第30話 有明の月 ~春香&綾乃~

今回の話は二部構成です。


「あー、面倒くさい…」

「もう何度目よ、早く帰りたいなら、手を動かしなさい」

「だって…」


講義も終わって、久しぶりに「軽くお茶でも飲もうか」と話していた私達の話を聞いていたかのように、研究室の教授に本棚の整理を頼まれた。

「嫌です」と言うわけにはいかず、二人でこうして整理を始めたのだが、頼まれた本棚を見た途端、彼女はうんざりした様子で全くやる気が見られない。


「早く終わらせて、帰るんでしょう?」

「早く帰りたい。夏樹さんに会いたい」

「毎日会っているんでしょう、っていうか、同棲してるじゃない」

「まだ一緒に住んでいないよ。毎日通っているだけだもん」

「大して変わらないわよ。とりあえず、済ませましょう。

もう、夕方よ」

「本当だね…」


窓から見える夕日を見た彼女は、ふっと微笑んだ。その表情は普段の彼女と全然違う、どこか大人びていて、悲しいような、嬉しいような様々な感情が入り交じった顔で、私は思わず彼女を見つめた。


「綾乃」

「…うん?」


「…何でもない」


急に、彼女が知らない人になってしまったようで不安になり、名前を呼んだ。いつもの彼女の表情に安心して、思わず冷たく返答する。

彼女も何も言わずに、そのまま黙って整理を始めた。


私と彼女が友人になったきっかけは、大学に入学し、初めての講義が出席番号順に座ることになっていた為だ。'香田'と'桜井'で並んだ私達は、自然と一緒に過ごす様になった。

綾乃は可愛らしい見た目と反して、現実的で、さばさばした女の子だった。彼氏に心変わりされた時も、淡々として少しも傷ついた様子を見せなかった。

だけど、私は、彼女が一人きりの時、涙を流した事を知っている。きっと、綾乃は他人に弱味を見せる事が出来ないのだろう。私は、そんな彼女が新しい恋をした時、彼女への認識を改めた。

綾乃は年上の女性に恋心を抱いた。だけど、ずっと自分の感情を押し込め、ひたすら女性の為だけに毎日を送っていた。


彼女が、それほど人を愛せる事に私は驚いた。もしかすると、普段の彼女は、うわべだけのもので、こちらが彼女の本質なのではないかと思えた。だけど、そんな綾乃の恋は簡単にいかなかった。

女性には、辛そうな顔を絶対に見せなかった様だが、毎日共に過ごす私には、綾乃の苦悩がありありと見えた。一言も打ち明けてくれない綾乃に、私はついに限界を感じた。


「綾乃」

「…ん?」

「私、綾乃の友達だよね?」

「そうだけど?」


「あんた、私を馬鹿にしてるの?」

「は?」

「何で黙ったままなのよ!

綾乃が苦しんでいるのを、気付かないとでも思っているの!

相談しなさいよ、それとも、私はそんなに信用ないの!」

「春香…」

「私は綾乃が大切だよ、私を信じなさい!」


「…ごめん」


怒鳴る私を見て、綾乃はそれだけ言うと、私に抱きついて泣き出した。今までの感情を全て吐き出すように、激しく、悲しく泣き叫んだ。

それから、彼女は私に少しずつ話すようになった。悲しかった事、嬉しかった事…ささやかな幸せを喜び、彼女の想い人が傷つけば自分の事の様に悲しんだ。私は話を聞くことしか出来なかったが、綾乃の恋がいつか叶うよう、ずっと願っていた。


そんな彼女は、今、毎日幸せそうに過ごしている。幼い印象が強かった彼女は、見違えるくらい綺麗になり、良く笑うようになった。

だから、彼女の明るい笑顔を見る度、私は本当に良かったと思う。



本棚には様々な種類の本が並んでいた。私は整理しながら、時折気になったタイトルの本を手にとって、捲っていく。


「春香は、本が好きだから良いよね」

「綾乃も読めば良いでしょう?

夏樹さんも本読むじゃない」

「私は無理…眠くなる」

「勿体ない、面白いのに…」

「夏樹さんに読んで貰うと、良いかも」

「あんた、それ、子供の読み聞かせだよ」


呆れながら、手に持った本を棚に戻す。ふと、別の本のタイトルが目についた。


「これでも読めば?

