第10話

「真奈美ちゃん。今日は昼から珍しいわね」

「ええ、今日は仕事がお休みなんです」


 病院ですれ違う看護師や患者さん達から掛けられる声のひとつひとつに、彼女は丁寧に応えていた。心臓の疾患で治療入院をしていた母を見舞う真奈美は、この病院ではもうすっかり顔なじみだ。彼女の他人に献身的という性格も手伝って、母の看病のみならず病院の人たちと積極的に関わってきたことが、彼女に寄せられる挨拶の数に現れている。しかし、この病院の人たちとも、あと少しでさよならを言わなければならない。カテーテル手術もようやく終了し、母が退院できる日が近づいてきたからだ。母が家に帰って来る日を思うと自然と真奈美の足取りも軽かった。母の病室のドアを開けようとすると、真奈美を呼びとめる声があった。


「真奈美ちゃん。ちょうどよかった…少し話が出来るかな」


 声の主は、母の主治医の大磯先生であった。大磯先生の顔は笑っているものの、あらためて話しがしたいと言われると、真奈美もなんとなく胸騒ぎがした。大磯先生は、院内のコーヒーショップからコーヒーをテイクアウトして、真奈美と連れだって自分の診察室へと向かった。診察室に入ると真奈美に椅子をすすめ、テイクアウトしたコーヒーのひとつを差し出す。


「ありがとうございます。…それで先生、お話ってなんでしょうか。術後の経過に問題があるのですか?」

「安心していいよ。カテーテル手術は問題ない。でもね…。」


 大磯先生は、言いにくそうに蓋にあいた小さな吸い口からコーヒーをすすった。


「術後の経過を見るCT検査で、お母さんに肺がんの疑いがある事がわかった」


 真奈美は、大磯先生の言葉に絶句した。彼女の硬直した身体をほぐすように大磯先生は言葉をつなぐ。


「癌と言ってもね、いろいろな段階があって、幸いなことに真奈美ちゃんのお母さんの発見は早期だ。より詳しい検査をしなければはっきりと言えないが、所見ではⅠ期Aという3センチ弱ぐらいの末梢型非小細胞肺癌らしい。これは治療法によっては直せる癌なんだよ」


 真奈美は、安堵したのか大きなため息とともに、身体の硬直を解いた。


「こうした早期がんは、外科的手術で癌の部分を切り取ったりするんだが、お母さんもご高齢だし身体に大きな負担を強いる治療は難しい。そこで、僕としては切ったり張ったり、ダメージ大きい抗がん剤を投与したりするよりは、重粒子線を癌細胞にあてて退治する治療を進めたいと思っている」

「治せる可能性があるなら、なんでもやってください。」

「ところが…真奈美ちゃんを虐めるわけじゃないが、その治療は高度先進治療と言って、まだ日本の医療保険制度で認可されていないものだから、医療保険の適用外で高額な治療費が必要なんだ」

「どれくらいですか?」

「ひと通りの治療で300万円くらい…」


 しばらく考え込んでしまった真奈美だが、やがて顔をあげると元気な声で言った。


「…わかりました。治療費の問題ならなんとか考えます。母のために検査を進めてください」

「真奈美ちゃんも大変だが…。お母さんの為にも、とりあえず退院して家でゆっくりしたら、通院で検査を進めることにしよう」

「よろしくお願いいたします」


 真奈美は席を立って診察を出かかったが、思いついたように立ち止まった。


「あの…まったく別なこと聞いてもいいですか?」

「なんだい?」

「代理出産について教えてもらえますか?」

「なんだよ、藪から棒に?」

「いえ…最近耳にしたものだから…」

「僕は専門じゃないんだが…代理出産は、正式には代理母出産といって、文字通りある女性が別の女性に子供を引き渡す目的で妊娠・出産することだよ。たしか法的規制ははっきりないものの日本の学会では禁止しているし、日本ではほとんどおこなわれていないはずだ。」

「具体的にはどんなことをするんですか?」

「ひとつは、ホストマザー。(Gestational Surrogacy)代理母とは遺伝的につながりの無い受精卵を子宮に入れ出産する、いわゆる借り腹だね。依頼夫婦の受精卵を代理母の子宮に入れたり、依頼夫婦以外の第三者から提供を受けたものを体外受精させ子宮に入れたりするようだ。そして、もうひとつは、サロゲートマザー(Traditional Surrogacy)代理母の卵子に依頼夫婦の精子を人工受精させて出産する」

「そんなことが人工的に出来るなんて…なんか怖いですね」

「そうだね、生殖補助医療技術の進歩のなせる技だが、倫理面や法律面以上に医学的にも大きな問題を抱えているんだよ」

「どういうことですか?」

「見逃しがちだが、先進国においても妊産婦死亡がゼロになっていないように、妊娠・出産には最悪の場合死亡に至る大きなリスクが依然と存在しているんだ。また、死亡に至らずとも母体に大きな障害が発生する場合もある。このようなリスクを軽視して、たとえ同意された契約とは言え、それらを代理母に負わせることに対する批判が大きいんだよ」

「そうなんですか…」

「しかし…、年頃の真奈美ちゃんに、このタイミングでそんなことを聞かれると…先生はとっても不安になってしまうんだが…」

「あらやだ、大丈夫ですよ、先生。単なる好奇心で聞いているだけだから。先生に誓います。わたしは愛している男の人の子供しか産みませんから」

「そうか…」

「それじゃお母さんの所へ行ってきます。コーヒーご馳走さまでした」


 真奈美は大磯先生の診察室のドアを閉めると大きなため息をついた。自然に涙が浮かんでくるのを止めることが出来ない。真奈美は決して自分の不遇を思って泣くような女ではなかった。それは、やっと退院できると喜んでいた母を思っての涙だった。また新たな病気と闘わなければならない母が不憫で仕方がなかった。

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