第2話 深夜のドライブ ~白い服の女①~

 彼らの車は、山の小さなヒッチハイカーを乗せ、しばらく黒い山道を走った。ポケットを探っていた村井が、そっとその手を出した。手には、何も握っていなかった。道の勾配が先ほどよりも明らかに厳しくなり、ますます危険なカーブが多くなった。また急なカーブが迫って、車が車体を曲げると、大きく外側に遠心力が働き、体が強く引き寄せられた。それが連続に起きるから、誰かに激しく体を揺り動かされているような錯覚が起こった。すると、さっきまで薫の足元で、大人しく眠っていた黒猫が、急に奇声を吐いて、暴れだした。外敵を前にした、獣さながら猛然と威嚇の姿勢に構えた。背中の毛を逆立たせ、時には怒ったふうに、人と同じ声で恐ろしく叫んだ。黒猫は、フーフー唸って熱い息を吐き捨て、全く興奮が収まらなかった。

「もう何とかして!」

 黒猫の側に居た薫が、一番最初に音を上げた。こんなの手に負えない。早く追い出しておけば、良かったんだと恨み節まで聞こえてきた。

「ちょっと黒ぴー、騒がないで。追い出されるよ」

 詩織が必死に黒猫をなだめようとするも、まるで言うことを聞かなかった。それどころか、どうかすれば頭を撫でようと差し出した、彼女のか細い手に、尖った牙を向けて、黒猫は身構えていた。詩織も思わずその顔に恐怖の色を見せ、出した手を弾かれたふうに引っ込めた。

「どうしたんだ。さっきまで、あんなに大人しかったのにな」

 村井も黒猫の異常な態度に、ただ困惑するばかりだった。こんな有様では、とても黒猫の擁護はできない。村井がダッシュボードのボックスを開いた。無造作に突っ込んだ、包帯や絆創膏、眼帯なんかが見えた。村井は、また蓋をきちんと閉めた。

「あんまりみんなでいじめるから、機嫌を損ねちゃったのかな」

 車を運転する山田も、次第に心配になった。ただ彼には他にも、目の前の曲がりくねった山道と対峙し、運転に集中しなければならなかった。安全に運転し、適当な場所にたどり着くことが先決だった。途轍もなく巨大な緑の岩が、地面から生えた茸みたいに突っ立っていた。

 すると、さっきまで獰猛だった黒猫が、何かを捉えたように、前足を低く反らし、後ろ足を高く踏ん張ったまま、ぴたりと動きを止めた。詩織と薫、村井の三人は、黒猫の様子に異変を感じて頭を上げ、車の進行方向に視線を集めていた。ヘッドライトが放つ眩い光線の中で、アスファルトの路面と、森の木々の葉っぱが、生き物みたいに蠢き合って、車の後ろへ走って逃げた。

「何が居るって言うの?」

 その時、光の届くぎりぎりの先に、何か白い物が、道の端に浮かんで見えた。もちろん車を運転する、山田の目にも入っていただろう。が、その事を言葉にしたのは、助手席に大きな体を不安で縮めて、眉をハの字に曲げた顔で座っていた村井だった。白い服だ! 村井の声は、そんな風に何の変哲も無い物を発見したくらいに、少しの恐怖も緊迫も感じさせなかった。それは、紛れもなく白い服だった。真っ白なワンピースを着た女が、山道の真っ暗な所に一人立っていた。

 山田は初め、そんな女の人は見なかったと言った。女は立って、こちらへ正面を向けていた。向けていたが、顔は分からなかった。あれは、人じゃない。それが、みんなの最終的な見解だった。女は右腕だけ肩の高さまで、だらしなく上げたまま、どこかを指差していた。四人の乗った車は、女を無視して通り過ぎた。

「止まらなくていいの?」

 白い服の女から車が随分と離れた後に、村井が唐突に口を開いた。幾分と戦慄を帯びた、それでいて矛盾を含む声だった。

「止まる? あれを乗せると言うのか。この車に? 本気で? 止めてくれ! ――野良猫を拾うのとは、訳が違う。関わらない方がいい。あんなの乗せたら怖いことになる」

 山田は上半身が凍り付いたような格好をして、村井を一瞥した。その目も村井を不審そうに捉えて、力んで開いていた。

「もうこの車、満員なのね。あれ、乗せる余裕なんてないのね」

 詩織が、冷たく言い放った。薫は黙ったまま、それでもおどおどしながら、成り行きを見守っていた。森が気まぐれで波打ったみたいに、そこに脇道が出来ていた。誰も分からないように、道は茂みでほとんど隠れていた。

「でも……」

 村井は一度未練がましく、女が立っていた方へ振り返った。そこには、恐ろしく濃い闇が、彼らの乗った車に迫って来るように広がり、車の尾灯の明かりをかき消そうとしていた。村井は背筋がぞくっとして、目を背けていた。そこから、恐怖が追い掛けて来るように思えたのだろう。