まだ読みやすいでしょう?」

「何?…花言葉?」

「これなら一言ずつしか書いてないから、綾乃でも読めるわよ」

「興味ないから、却下」


表紙を捲ると、花の写真と説明、花言葉が五十音順に紹介されていて、なかなか面白い。花屋で売られているような花から、野原に咲く花まで、様々な花が掲載されていた。


「…そう言えば、最近、夏樹さんも花を飾っていた気がする」

「気がする、って、おかしくない?

綾乃、その花を見ているんでしょう?」

「少し前から、小さな瓶に、その辺に生えているような花を挿しているの。

しかも、キッチンの片隅に目立たないように」


「どんな花?」

「えーと、すみれとか、れんげとか入っていたかな。それと、なずな」

「…結構、控えめな花ばかりね」

「でしょう?」


二人で疑問に思いながら、私は何気に、本の'すみれ'のページを探した。


「…謙虚、誠実、小さな幸せ」

「何が?」

「すみれの花言葉」

「へぇ、ちゃんと花言葉があるんだ」


興味を持ったらしい綾乃が、本のページを覗き込んだ。


「じゃあ、れんげもあるかな?」

「…あった。あなたと一緒なら、苦痛がやわらぐ。心がやわらぐ」


「…夏樹さん、花言葉知っていて、花を摘んだのかな?」

「…何となく、そんな気がする。

あと一つは何だっけ?」

「なずな」

「なずな?春の七草の?」

「そう、小さなハートがたくさんついた花」

「綾乃、詳しいわね」

「田舎育ちだから」


田舎育ちを強調する綾乃を無視して、なずなを探す。ページを開き、さっと目を通した私は、ばっと本を閉じた。


「!!」

「うわっ!?何!?急に」


「さぁ、遊んでないで、さっさと終わらせましょう!」

「はぁ!?何、言ってるの?

…春香、顔赤いけど、どうしたの?」

「何でもないわよ!!」

「何でもない訳ないでしょう?

もしかして、何かまずい事が書いてあったの?花言葉」

「…見ない方が良いわ」

「不吉な言葉でも、私、大丈夫だよ。

私、夏樹さん信じているもん」

「あんたの言葉、最早のろけにしか聞こえないわ。

…綾乃は良いわね、夏樹さんに愛されてて」

「?」


私から本を取り上げると、綾乃はページを捲った。目的のページを開き、目を通した彼女は…固まった。


「おーい、綾乃?…!?」


動かなくなった綾乃の顔の前で、手を振ると、彼女の近くの本棚に頭をぶつけた。そのまま頭突きを何度かすると、ようやく顔を上げた。


「綾乃!?頭、凄い音がしたけど!?」

「春香…」

「何?」


「さっさと終わらせよう!

早く!!急いで!!」

「綾乃、…頭、大丈夫?」


「全然大丈夫!少し冷静になりたかっただけだから」

「あんた、単純ね…」

「ヤバい、…鼻血出そう」

「ちょっと!?興奮しすぎ!落ち着きなさい」

「早く帰らなきゃ!夏樹さんが待ってる!」

「分かったから、落ち着きなさいって!」


先程の態度を一変させ、鬼気迫る様子で本棚を整理し始めた綾乃に、私が投げ掛けた言葉は届いていなかった。


本当にあっという間に整理を終わらせると、私達は学校を出る。薄暗い景色の中でも、綾乃の足取りは軽く、そのまま飛んでいきそうなくらいだった。


「綾乃、あんたのその顔をどうにかしなさい」

「顔がどうかした?」

「ずっとにやにや笑ってる。…はっきり言って、エロいわよ」

「いやぁ、気をつけます」


「夏樹さんも、物好きね。

何も、わざわざ猛獣の前に肉を置かなくても良いのに…」

「誰が猛獣よ。失礼な!」

「あんたよ。失礼だと思うなら、少しは自制しなさいよ。この間も、丸々一日夏樹さん起き上がれなかったんでしょう」

「ぶっ!?な、何で知っているの!?」


「本人から聞いたのよ」

「はぁ!?いつ会ったの?」

「内緒、綾乃には関係ないことだから」

「私の友人って…皆、そう言う!」

「信用されているわね、綾乃」

「むぅ、良いもん。夏樹さんに抱きしめてもらって、慰めてもらうから」

「抱きついて、の間違いでしょう?」

「どちらでも良いの」

「はいはい、それじゃ、また明日」

「うん、またね。春香」


分かれ道に差し掛かった所で、綾乃と別れた。早足で家路を急ぐ彼女を見つめながら、夏樹さんはきっと明日、起き上がれないだろうな、と少し気の毒に思ってしまった。


第31話に続きます。

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