第23話 十三夜月(5)
朝の静寂とした空気の中で、通勤や通学に向かう人に混じり歩く。病院の敷地に入ると、今度は診察や通院の為に建物に向かう人と行き交う。すっかり行き慣れた病室のドアをノックすると、小声ながら返事が聞こえる、その事が酷く嬉しい。
「おはよう、早紀さん」
ベッドの上の彼女は、私を見て微笑んだ。
「おはよう、夏樹」
ゆっくりとした口調ながら、まるで酷く大切な言葉のように挨拶を交わす。早紀さんが目を合わせて、話して、笑ってくれる。ふとした瞬間に、ぎゅっと胸が幸せで苦しくなるのをもう何度となく繰り返した。
意識が戻ってしばらく経ってから、私は早紀さんと過去を辿るように、毎日少しずつ話をした。日常の事、世間の事、晴次さんの事、私の事…流石に事件の話は打ち明けられなかったが、訊ねられるまま私は、早紀さんに話した。
「今なら浦島太郎の気持ちが分かるわ」
そんな事を言う早紀さんと、笑って過ごした。時折、晴次さんが訪ねて来ることもあったが、彼は当たり障りのない会話をするだけで、私と綾乃ちゃんとの事に何も触れなかった。
早紀さんは順調に回復しており、しばらくして退院の許可が出た。身体を動かす事はまだ時間がかかるが、リハビリ次第でそう遠くないうちに日常生活が送れるようになると言われて、早紀さんの家族も大喜びしていた。
もう2、3日で退院するという日に、「外を見てみたい」と言う早紀さんと、私は中庭をゆっくり歩いた。車椅子を押しながら、気がつくと、暖かい日差しがいつの間にか春を教えてくれていた。口数少なく二人で歩き、木陰のベンチに並んで腰を下ろす。離れた建物の音は聞こえるものの、辺りは閑散としていて、私は、ふと早紀さんと初めて話した高校の中庭を思い出した。
「夏樹」
「うん?」
「私、今、夏樹と初めて話した時の事を思い出してた」
「ふふふ、私も同じ事を思い出してたよ」
早紀さんは私を見ると、遠い記憶を辿るように目を細めた。
「あれから、随分経ったのね」
「そうだね、だけど、早紀さんの言い方、まるでお年寄りが昔を懐かしんでいるみたいだよ」
「それは仕方ないでしょう。だって、目が覚めたら学生だった夏樹が社会人になっていて、しかも凄く綺麗になっていたんだもの。驚かない方が無理よ」
「そんな事ないよ」
「ううん、夏樹は綺麗だよ。
言ったでしょう、自分に自信を持ちなさいって」
「早紀さん…」
真っ直ぐ見つめられて、視線が外せなくなる。しばらくしてから、早紀さんはくすりと笑って明るい口調で問いかけた。
「ねぇ、覚えている?
私が倒れる前、貴女と約束した事」
「えっと、病院に行く事と、転職する事と…」
「一緒に住もうって言った事」
「うん、覚えている…だって、早紀さんとの最後の会話だったから…」
「夏樹、私と一緒に住まない?」
「えっ!?」
「私、少しでも早く動けるように頑張るから。自分の身の回りが出来るようになったら、もう一度やり直したいの。
だから、…その時は、貴女が一緒にいてほしいの」
「…」
早紀さんはゆっくりと腕を動かして、その細い指が私の手に触れた。声を出せない私は、自分でもどんな表情をしているのか分からない。
「好きだよ、夏樹」
すぐ近くで私を見つめる早紀さんは、木漏れ日が降り注ぎ、光の中にいるように美しかった。自分の手に水滴が落ちたのを感じて、私は自分が泣いているのを知った。
「ごめん…ごめんなさい…」
「…夏樹」
「私、早紀さんと一緒に住めない。
…私、好きな人がいるの。その人を好きになった時分かったんだ。
早紀さんが、どんな気持ちで私の傍にいてくれたか、私の事をどれだけ好きでいてくれたか、ようやく分かったの。
私も、早紀さんの事好きだよ。きっと、初恋だったと思う。だけど、私はあの人じゃないと駄目なの。あの人の傍にいたい。
だから、…ごめんなさい」
「そう…夏樹は本当の恋を知ったんだね」
「私、ずっと早紀さんが目覚める事を願っていた。きっと彼女に会わなければ一人きりで、貴女を待つ日々だったと思う。だけど、彼女に会ってお互いに支え合って生きたいと思えるようになった。その為にはどうしても早紀さんに会って、お礼を言いたかったの。
私を好きでいてくれて、ありがとうって。そうしないと、どうしても、前に進めなかったから…」
「私の事待っていてくれたんでしょう?