 しばらく車内に、それから車外の景色にも静寂が続いて、彼らの誰もが恐怖は、遠くへ過ぎ去ったのだと考えていた。女を見てから充分走っていたし、これだけ離れれば、大丈夫なはずだ。随分と長く感じられたが、時間にすれば、ものの数分も経過していなかった。

「あれ!」

 突然、村井がそう叫んだ切り、言葉を失った。その「あれ!」の意図するところを、他の三人は即座に理解した。再び暗闇の中に、白い影が浮かんで、全く同じ格好をした女が、道端に一人立って現れた。ただ立って、やはり右腕だけを上げているのも同じだった。同じ女だ。それは、まるで何かを警告しているふうにも思えた。

「どうして? どうして、あの女が居るの? さっき追い越したはずじゃない」

 女の前を難無く越えてから、薫がやっとの思いで声を絞り出した。

「そんなの知らない」

 詩織は、こんな恐ろしい状況では、自然と険のある調子になった。それでも、他の三人に比べれば、彼女だけこの不可解な現象を前にしても、少しも動じていなかった。

「だから、関わりたくなかったんだ!」

 山田は慌ただしくハンドルと操ると、左に大きく切った。彼はどちらかと言うと恐怖というより、焦燥に近いものに取り憑かれていた。

「もっと飛ばしてよ!」

「そんな事言っても、こんな見通しの悪い道じゃあ、これが精一杯なんだ」

「とにかく急いで! 早くあの女から離れてよ」

 薫は、前の席に乗り出すほどの勢いで、大声を張っていた。そうすれば、その不吉な女から逃れられると思っていた。彼らの乗った車は、薫の声に応えるかのように、急速にスピードを増した。それで、幾分かはその女からの戦慄が和らぐ気がして安心した。杉の木が数本、道沿いに並木のように立っていた。頼りないほど幹が、細く長かった。

 が、それで終わりではなかった。車がまたきわどいカーブを、車体の側面を押し付けるふうに曲がって、ヘッドライトの光が一直線に伸びると、その先に白い女が出現したのだ。

「きゃっ、あの女が立っている!」

「どこかで、道を間違えているんじゃないか?」

 村井は、さっきその女を乗せようと言ったのが、この拭い切れない恐怖を目前にして、まるで嘘だったふうに、村井の頭から全て消し飛んでいるみたいだった。

「一本道だから、そんなはずない。そんなはずないんだ」

 道を間違えるはずがなかった。その事は、彼らの誰も重々承知していた。承知していたが、その事ですら、どうかすると疑わざるを得ない状況だった。この異常な現象に困惑し、みんなすっかり怖じ気付いていた。ただ一匹、黒猫だけは薫の足元で、勇敢に身を構え、しっかりと前方を見据えていた。冷静なのは、その猫だけだった。その女は、彼らの車を待っていたとばかりに、真っ暗な道脇に立っていた。まるで先回りしているように、そこへ待ち構えていたのだ。その女の前を慌てて通り越しても、そこから離れるように、車のスピードを上げて走っても、女は何度も現れた。しかし、その女から逃れるには、このまま前進するしかないのだった。


「これって、ループしているんだ。同じ時間を何度も繰り返すってやつだな!」

 村井は助手席で腕組みして、真面目にそんな事を考えているようだった。

「そんな現実味のない話は、論外だろう」

 山田は、いつもよりハンドルを忙しく動かしながら、村井のSF的な説をきっぱり否定した。車は、次々と曲がりくねった難所を猛スピードで走った。あちこちから、わっと驚かすように、全く彼らではどうすることもできない力で押されるので、ますます身体は恐怖に強張った。落石注意の古びた標識が、道端にぽつんと立って、彼らを見ていた。

「じゃあ、同じ所を分からないうちに、ぐるっと回っているんじゃないか。知らないうちに、同じ道に戻ってしまう、騙し絵みたいな道なんだろう」

「それも違う。車はちゃんと進んでいる。この道だって、さっきと同じ場所を通っているわけじゃないよ」

「じゃあ、どうだって言うの?」

 村井の代わりに、薫が苛立ちを募らせ、声は震えていた。彼女の細い目は今にも泣きだしそうなくらい潤んで、鼻をつんとさせ、小さな口は怒ったふうにきつく結んでいた。

「だから……」

「だから、何!」

「あの女が追って来ているんだよ。追って来て、先回りしているとしか考えられない」

「馬鹿じゃない。そんな事、有り得る? 誰が車より早く先回りできるの」

「だから、言っているじゃないか。あんなの人間じゃないんだよ」

「人間じゃない! 面白いこと言うのね。人間じゃなきゃ、何?」

「人を馬鹿にしたような、口の利き方をするなよ」

「はいはい。私に八つ当たりしないでよ」

 薫は助手座席の背もたれから手を放すと、車内の天井を仰ぐように、勢いを付けて体を倒し、黙ってしまった。

「ちょっと、こんな時に喧嘩しないで。今は、どうやってあの女から逃げるか、その方法を考える方が先なのね」

 二人のやり取りを見兼ねて、詩織が間に割って入った。

「そりゃそうだ」

 山田はまだふて腐れて、皮肉っぽくなった。

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