第3話 深夜のドライブ ~白い服の女②~

「このまま、あれがずっと続くんだろうか?」

 村井は、たくましい背中を臆病に丸め、嘘みたいに怖々とした表情を作って、暗闇を見詰めたまま、まだその女が見えないか窺っていた。それは、本気で捜しているわけではないらしい。

「一生、続くってことは無いと思うよ。恐らくね……」

 山田はそう言ったが、彼の言葉には、何の信憑性の感じられなかった。そんな事は、彼も承知していた。

「じゃあ、早く何とかしてよ」

 薫は先ほどの喧嘩を再開するふうに、顎をしゃくって、いたずらに山田へ突っかかってきた。

「何とかって、あんなのどうすればいいんだ?」

 これには、先に村井が口を挟んだ。その時には、村井は既に腕組みはしていなかった。それでも、手の平を見せたり隠したり、灰色のカジュアルパンツの腿の辺りを、無意味にさすったりして気を紛らわせていた。

「僕らの力じゃ、何も出来ないよ。成り行きに任せるしか……、あの女次第じゃないかな」 

 山田の声は、ほとんど諦めに近かった。

「そんな無責任な……」

 薫は、今にも泣きだしそうだった。いつの間にか、薫はその胸に黒猫を抱きかかえていた。そんな弱々しい動物にすら、すがっていたいのだろう。黒猫は薫の膝の上で身動きも出来ずに、すっかり大人しくなってしまった。

「そもそも、あの女は誰なの?」

「知らないよ」

 山田は厄介な山道を運転しながらも、詩織へ反射的に答えていた。

「じゃあ、全然私たちと無念な人なのね」

「それは……、そうかもしれない。関係がある方が、珍しいことなんだ」

「無関係なの? はっ? 止めてよ-! そんな、何なのあの女、本当に大迷惑よね」

 薫はむっとして、真っ暗な窓の景色を眺めるように顔を近づけ、嘆息を漏らしていた。間もなくして、またあの女が見えた。薫はそれを一瞬、目で追って確かめてから、視線を逸らせ、肩をすぼめた。その女の姿を見ているだけで、気が滅入ると言う様子だ。村井がまたポケットに手を入れると、リップクリームを出した。食べているんじゃないかと思えるほど、分厚く塗っていた。山田は唇をなめて、カサカサするのが不快だった。口の中もねっとりとして、喉が渇いた。

「嫌ね。まだ居る」

 薫は、露骨に嫌悪の色を見せた。他のみんなも一通り、その女の方を認めた。女は最初に現れたときと、少しも変わらない姿をしていた。右腕を肩まで上げて、その細い腕が田畑に立てられた案山子くらいに、何の力も生命も感じられなかった。

「あれ、何を指差しているんだ?」

 村井は、その時には女の方を見ていなかった。別に、何か特別な考えがあったわけでも無さそうだ。

「知らない。そっちに何かあるんじゃない」

 詩織が素っ気なく言った。彼女は前を向いて、女の方を確かめる仕草もしなかった。

「そうだよ。向こうに何かあるんだよ」

「何が?」

 薫は、冷淡に返した。が、それも思わず口を突いて出た声のようだった。

「分からないけど。そっちに行けば、あれから逃れられるんじゃないか」

 村井は何か思い付くと、すぐにそれを口にしたがる。しかし、はっきりとした根拠があるわけではないから、肝心なところは全て曖昧だった。それでも、全く的外れだと言うこともなさそうだ。メントールの清涼な匂いが、漂ってきた。あまりいい気分にはなれない。

「そんなに都合よく行かないよ」

「絶対に罠だよ。きっと良くない事が、起きるに決まっている」

 薫は、わざわざ危険を冒すような村井の考えるには、当然反対だった。

「でも、このままじゃ。どうすることもできないよ」

 その女が右腕を伸ばして、向こうを指差すのには、何らかの意図があることは、誰の目にも明らかだった。が、たとえ何かそれに意図があるとしても、それは間違いなく不吉なことだ。

「きっとね。地獄へ引きずり込もうとしているのね」

 詩織は、にやにやしながら、そんな怖いことも平気で言った。その時、ちょうど山田がハンドルを左へ切って、蛇がとぐろを巻いたみたいな急カーブを曲がったから、みんなの体が、本当に崖下へ引きずられるように感じて、恐ろしくなった。

「ちょっと怖いから、そういう冗談は止めてよ。もし本当にそうなったら、どうするの?」

 怖い怖いと気をもむから、余計に怖くなるのだ。が、薫の場合は、すっかりその恐怖に心を奪われ、血の気の引いた顔で、そうしていないと落ち着かないみたいに、両手で顔中を、始終ぱたぱた扇いでいた。

「でも、確かめてみないと分からないのね」

 詩織の言うように確かめるとなると、あの女の前で、そうでなくとも、女の姿が視界に入る範囲で、車を止めなければならない。しかし、それだけは勘弁して欲しいと山田の意見に、一同賛成だった。それで車は止めずに、何とか女の指差す所を確かめる手段はないかと、あれこれ模索し始めた。窓ガラスの縁が、埃が積もった所を、雨で洗い流したような染みが出来ていた。

