死体のヒロイン

つばきとよたろう

第1話 深夜のドライブ ~猫轢いたかもしれない~

 旧式の外観も冴えない、白い自家用車が狭く陰気な所を、こそこそと走り回るようだった。洞窟を探検するみたいに、暗闇のあっちこっちを照らした。深夜の山道は道幅が極端に細く、危険なカーブも多かった。その急カーブに現れる妖怪染みたカーブミラーや、歪に曲がりくねったガードレールに、ヘッドライトの明かりが反射する他は、視界の中で輝く物は存在しなかった。いやひょっとしたら、獰猛な獣が黒い茂みの陰から、鋭い眼光をぴかぴか光らせ、じっとこちらを窺っていたのかもしれない。しかし、男女四人でドライブを楽しむ彼らには、そんな事は思い付きもしなかっただろう。

 わざわざ夜中に、こんな山奥の道を通る車も少なかった。誰も居ない横断歩道の前で、風に吹かれて斜めに立った信号灯が、不意に青色から黄色に変わった。町を離れ、山道へ入った途端に、先行する車の毒々しい赤の尾灯も、後続車の目もくらむようなヘッドライトの光線も消えてしまった。あんなに賑やかだった繁華街の外灯も、道路沿いの高いビルと看板の照明も、今は恋しく感じるくらい寂しい所だった。緩やかな上り坂になって、まだ十五分も走っていなかった。

 車体が不自然に揺す振られ、その異変に運転手以外の乗車者が驚くか、驚かないうちに、恐ろしい急ブレーキの響きと共に、体が激しく押し出される衝撃を受けて、車が止まった。ダッシュボードに取り付けた、天神さまのお守りに、ストラップの赤い首輪を着けた白い犬が抱きついていた。車を運転していた山田淳二が、叫ぶように声を上げた。ハンドルを握ったまま、焦るうちに辺りを見回し始めた。切れ長のどこか涼しげな目に、すっと鼻筋の真っ直ぐに伸びた、きめの細かい白い肌に、血色の良い大きな唇を蓄えた、それでいて、どこか大人しげな印象を与える彼の顔が、車体の左右を必要以上に確かめていた。

「淳二、危ないじゃない!」

「やべー! 猫、轢いたかもしれない」

「ちょっと、本気なの?」

「猫は駄目だよ。猫と蛇は、絶対に祟られるっていうからね」

 後部座席の上から滑り台のように滑って、ティッシュペーターの箱が落ちてきた。車道を逸れて、車が止まったから、みんな心配そうな顔で運転席を覗いた。車のフロントガラスの先には、ヘッドライトの白い明かりで、雑木林の枝葉の一つ一つや、草むらから乱暴に飛び出した、濡れた巨大なシダの葉っぱの一枚一枚が鮮明に浮き上がって、現実味のない世界を作り出していた。その葉っぱの色が付いた所が、人の顔そっくりだった。しかし、それは光の届くわずかな範囲だけの世界だった。

「降りて、確かめてくる」

 シートベルトの収縮する、落ち着かない音と一緒に山田は、後部座席へ振り返って言った。女の子がティッシュを拾い上げ、元に戻していた。

「止めてよ! こんな場所で気味が悪い」

 山田のすぐ後ろで騒ぎ始めた、鈴川詩織が露骨に顔をしかめた。陶人形を思わせる、色白で品のある、目鼻立ちの端正な顔の中にも、唇だけが厚みを持って、桃の蕾が開いているようだった。その長く美しい黒髪が、細身の肩まで淀みなく流れていた。が、彼女には、どこか氷像の美しさに似た、冷たい雰囲気がいつも付きまとっていた。

