第9話

 クアラルンプールを出たマレーシア航空MH092便は、成田空港へ午後6時40分に到着する。しかしこの便は必ずと言っていいほど30分は遅れる。スローライフのお国柄とは言え、秀麗の性格では、なかなか慣れることができない。


 しかしながら、秀麗はマレーシアが気に入っていた。都市部ではインフラも整備されており、東南アジアの中でも高い生活水準を誇る国でありながら、物価水準が日本より格段に安い点がその理由だった。多少のばらつきはあるが、総合的に見て日本の3分の1程度の物価水準といわれている。また、医療の面に眼を向けてみると、マレーシアは欧米の大学で医師免許や博士号をとった医師が多く、大きな私立病院などでは最新の医療設備が整備されるなど、医療水準も先進国に匹敵している。当然、先進国より医療費が安く、医療レベルも劣っていないため、近隣の東南アジア諸国から『メディカルツアー』でマレーシアを訪れる人も少なくない。クアラルンプールなどでは日本語が話せる医師や日本人看護婦、日本語通訳が在籍する病院が幾つもある。これらの点が、彼女がビジネスの契約完結の場としてここを選んだ理由だ。


 秀麗は、ビジネスクラスのシートを起こすと、アイマスクをはずし、外の雲海を眩しそうに眺めた。彼女の父は、香港で中規模な病院を営む医師である。父の苦労を見ていた彼女は、医師になって父を継ぐ気など毛頭なかった。元来の野心の大きさもあいまって学生時代から、新しいビジネスを求めて模索していた。そして、医療情報システムの勉強で日本に留学した際に秋良と出会った。


 アジア学生交流会で、長身の彼がクールな瞳で自分に近づいてきて、いきなりデートに誘われた時は、少なからぬトキメキを感じたことを覚えている。もともと美形の秀麗は、男が言い寄って来ることには慣れていたし、それを軽くあしらう術も熟知していた。恋愛などにまったく興味が無いいつもの彼女なら、軽く振っていたところだが、珍しく彼の申し出を受けた。


 しかし、ふたりきりで会ってみると、それはデートではなくて彼のビジネス構想のプロポーザルであることがわかった。わずかな失望感を感じながらも、彼の話を聞くうちに、そのビジネスの可能性と魅力に気づいた秀麗は、いつしか秋良のパートナーとなっていた。


 彼の設定した商材は代理出産である。代理出産に対しては、子をもてない不妊のカップルの最後の希望だと評価する意見と、女性の体を道具化し搾取するものだと非難する意見が対立している。日本では、日本産科婦人科学会は代理出産を禁じ、厚生労働省の専門部会も禁止する最終報告をまとめているが、法制化には至っていない。2005年に大阪高裁が示した「母子関係の有無は分べんの事実で決まるのが基準。昨今の生殖補助医療の発展を考慮しても、特別の法制が整備されておらず、例外を認めるべきではない」との判例に基づき、『分娩者こそ母』のルールが確立している。


 世界の視点で見てみると、ドイツやフランスのように全面禁止する国もあれば、イギリスのように無償のボランティアの場合のみ認める国や、アメリカのいくつかの州のように有償の契約も認めるところもある。


 実際におこなわれているカリフォルニア州では、一回の体外受精・胚移植で妊娠成立の後そのまま順調に妊娠期を送り出産、新生児を日本に連れ帰るまでの過程で、最低でも2千万円以上の費用が必要とされる。単にメディカルオペレーションの費用だけではなく、高額な弁護士とともに千本ノックのような法的整備作業や代理母への経費が積み重なった結果だ。そしてようやく出産されたこどもは、実子としてではなく養子縁組することにより親子関係を成立させて国内に連れて帰るのだ。


 法的整備が完全ではないものの、比較的費用が安く代理出産ができるインドでは、多数の先進国の不妊夫婦が代理出産を行っており、現地には代理母が相部屋で暮らしているような、代理出産用の施設まで作られている。インドにおける代理出産の市場規模は2015年に60億ドル(約5400億円)に上ると推計されている中、インド政府は、商業的な代理出産を合法化する法案を2010年に国会に提出した。法案では、外国人については本国政府の「代理出産を認める」「依頼人の実子として入国を認める」という証明書を要求するとしている。もちろんインド国内でも代理出産は『人体搾取』だという批判もあり未だ議論は続いている中、実態としての代理出産は伸び続けている。


 インドにおける代理出産に日本人の依頼が伸びている理由は、単にコスト面だけではない。実態的に代理出産を認めるインドでは、発行される出生証明書に父母として記録されるのは、依頼者の名前である。日本人依頼者はこの出生証明書を日本に持ち帰り、戸籍登録をする。日本の国内の役所では、分娩者が誰であるかを確認することが困難である。そして、そこで得た戸籍謄本を持ち帰り現地の大使館にパスポート申請する。在インド大使館、領事館も滞在日数やビザの種類から代理出産が疑われることをある程度把握できるものの、日本で発行された戸籍謄本とともにパスポート申請されれば、これを発行せざるをえない。果たして日本人依頼者はまんまとパスポート取得に成功して、新生児を実子として堂々と帰国できるのだ。


 このように脱法ないし違法的手段で、日本の法制度に反する形で代理出産がとりおこなわれるリスクは計り知れない。実際、日本の国内法によって規制されない斡旋業者が、日本人顧客を相手に様々なトラブルを生じさせている事例をあげるにいとまが無い。妊娠中の経費の上乗せ、母体管理の不備、胎児の流産、フィジカル的に問題のある新生児の出産、新生児の受け渡し拒否、法的不備による出国不可。


 秋良のプロポーザルコンセプトは、アメリカとインドのデメリットを解消し、両国のメリットを最大限に生かした『日本人の、日本人による、日本人の為の代理出産』であった。コスト、遺伝的適合、医学的技術、法的問題、安心と安全、それらをコンビニエントにクリアする。その斬新性が、秀麗の野心に響いたのだ。


 当初は、初めて会った自分に、なぜこのプランを話してくれたのか疑問であったが、今となってはそれも想像がつく。秀麗の国際性、家庭環境、ビジネス知識、そしてなによりも彼女が抱く野心の大きさを事前に調べ上げて、彼のプロポーザルに拒否できないことを、彼は知っていたのだ。


 それから8年。確かに彼のアイデアは大成功を収めている。一方で、代理出産をとりまく国内外の規制や、日本人代理母の状況の変化により、このままでは今の成功を維持できないことも感じてはいた。


 やがて機内アナウンスが、成田空港への着陸態勢に入ったことを告げた。

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