には、何かと頭が上がらなかった。

「あっ、また車だ!」

 後部ガラスが再び輝きだすと、今度は誰もが、すぐに後続車だと理解できた。それだけ分かると、後は前だけ見ていた。

「案外、ここを通る車は多いのかもよ」

「そうだね」

 山田は、直感的に不安を覚えた。得体の知れない不安だった。それは、いつも通る、何でもない帰り道を歩いていて、ふと足下の排水溝の蓋穴の向こうに、闇を見つけたような不安だった。あるいは、賃貸マンションの流しと冷蔵庫の間に、暗く狭い透き間があることに気付いたときの些細な不安だった。先ほどのこともあってか、山田はかなり心配性になっているのだと思った。

「でも、随分飛ばしているな」

 山田の不安は、まだ彼の足下で小さく燻っていた。彼らの車の後方へ現れた、ヘッドライトの光はぐんぐん近づいて、たちまち車の後ろまで迫ってきた。眩しさのあまり、その車体までは確認できなかった。

「ちょっと危ないよ」

 薫は、酷く不安そうに何度も振り返って、後ろの車を覗き見した。

「これは、道を譲った方が良さそうだね」

 山田が急いで方向指示器を点滅させ、道脇へ車を寄せようとしたとき、突然と猛烈なエンジンの音が起こって、後ろの車は一気に加速しながら、乱暴に彼らの車を追い越して行った。その車間も、すぐ近い所をぎりぎりで走り抜けたように思えた。彼らは皆、一瞬の出来事に体を強張らせ、その車に釘付けになった。既にその車は見えなくなっていたが、その光景は、彼らの脳裏に焼き付くほど異常だった。

「今の車、屋根に女の人が、しがみついていた」

 詩織が運転席の背もたれに、白くか細い腕を突いて、前に乗り出し、興奮気味に話した。もっとも彼女の場合は、恐怖心より好奇心の方が、多分に勝っていた。暗闇から飛び出したように、茂みが迫ってきた。道のすぐ脇まで数本の幹が生えて、その無数の枝分かれした所が、車道の真上まで伸び、道の両端から枝が手を繋いだみたいだった。そのトンネルになった所を、彼らの車は潜り抜けた。

「そうだね。僕にもそう見えた」

「白い車に、赤い服だった」

「そうじゃないよ。白い服が血に染まっていたんだ!」

 山田はこんな状況の中でも冷静に、薫の間違いを訂正していた。が、薫自身は、自分が何を言ったのか、何と改められたのかさえ、上の空だった。

「何だったんだろうね」

「け、警察に通報しなくていいのか?」

 村井は居ても立っても居られず、そんな事を口にした。が、村井自身が警察に電話することには抵抗があってか、携帯電話を出す気は、更々ないようだった。

「警察って! ちょっと何言っているの。そんな事したら、こっちが怪しまれるじゃない。分かっているでしょう! もうしっかりしてよ」

 薫は村井をにらみ付けて、目を見開いて言った。薫には、通報するという考えは、皆無らしい。

「事故かな?」

「事故? そんな悠長な話じゃないよ。殺人事件だって有り得る」

 山田も、いつの間にか声を荒らげていた。

「でも、まだ生きていた」

 詩織は彼女自身も気付かないうちに、その端正な顔に、不気味な笑みを湛えていた。が、山田には、詩織の「まだ生きていた」と言ったのが、どこか清水の一滴に似て、心の底に染み渡るように思えた。あんな絶望的な状況にあっても、生きてさえいれば、それ自体が一つの希望のように、彼の胸に響いたのだった。それでも、山田の発した声は、現実的だった。

「そうだけど。あんな事していたら、本当に死んでしまう」

「どうやったら、あんな事になるんだ」

「そんなの知らないよ」

 山田は、考えのない村井に対して、いつしか冷淡な言葉を投げ付けていた。村井の方は、山田の声には、まるで無頓着だった。それほど先ほどの光景は、凄まじいものだったのだ。

「ねえ、追い掛けなくてもいいの?」

「追い掛ける? 追い掛けるって、あれを? 止めてくれ。面倒なことに巻き込まれたくない」

 山田は苛立ちを隠さずに、詩織へ早口で言った。彼は知らず知らずのうちに、ハンドルを握る手に力がこもっていた。それで、始終肩をそびやかし、首を曲げて体をほぐすみたいにしなければならなかった。

「でも、気になるじゃない。淳二は気にならない?」

 詩織は、山田を誘惑するような声音で、それも言葉巧みに、彼の弱みを上手くくすぐってきた。

「全く気にならないと言えば、嘘になるけど。僕はね。詩織と違って、好奇心より恐怖心や警戒心の方が強いんだ。それに、野次馬根性なんて悪趣味だよ」

「随分な言い方なのね」

 詩織はそう言ったが、別に怒った様子を見せなかった。

「あの人、本当にどうなっちゃうのかな」

 薫のは、単なる好奇心から漏れた言葉だった。別に、その屋根の上の女を、気遣うつもりもないらしい。それでも、薫はおどおどして、その小さな唇は引きつったままだった。

「分からないよ」

「とにかく追ってみてよ。離れていれば、大丈夫だから。それに、あの女が車から落ちて怪我したら、不味いのね。助けなくていいの?」

「だから、嫌なんだよ!」

 この頃、山田は随分と神経質になっていると自覚していた。なぜいつもこんな事になってしまうのだ。なぜわざわざ問題を招くような行動を、詩織は毎度促すのか、まるで理解できなかった。

「淳二も薄情ね」

 詩織の声には、軽い侮蔑を含んでいた。山田のことを臆病だと責めているのか、それとも卑怯者呼ばわりするのか。山田がそんな詩織の態度には、腹が立った。が、一々怒ったりはしないつもりだ。

「別に僕は、自分が善人や優しい人だなんて、少しも考えていない。――分かったよ。やばいと思ったら、すぐに引き返すからね」

「そう来なくっちゃ!」

 詩織の声が、薄暗い車内へ嬉々と響いた。斜めに突き刺さった、スピード落とせの看板が、カーブミラーに張り付けてあった。

「おい、本当に行くのかよ」

「ねえ、大丈夫なの?」

「知らないよ。詩織に聞いてくれ」

「私に、そんな事聞かれても困るのね」

 山田は、詩織が座席の背もたれに体を預けるのを待って、車のスピードを上げた。これまでの走行が、まるで嘘だったように、勢いよく加速し、厄介な曲がり道も難無く通り抜けた。ヘッドライトの照らす山道の景色が、目の前で目まぐるしい早さで展開し、車の真横まで迫って、たちまち消えてなくなった。

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