「だって。このままじゃ、気になるだろう」

 山田は詩織に愛想よく言ったつもりが、声は上擦り、目はおどおどして、自然と彼女から視線を逸らしていた。それが、何か分からないものにでも、取り憑かれたふうに、慌てて車外へ飛び出した。車に残された三人は、みんな不安だった。その不安を紛らわす言葉は浮かばなかった。ただじっと黙って、山田が帰って来るのを待った。もっとも詩織だけは、その不安をどこか楽しむような嗜好が見られた。他の二人は、ますます体を硬直させ、縮こまっているのに、彼女だけは窮屈な車の中で、まるでその猫みたいに気楽に伸びをしたり、手足をにゃんと曲げたり、ぶらぶらさせて、平然と振る舞っていた。――山田は、なかなか帰って来なかった。車の周りを一回りするだけなのに、やけに時間が掛かるように思えた。女の子が茶色いカーディガンの袖をめくって、銀の腕時計を確かめた。助手席の男の子は振り向いた後に、同じようにポロシャツの腕をまくって、こちらは腕時計は着けておらず、ただ肌をかきむしっただけだった。

「まだなの?」

 鈴川詩織は、いらいらしながら車内の沈黙を破った。誰も、彼女には続かなかった。詩織の隣には、彼女より小柄で、目の細い、どちらかと言えば、地味な印象の女の子、百瀬薫が黙って、膝を揃えて座っていた。二人は車の後部座席に居て、外に出て行った山田の他に、村井四郎ががたいのいい身体を不器用に助手席に収め、薄い前髪の張り付いた、広い額の下に、小さな黒い目だけきょろきょろさせて、外の景色を当てもなく窺っていた。彼らは町の大学に通う、一年生だった。県外からやって来て、友達も知り合いも居なかったから、自然と同じ境遇にある者同士で、一緒に行動することが多くなった。町の繁華街へ遊びに繰り出すこともあったし、わざわざ深夜に、真っ暗で人気のない山道へ車を走らせることもした。彼らがそんな事に夢中になってから、既に半年以上が経過していた。

 何の前触れもなく、運転席の扉が開いた。山中の冷たく湿った空気が、遠慮なく車内へ侵入してきた。車体がゆっくり揺れ、息を切らせた山田が、重い体をどかりと座席に下ろしたのが、車内へ伝わった。ダッシュボードの時計は、二十二時を過ぎたことを知らせていた。

「どうした、どうした。猫、轢いてた?」

 みんな堰を切ったように、戻って来たばかりの山田を問い詰め始めた。

「いや、暗くてよく分からなかった。でも、一通り見てきた。車の下も、タイヤの裏も調べたけど、死骸は見えなかった」

 山田は息を整えるのと、しゃべるのとを交互に続けた。

「タイヤの裏も……、げげ!」

 後ろで詩織の声が、独り言に聞こえた。残虐をほくそ笑む声だった。山田は、これには思わず、苦笑いを見せた。煎餅みたいに、ぺちゃんこなった猫の姿が、たちまち頭に浮かんだ。

「じゃあ、猫じゃなかったんだ」

 詩織の不気味な声を遮って、薫はほっと胸を撫で下ろすように思えた。

「そうだといいけどね」

 山田は詩織に釣られて、怯える薫に少し意地悪になった。が、彼もまた気持ちがざわついたまま、収まらないでいた。それとも走って車へ戻って来たから、息が上がっていた所為なのか。胸の鼓動も激しく高鳴っていた。運動不足かもしれないと、山田は痛感した。が、あまりぜいぜい言っているのも情けないと、誰の顔も見ずにシートベルトを掛けると、淡々と車を動かし、バックさせ、車道へ戻し始めた。車内に車がバックするときの頓狂な電子音が、大きく響いた。みんなまた黙って、車が後退しながら、車体を曲げる動作を見守っていた。車窓の向こうは、嘘みたいに濃い闇が広がって、彼らは掴みようのない戦慄を覚えた。白く浮かび上がったガードレールは、ボルトの外れた所から、錆び付いていた。擦ったように、横線の傷跡が刻まれていた。


 車が軽快なエンジンの音を鳴らして、勢いを増して走りだすのと同時に、きゃっと女の子の弾力のある、悲鳴が起こった。薄暗い後部座席からだ。

「どうした、どうした?」

 今まで無言で運転していた山田は驚いて、肩越しに声を掛けた。村井も表情を引きつらせて、そのくりっとした黒い瞳に、丸く鼻筋の低い、肌艶のいいぽっちゃりとした顔だけ器用に向けていた。