ごめんね、随分待たせて」
「ごめんなさい、早紀さん…」
「ほら、謝らないの。
貴女が泣いても、私は、どうすることも出来ないのよ」
「早紀さんっ!!」
抱きついて泣き続ける私を、早紀さんは確かに抱き返してくれた。しばらくして、早紀さんは私の顔を上げさせると、にこりと笑った。
「…夏樹。貴女の時間を私の為に使ってくれて、ありがとう」
「早紀さん…」
「もう十分貰ったわ。今度は自分の為に貴女が使って」
「うん…
早紀さん、大好きだよ。
ずっと前から、今だって…」
「私も、大好きよ。夏樹。
貴女を初めて見たときから、好きだった」
お互いの「好き」の意味は違ったけど、私達にはそれで十分だった。
気がつけば、空がほんのり茜色に変わろうとしていた。立ち上がり、早紀さんを見ると、彼女も私を見た。
「そろそろ帰りましょうか。
夏樹は行かないといけない場所があるんじゃない?」
「えっ!?ど、どうして!?」
「それは、貴女を見ていれば分かるわよ。夕暮れ時になると、いつも必ず夕焼けを見ていればピンと来るわ。
夏樹、貴女自分で自覚ないみたいだけど、結構分かりやすいわよ?」
「…綾乃ちゃんにも、同じ事言われた」
「ふふふ、落ち着いたら、一度会わせて?
貴女が好きになった人に」
「えっ!?だって…」
「私も会ってみたいの」
「綾乃ちゃんは…もう会ってくれないかもしれない。
私、早紀さんに会うために、彼女から離れたの」
「…」
「私は、必ず戻ってくるからって言ったけど、彼女は"待ってる"とは言ってくれなかった…」
「大丈夫よ。きっと大丈夫」
「そうかな…」
俯いてあの時の事を思い出すと、心が痛む。私には綾乃ちゃんの思いやりが悲しかった。そんな私に、早紀さんは優しい声で言った。
「その子、自分の想いを閉じ込めてまで、夏樹の事を大切に想ってくれているのでしょう?
貴女をきっと誰よりも分かってくれている。
だから、信じなさい」
「…うん、そうだね」
「安心して?もしその人と無理な時は、私が貴女を貰うから。
いつでも帰ってらっしゃい」
「えっ!?貰うって…私、ペット扱いなの?」
「ふふふ、夏樹は可愛いからね」
「もう!早紀さんたら!」
イタズラっぽく微笑む早紀さんにつられて、驚く私を、彼女は真っ直ぐに見た。私の好きな、優しい笑顔で。
「だから、行っておいで。夏樹」
「うん、行って来るね。早紀さん」
病室まで戻り、最後にぎゅっと抱きしめあってから、早紀さんと離れる。お互い笑顔で手を振り、私は病院を出た。
【改ページ】
早紀さんとの心の整理はついたものの、私はそれからずっと行動出来ないでいた。スマホの連絡先をタップすることも出来ず、綾乃ちゃんに会いに行くことも出来なくて、悶々と毎日を過ごしていた。
綾乃ちゃんに会いたかったが、それ以上に、会うことが怖かった。私のエゴで彼女を振り回して、傷つけたのに、今さらどんな顔をして会いに行けば良いのだろう。早紀さんは「大丈夫」と言ってくれたが、彼女に拒絶されるかもしれないと思うと、それだけで身体がすくんだ。
「立木さん」
大通りをぼんやりと歩いていると、名前を呼ばれて顔を上げた。声のした方を見ると、見覚えある女性が片手を上げている。
「…水瀬さん?」
「久しぶり、元気でした?」
「ええ。水瀬さん、髪切ったんですか?
