第3話

 秋良は、車を歌舞伎町のパーキングに留めると、派手でゴージャスなネオンをすりぬけて、ゴールデン街の小さな飲み屋のドアを開けた。ドアの開く音とともに、年増の女主人が入って来る秋良の姿を一瞥したが、彼を客として迎える言葉もなく、何事もなかったように視線を戻して常連客との会話に戻る。そこは財力のある彼が行くには不釣り合いな小さく、そして汚い店ではあったが、彼はかまわずカウンターの隅に収まった。


 秋良は車中で男から受け取った封筒を取り出すと、あらためて真奈美のプロフィールを眺めた。家族構成、家族の生年月日、父親の死因、母親の病名、負債額。見れば見るほど絶望的な境遇だ。きっと負債が生み出す月々の利子の額すら稼げていないはずだ。さらに、病身の母と高校生の妹を抱えているなんて…。負債の泥沼に沈んでいくだけで、今の彼女に積み上げていく未来なんてない。こんな環境から逃げもせず生きている真奈美が不思議だった。秋良にしてみれば、逞しいと言うよりは、図々しいとしか思えなかった。


「秋良、持ってきてくれた」


 近寄って来た女主人が、カウンター越しに秋良に話かけた。秋良は黙って内ポケットから、分厚い茶封筒を取りだすと、女主人の前に無造作に投げ出す。


「助かったわ。これでなんとか不渡り出さずに済む…。必ず返すからね」

「いらん。あんたと会うのもこれで最後だ」


 一瞥もくれず不機嫌な秋良に、女主人もたじろぎ気味だ。


「秋良、ご飯まだなんでしょ。なんか作るから、食べていきなさいよ」

「今さら母親の真似はやめてくれ。不愉快だ」

「秋良…」


 秋良は席を立った。


 配送センターの朝は早い。大型トラックで運ばれてきた膨大な数の荷物。センターの担当が、大まかにエリア別にその荷物を仕分ける。そこから配送員の荷物の奪い合いが始まる。できるだけ限られたエリアで効率よく配送できる荷物を物色するのだ。1日でこなせる自分の作業能力を見極め、配送員たちは最大数の荷物を自分が運転する小型の配送トラックに積み込んだ。真奈美も女ながら配送員として独り立ちし、小型トラック一台を受け持っている。今ではバスケで鍛えたフットワークを活かし、男の配送員に負けずに有利な荷物を獲得できるようになっていた。


 真奈美はその日も快調に荷物を獲得すると、誰よりも早く、配送センターを飛び出していった。配送先の不在も少なく、荷物が次々とはけていく。よし、今日はツイてる。早く帰れそうだ。そう思うと余計に車を軽快に動かしたくなる。調子が良い日こそ、実は一番危険な日なのだ。御多分に洩れず、縦列駐車から抜け出るために、ハンドルを切りながら少しバックした時、真奈美の小型トラックが何かに当たり、ガラスが欠ける耳障りな音がした。


『やっちゃった!』


 真奈美の小型トラックの後部が何かと接触したのだ。真奈美はすぐさま運転席から飛び出て後ろに回ると、自分の車には傷ひとつもないが、後ろに停車していた車の片方のヘッドライトが無残にも砕け散っているのを確認した。状況からすると真奈美の後方不注意と言うことになるのだが、始動前に確認した時より、後ろの車の位置が自分のトラックに寄っている気がしてならない。しかしだからと言って、自分がここで開き直って業務中にモメることも出来ない。相手の車の運転席のドアが開くと、とにかく真奈美は頭を下げた。


「私の不注意でぶつけてしまって申し訳ありません。お怪我はありませんか?」


 頭をあげて相手を見た瞬間、真奈美は息を飲んだ。オリュンポス十二神のひとりアポロンがそこにいた。長身で恵まれた体躯のその男はサングラスを掛けていて、その表情や眼の色などは確認できなかったが、その白く光った肌と鋭いあごの線は、女子高時代の教科書で、飽きずに眺め続けたベルヴェデーレのアポロンそのものだった。


 周知のごとくアポロンは、ギリシア神話に登場する男神で、ゼウスの息子である。音楽の神として名高い一方で、拳闘の神としての側面をも持つ。まさに文武に秀麗なアポロンは、古典時代のギリシアにおいては理想の青年像と考えられた。日々の生活に追われ、自分が女であることを忘れて毎日を過ごしていた真奈美であったが、この男を見た瞬間、まだ女子でいられた女子高時代を思い出すとともに、長い間忘れていた女の感性が、真奈美に息を飲ませたのだ。自分が引き起こした事故でブルーになるはずの自分が、まったく別の想いで鼓動を高めていることが不思議だった。男は黙ったままサングラス越しに真奈美を見続けている。


「あの…修理はさせて頂きますので…保険の関係で事故証明が必要だから…今警察に連絡を…」


 なぜかとぎれとぎれにしか言葉が出なくなってきた。真奈美は顔も赤くなってきている事が自分でもわかった。


「賠償なぞいらん。そのかわり…」


 男が妙に赤い唇を動かして低く落ち着いた声を発した。その言葉が、日本語であることがなぜか不思議に思えるほどだ。


「今夜仕事が終わったら、ここに来い。」


 男は、名刺を真奈美に渡した。


「えっ、でも…」


 男は車に乗り込むと、戸惑う真奈美を残して破損したライトのまま走り去っていった。呆気に取られながら車を見送る真奈美。車がかなたに消えると、あらためて受け取った名刺を見た。名刺には『ライフ・デザイン・オフィス』という社名と住所、電話番号だけが表記されていた。渡した男の名前は不明だが、彼が言った『ここ』に行けは、きっとそれを知ることができるだろう。

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