「猫よ。猫!」

 そう言ったのは詩織だが、悲鳴を上げたのは薫の方だ。

「おい、おい。驚かすなよ」

 闇の塊が足元を這って、真っ黒な猫が行き成り車内に現れたのだ。黒猫は少し痩せて、首も手足も長い所が、女の子のような、しなやかさを装って見えた。薫が有刺鉄線を跨ぐみたいに足を持ち上げ、黒猫から革靴を履いた足を遠ざけた。その靴の色も黒だった。

「面白い登場の仕方ね。どこから入って来たの?」

 詩織は運転席の背もたれに手を突いて、屈み込む格好で顔を傾けた。それが嬉しそうに、口元をほころばせていた。

「またそれを言う。私のこと馬鹿にしている? それに、ドア開けてないよ」

 薫も足元の黒猫を見下ろし、ちょっと顔を曇らせた。何度か胡散臭そうに瞬きをして、また運転席をちらりと見た。

「じゃあ、さっき僕が外から戻ったときに、連れて帰ったのかもしれないね」

 一匹の黒猫は、ちょうど女の子たちの座った足元へ潜って、そこがいつもの居心地のいい場所のように、安心して香箱を作っていた。

「図々しい猫ちゃんなのね」

 詩織が顔を近づけるように、黒猫の寝顔を確かめていた。黒猫は頭も長い手足も尻尾も、全部お腹に集めて丸め、目蓋もしっかり閉じていた。もっとも猫の体は、どれも一様に真っ黒な毛に覆われていたから、体を丸めてしまえば、糸口の分からない毛玉みたいに、どこまでが頭で、どこからが手足なのか、本当に眠っているのか、ひょっとしたら薄目を開けて、狸寝入りを決め込んでいるのかまでは、この薄暗い車内では判断できないのだった。が、そんな性悪な猫も居ないだろう。

「もう、早く追い出そうよ。黒猫なんて、縁起が悪い!」

 突然の侵入者に興味有り気な詩織とは正反対に、薫は妙にそわそわして、両手を扇ぐふうに動かし、全く落ち着きがなかった。

「でも、可哀相なのね。こんな場所に、独りぼっちにさせたら、ねえ」

 詩織は自分の事のように、猫の行く末を心配しているというよりは、むしろちょうど深夜のドライブに退屈していたところに、新しいオモチャを与えられ、喜んでいたのが、それを行き成り取り上げられそうになった、子供のようにすねているのだ。

「人間だったら困るけど、でもこんな所うろついているくらいだから、野性の猫なのかもしれない。大丈夫よ。早く追い出そう」

 確かに人間だったら想像しただけでも、ぞっとする。深い森は、人を狂わせる。こんな人里離れた山奥に、一人取り残されたら、誰だって発狂してしまうだろう。

「そんな事ないよ。この子だって困るのね」

 結局、村井は詩織と薫のどちらにも肩を持とうともせず、態度をはっきりとさせなかった。

「まあ、あんなに気持ちよさそうに寝ているんだから、それを無理矢理追い出すのは、気が引けるけどね」

「そう。もう寝ちゃってるんだし、このまま寝かせて上げるのね」

 運転手の山田は、みんなの意見をまとめるように提案した。

「とにかく、ここは見通しが悪いから、車は止められない。後ろから車が来ると、危険だからね。このまま猫を連れて行くしかないよ」

「この子、案外頭がいいのかもしれない。きっと山道を走る車を狙って、ヒッチハイクしているのね。ねー、黒ぴー」

 詩織だけが、その事を歓迎しているようだった。黒猫は詩織と薫の足元で、彼らの心配などよそに、眠るふうに丸まってからは、びくりとも動かなかった。その毛玉みたいに丸くなった所が、角を出したふうに一瞬、片耳をそばだてた。

「黒ぴー! 黒ぴーって、何?」

「黒猫だから、黒ぴーなのね」

「えっ! 名前付けたの?」

 詩織を除いた三人が、一斉に驚きと悲鳴に似た声を上げた。

「怖い!」

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