第31話 有明の月 ~綾乃&夏樹~
第30話からの続きです。
家に入る前に深呼吸をして、自分を落ち着かせる。何度しても落ち着かず、結局、諦めてドアを開けた。
「ただいま」
「お帰りなさい」
先に帰っていたらしい夏樹さんが、すぐに返事をしてくれる。以前は「お邪魔します」だったのだが、毎日の様に一緒に過ごすようになって、夏樹さんが「お帰り」と言いたかったらしく、いつしか「ただいま」「お帰り」の挨拶に変わった。
鞄を置くと、キッチンで、料理している夏樹さんに後ろから抱きつく。
「きゃっ、綾乃ちゃん!?」
驚く夏樹さんに構わず、ぎゅっと抱きしめて、彼女の服に顔を埋めると、夏樹さんの体温と、匂いがした。十分満喫してから、身体を離す。
「フライパンがあるから、危ないよ」
「大丈夫、夏樹さんを補給しておきたかったの」
「ふふ、変な綾乃ちゃん」
「今日、ご飯何するの?」
「えーと、鶏肉の照り焼きとポテトサラダ」
「わーい、私も手伝う」
二人で食事の支度をしながら、今日の出来事を話す。日常となった光景が、時に幸せすぎて、信じられなくなるほどだ。
さりげなくキッチンの隅に目をやると、いつものように野花の挿してある小さな瓶があった。先程の花言葉を思いだし、咄嗟に顔を背けて、鼻を押さえた。夏樹さんは、私が彼女の事を気が付かないとでも思っているのだろうか?
「?どうしたの、綾乃ちゃん?」
「何でもないよ、くしゃみが出そうになっただけ」
不審な行動の私を不思議そうに見ていたが、何かに気づいたように、私の額に触れた。少しひんやりとした彼女の手がそっと触れて、息をのむ。
「!?」
「おでこ、赤くなってるよ?」
「…あっ、それは本棚にぶつけたの」
「痛くない?冷やす?」
「平気だよ。お陰で、大分頭も冷えたから」
「?」
「とりあえず、ご飯食べようよ。私、ちょっと鏡見てくるね」
「ええ。分かったわ」
さりげなく話題を逸らして、夏樹さんから離れると洗面所に行く。鏡の前で、はあっと大きく息をはいた。
「危なかった…夏樹さん、可愛すぎる…」
夏樹さんは、時折まるで、当たり前のように私の心の中に入ってくる。寒い帰り道マフラーを巻いてくれたり、優しく寄り添ってくれたり、心配してくれたり…彼女の笑顔の前では、私の心を守っている壁は彼女には役に立たないのだ。
そんな彼女だから、私は惹かれたのだろう。
落ち着いてから、鏡を見るとおでこが少し赤かった。痣にはならないだろうと大して気にせず、ご飯を食べるため部屋に戻った。
「電気消すね」
「うん」
部屋が急に暗くなり、私はスマホの灯りを頼りにベッドに入る。小さな照明を一つ点けただけの部屋のシングルベッドに、二人で眠るには少し狭いけど、触れあって眠る幸せがあった。
夏樹さんとぎゅっと抱きあうと、それだけで愛しさが溢れだす。
「大好きだよ」
照れて何も言わない彼女の、私の身体に回した手だけが、その返事を伝えてくれる。そのまま唇を重ねると、何度もキスをした。言葉では私の気持ちを伝えきれなくて、何度も何度も繰り返す。暗闇に目が慣れた頃、夏樹さんを見ると、荒い息を吐いて、身体をぐったりとさせていた。
「綾乃、ちゃん…?」
いつもよりずっと長いキスに、何と言ったら良いのか分からないような表情で私を見上げる夏樹さんに、にこりと笑う。
「何?夏樹さん」
「…」
予想通り、恥ずかしがって口ごもる夏樹さんを見て、笑いを噛み殺す。どうして彼女は私をそんなに煽るのだろう。
夏樹さんの頬に手を伸ばし、見つめたままゆっくりと撫でる。未だ触れられる事に慣れない彼女の反応が、私をますます楽しくさせる。駄目だ、夏樹さんが可愛すぎて、もう我慢できない。
「夏樹さんって、時々凄く大胆だよね」
「えっ!?…何の事?」
「…花言葉」
「!?」
その一言で、全て悟ったかのような夏樹さんの表情は、薄暗い部屋でも分かるくらい赤かった。
「小さな幸せ、心がやわらぐ、だっけ。あと一つは流石に、私もぐっときたよ」
自分のにやけそうになる顔を必死で繕っているが、多分夏樹さんにはバレバレだと思う。
「綾乃ちゃん…凄く楽しそうなのは…気のせい?」
「ううん、気のせいじゃないよ。私、今凄く楽しいもん」
頬に置いた手をゆっくり首に這わすと、赤い顔の彼女は羞恥で、泣きそうな表情になった。
「嫌?」
「…嫌じゃない。
ただ、突然だったから…」
「良かった。
花言葉で気持ちを表すのが、夏樹さんらしいよね」
「もう、それ以上言わないで…!」
「あなたに私の全てを捧げます」
私の言葉を止めるよう懇願する彼女の耳許で、なずなの花言葉を囁いた後、私は彼女の望み通り、夏樹さんに全てを捧げる事にした。
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