雰囲気が全然違うから驚きました」
「思い切って、ばっさり切ったんですよ」
「ふふふ、良く似合ってますよ」
「今日はお仕事はお休みですか?」
「ちょっと用事があって、こっちに来たんです。また夕方には仕事が残っているけど…」
「大変ですね」
「仕方ないよ」
そう言って笑う水瀬さんの表情は、少しも大変そうに見えなくて、羨ましくなる。私も彼女の様に生きることが出来たらどれ程良いだろう。その時、綾乃ちゃんの顔が思い浮かんだ…
(会いたい…)
そんな私の雰囲気に、不思議そうな表情を浮かべる水瀬さんは、明るい口調で語りかけた。
「立木さん、どこかに行くところだったの?」
「いえ。今、仕事を退職していて…気分転換に歩いていただけです」
「そうなんだ。
ねぇ、良かったら、今からお茶しませんか?」
「えっ、私は全然構いませんけど…水瀬さんは用事があるんじゃないですか?」
「さっき終わったばかりなんです。だから大丈夫。
それじゃあ、決まりね。立木さん、どこかおすすめ有ります?」
「えっと、どんな所が良いですか?」
「スイーツが美味しい所!」
「ふふふ、分かりました」
少し考えてから、案内した店はイートインスペースのある洋菓子店だった。以前、綾乃ちゃんがおすすめだと言っていたチーズケーキを頼むと、水瀬さんは迷ったあげく、レアチーズケーキを選んでいた。
平日の昼下がりとあって、店内はのんびりとした雰囲気が広がっている。私達は窓際の席に座って、お茶を楽しんだ。チーズケーキを一口食べると、確かに美味しくて、思わず声が出てしまう。
「なになに?そんなに美味しいの?」
「本当に美味しいですよ。水瀬さんのレアチーズケーキはどうです?」
「こっちも美味しいですよ。一口食べてみる?」
「良いんですか?じゃあ、私もどうぞ」
二人で一口ずつ貰って食べると、確かに美味しくて、何となく綾乃ちゃんを思い出した。食べることが大好きな彼女なら、きっと大喜びでケーキを食べるのだろう。
「綾乃なら幾らでも食べそうですね」
「ふふふ…」
同じ事を考えていたらしい水瀬さんと笑い合うと、水瀬さんは私を見た。
「立木さん、何か悩み事があるの?」
「えっ!?」
「この間会った時と、全然違うから。
…綾乃と何かあった?」
「あの…その…」
私は、水瀬さんに相談するべきか迷った。綾乃ちゃんの事ならきっと私よりもよく知っている様に思えたからだ。だけど、彼女に私達の関係を伝えて良いものかどうか分からず、口ごもると、水瀬さんは優しく笑った。
「心配しなくて良いよ。綾乃と立木さん恋人同士なんでしょう?
誰にも言うつもりないから」
「ふぇっ!?恋人って!?」
「あれ?違った?
もしかして、まだ告白してなかったの?」
「告白っていうか…
あの、ど、どうして私達の事知っているの?綾乃ちゃんが話したの?」
「あー、何と言えば良いのか…」
苦笑いする水瀬さんに、赤い顔のまま訊ねると、困った様子で頭をかいた。
「綾乃は一言も話していないよ。まあ、それはともかく、立木さんの悩みは、あの子とのことなんでしょう?」
「ええ…」
「私で良かったら聞くよ。他言はしないから話してみれば?
少しは楽になるんじゃないかな?」
水瀬さんの穏やかな態度に誘われて、私は綾乃ちゃんとの事を打ち明けた。彼女は最後まで話を聞いてから、私を真っ直ぐ見つめて訊ねた。
「一つだけ聞いて良い?
立木さんは、綾乃とこれからずっと一緒にいたいと思っているの?」
「ええ。私は、彼女とずっと一緒にいたい」
まるで、私の覚悟を問うような眼差しを見つめ返すと、ふっと元の優しい表情に戻った。
「そう。それなら大丈夫よ」
「だけど、綾乃ちゃんにまだ会っていないの…」
「どうして?」
「だって、嫌われたかもしれないと思うと、怖くて会えなくて…」
「大丈夫だよ。私が保証する」
「水瀬さん…」
「会っておいで。きっとあの子も待ってるから」
「…」
躊躇う私ににやりと笑うと、水瀬さんは手招きして私の耳元で囁いた。
「っ!!」
「だから、大丈夫だよ。おまじないだと思って覚えておいて」
「そ、それって!!」
「この事は綾乃に内緒ね」
真っ赤になった私をからかうように、水瀬さんは笑いかけると、そのまま立ち上がり伝票を掴んだ。
「あ、お金…」
「今日は付き合ってくれたお礼。
また行こう、今度は三人で」
「…水瀬さん」
「困った時は連絡して。綾乃も貴女も私の大切な友人だから。
…それじゃ、またね」
「ありがとう、水瀬さん」
「それと、私の事は涼で良いよ。夏樹さん」
最後に一言言い残すと、手を振って涼さんは出ていった。
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