第13話

 後日考えても事務所から家までどのように帰ったのか記憶が無い。こういう状況に陥いると、人間の思考範囲は極端に狭まるようだ。歩きながら真奈美はやがて、先の治療費だとか、ミナミの学費だとか、月末の家賃とかの問題意識が消えて、とにかく目の前に迫った返済日のことだけしか考えていない自分に気がついた。それはある意味膨大な苦難に押しつぶされないための自己防衛本能なのかもしれない。しかしそれは同時に、明後日以降の自分が想像できないことを意味している。


 気がつくと自分の家の前に来ていた。ミナミと顔を合わせる前に気分転換が必要だと考えた真奈美は、大きなため息をひとつつくと、家には入らず近くの公園のベンチに腰掛けた。しかし、ただ座っているとまた借金の返済ことを考えてしまう。そうだ、おとぎ話のように幸せな自分をイメージしてみよう。そう言えば、平安で幸せな自分なんて久しく忘れていた。現実ではなくても、それで少しは気分が晴れるかもしれない。


 真奈美は眼を閉じた。やがて綺麗なキッチンで、かわいいエプロンをした自分が朝食の準備している姿が見えてきた。しかしよく見ると、日本式のキッチンじゃない。周りを見まわすと家の作りも変だった。朝だと言うのに家に差し込む光は力強く、明け放れた窓からそよぐ風には常緑広葉樹の香りを含んでいた。部屋の奥から赤ちゃんの泣く声が聞こえてきた。キッチンの自分は、微笑みながらミルクの準備をしている。赤ちゃんが泣いているのに、自分があまりにも平然としているので心配になった。


『ミルクの準備できたわよ』


 自分は部屋の奥に声をかける。すると、赤ちゃんの泣く声がやんだ。ああ、奥に誰かいるんだと気づいた。やがて、笑い声をたてる赤ちゃんを抱きながら、男が奥の部屋から出てきた。男は赤ちゃんをはさんで、自分の腰に手を回すと、優しくおはようのキスをした。おとぎ話とは言え、本当に自分は幸せそうだ。温かい気持ちになって真奈美は男の顔を見た。その男が誰であるかを知ると、驚きのあまり眼が覚めた。いつの間にかベンチで眠っていたらしい。夕日の赤もだいぶ黒味を増している。真奈美は顔を赤くしながら、慌てて家に戻った。


「お姉ちゃん、お帰りなさい」

「化粧品は返してきたわよ。いい…ミナミも知らない人に、モノを買ってもらっちゃだめよ」

「はーい」


 ミナミは真奈美のお小言を気にする風もなく、イヤホンで安室さまを聞きながら、芸能雑誌をめくっている。真奈美はそれ以上妹を怒る気にもなれず、かえってそんな天真爛漫さを持つ妹が可愛らしいと感じていた。改めて妹を守れるのは自分しかいないと思った。


「そう言えば、さっきお姉ちゃん宛てに宅配便が来てたわよ」

「そう…何かしら…」


 真奈美は自分宛てに来た小さな箱を開けてみる。中には、ヘイリー ボブ(Hale Bob)のタグついた若草色の女性らしいワンピースとショセ (Chausser)のロゴ入った可愛らしいローヒールの靴が入っていた。


「うわー、素敵。ねえ見て、確かこれ、パリス・ヒルトンやキャメロン・ディアスが愛用しているブランドだわ」


 ミナミがはしゃぎながら服を取りだすと、メモが一枚ひらりと床に落ちた。


『もう一度、デートしないか。秋良』


「すごい、またデートのお誘い?」


 真奈美はメモを握りしめ、ミナミの問いに返事を返さなかった。


「デートしておいでよ。でも、一度着たらあたしに頂戴ね。今度は送り返しちゃだめよ」


 はしゃぐミナミを見ながら、真奈美は妹の為にも、悪魔に会うことを拒めないと感じていた。

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