「そんな簡単なことじゃないよ。外は真っ暗だからね」

「でも、何とかしないと。このままずっと付いて来るんだぞ! あれ」

 村井の言う通りだ。あれがずっと付いて来るとなると、話は少し変わってくる。山田も必死に考えようと、しばらく黙って運転を続けた。女は道路の右端に立っていて、それが示す場所は、自ずと左車線の向こう側になる。崖がある方だ。だからと言って、そんな場所を安易に探すのは、酷く危険を冒すことになる。一歩間違えれば、真っ逆様に転落だ。

 それでも、とにかく道幅ぎりぎりまで車を寄せて、それで左端を探索するしか無さそうだ。車は不自然な所を通るから、どうしてもぎこちない走りになった。時にはせり出した枝や雑草に、車体をぶつけて、嫌な音を立てた。山田はその度に、「車、大丈夫かな」と気をもんだ。村井は暢気なもので、

「このくらいなら、平気だろう。今はそんな細かいこと、気にしている場合じゃない」

と、まるで他人事のように言った。

「村井くんは、口を動かしている暇があるの? そんな暇があったら、しっかり左側を見ていなさい。村井くんが、一番よく見える席に居るんだからね」

「はいはい。そんな事、薫に言われなくても、ちゃんと見ているよ」

 村井は半ばやけくそに、突っ掛かってきた薫に言い返した。が、それもすぐに気を変えて、窓の外へそのくりくりした黒い目を懲らした。

「でもな。暗すぎて、さっきから何も見えないんだよ」

「何も見えない? 車のライトがあるんだから、見えないことないだろう……」

 山田は村井の言葉で、その方を不審そうに眺めた。彼の目にも、道の左側は完全な暗闇が広がるだけで、何も映らなかった。

 ところが、山田はすぐにある事に気付いた。それと同時に、黒猫が雷鳴から生まれたような、恐ろしい鳴き声を上げた。その小さな体のどこに、そんな力を蓄えていたのかというくらい、凄まじい鳴き声だった。山田が気付くよりも、黒猫の方が一瞬早かったのかもしれない。

「それ、見えないんじゃなくて、何も無いんだよ!」

 山田が、危ないと叫ぶと急ブレーキを掛けて、ハンドルを握った手を時計回りへ力任せに曲げた。急激な車の減速によって、体だけが惰性で、前方へ突き飛ばされそうだった。彼らは皆、目が覚めたような表情を浮かべ、体を硬直させ、声も出なかった。正直、危なかった。あと少しブレーキを踏むのが遅れていたならば、車ごと崖から転落していただろう。

 山田は息を突く間も無く、慌ただしく振り返った。あの女が見えないか、確認したのだ。車の後方は、完全な闇一色だった。何の白い物も浮かんでいなかった。怪しい影さえ無かった。

「急に危ないじゃない!」

 詩織は正気を取り戻した途端に、不満を爆発させた。山田の背中で、頭ぶつけたじゃない、足が痛い、腰も打った、首も痛めたなどと早口に言って止まらなかった。

「ぎりぎりだったな。――でも助かった」

 山田の顔は青ざめていたが、その口元に苦笑いが戻った。

「そうだけど」

「助かったんだ。助かったんだよね」

 薫は、黒猫をぎゅーと強く抱きしめ、彼女の細長の目は涙ぐんでいた。

「あの時、黒ぴーが鳴いたからだよ。黒ぴーのお陰ね。助けてくれたんだ。この子を乗せて正解だった」

 薫は、すっかり黒猫の虜になっていた。

「そうかもしれないね」

「あらら、薫も現金ね。さっきは、あれほど黒ぴーのこと、追い出そうとしていたのね」

 詩織は、薫に黒猫を取られてしまい、それが気に食わないと言わんばかりに、嫌みっぽく言った。最後に村井だけは、二重顎になった、ふくよかな丸顔に、まだこの混乱が収まらない表情を描いていた。

「おい。転落したら、俺が真っ先に落ちて行くじゃないか。何でだよ!」

「村井くん、しっかりしてよ。落ちたら、みんな一緒でしょう。先とか後とか関係無いの」

「とにかく、みんな助かった。それでいいじゃないか」

「結局、何だったんだ。――やっぱりあの女が崖から落とそうとしたんだな」

 村井は、ようやくいつもの調子を取り戻して、怖いのは苦手な癖に心霊とか怪談めいたことを、無闇に口にしだした。

「止めてよ。そんな怖いこと言うの」

 怖い話が苦手な薫は、思った通りの反応だった。薫は顔を曇らせ、恨めしそうに村井をにらんだ。

「別にそうとも限らない」

 山田は、村井と同じ事を考えていた。が、薫を慰めるつもりはないにしても、それを肯定する気分になれなかった。肯定するのが、恐ろしかった。

「だからと言って、どう見てもあの女が助けてくれたって、訳でもなさそうだ。実際、死に掛けたんだからな」

「もういいから、いつまでもこんな所に居たくない!」

 薫はまだ瞳を潤ませ、その事を切に訴えるようだった。黒猫は薫にしっかりと抱きしめられ、にゃーと鳴き声を上げることも出来なかった。

「そうだね。こんな所、早く行こう」

 山田は薫に答えるように、それから車内の他の二人にも呼び掛けるように言った。

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