第22話 十三夜月(4)
綾乃ちゃんは、私が落ち着いた事を確認した後「一人で大丈夫?」と最後まで心配してくれた。泣きはらした顔に、涙が滲むのをこらえて彼女にお礼を言うと、綾乃ちゃんは少し笑って、帰っていった。
彼女のいない部屋は、私の心の様に空っぽだった。食欲はなかったが、綾乃ちゃんの心配する顔が思い浮かび、少しだけ食事を取って、早紀さんの病院に行く準備をしてベッドに潜る。
いつもの様に手を伸ばしても、綾乃ちゃんの温かな身体も、「お休み」と笑う顔もいない。毛布に抱きつくようにくるまると、ほんのり彼女の香りがした様に思えて、私はそのまま瞳を閉じた。
次の日、私は早紀さんの病院に向かった。平日とあってロビーは混み合っていたが、上の階は静かだった。久しぶりの病院は何も変わらず、ゆっくり歩き進める。病室の前で立ち止まると深呼吸をして、自分を落ち着かせた。ノックしようとする手が震える。何度も躊躇ってからようやくノックして、扉を開けた。
病室の窓が開け放たれていたらしく、少しだけ暖かい風が通り抜け、ベッドにもたれて外を見ていた女性が、ゆっくりとした動作でこちらを見た。
時が止まったかのように、私と女性は動かなかった。お互いの視線が絡み合い、言葉にならない感情が私を襲う。
「…夏樹」
女性が少しだけ微笑んで私の名を呼ぶのを、ただ見つめていた。酷く掠れた小さな声だったが、確かに彼女は私の名を呼んだ。
「夏樹」
「…早、紀、さん」
彼女の声が遠い記憶を呼び覚ます。震えた足取りで彼女の元に歩み寄る。恐る恐る手を伸ばして彼女の手に触れた。少しだけ握り返してくれた感触に、私はもう涙をぬぐうことなく彼女に抱きつき、何度も早紀さんの名前を呼んだ。
「綾乃、綾乃ってば!」
「ん…?」
「講義終わったよ」
友人の声にふと気がつけば、周りは皆椅子から立ち上がり、出口に向かっていた。私も立ち上がると荷物を手に持つ。
「次、どこだっけ?」
「しっかりしなよ!今日はもう終わりじゃない」
「…そっか」
友人はますます心配そうな表情を浮かべた。普段は控えめで他人のプライバシーに触れたがらない彼女も、流石にこの数日の私の様子を心配したのか、引きずるように私を連れ出し、少し静かな中庭のベンチに座らせた。
「ほら、飲みなよ」
「…ありがと」
自販機でコーヒーとココアを買った友人は、私にコーヒーを渡そうとしたが、ココアを貰った。いつもコーヒーを選んでいた私の行動に、少し驚いたようだが何も言わなかった。
「コーヒー、飲まないの?」
「…あの人が、好きだったんだ」
「そう」
「ごめんね。春香、コーヒー苦手なのに」
「良いよ、それくらい」
くすっと笑った友人の声に、少しだけ笑みが浮かんだ。私の一言で、聡い友人は何もかも分かったのだろう。何も聞かない優しさが嬉しくて辛い。
きっと、あの人もあの時、同じ感情を味わったに違いない。
「やっぱり、私は優しくなんかないよ…」
こんなに苦しむくらいなら、いっその事問い詰めてあげれば良かったのかな…思い出したら、つい言葉がこぼれた。
「…優しいじゃん、綾乃は」
「優しくなんかない」
「優しいよ」
繰り返す友人の言葉が胸に染みる。友人は、私に優しく微笑んだ。
「…ありがとね。春香」
「ふふ、帰ろうか?綾乃」
少しだけ元気を出して、立ち上がる。ふと上を見上げると夕暮れの空が綺麗に染まっていた。
(この空をあの人も眺めているのかな…)
何となくそんな事を思って、バックを持つと友人と並んで歩き出した。
呼び出された場所に着くと、彼は私をすぐに見つけたようだ。長身でスーツ姿の晴次さんは、人混みでもやたら目立つ。すれ違う女性が何人か振り向く光景にも、すっかり見慣れてしまった。
(相変わらずのイケメンぶりだなぁ)
そんな事を考えていると、私の傍に来た。
「呼び出して悪かったな」
「ううん、何も予定なかったし…それで、夕食時に呼び出したのは、何かご馳走してくれるの?」
「おう、奢ってやるから安心しろ」
何度か夏樹さんの事で会ううちに、すっかり打ち解けた私達は軽口を叩き合いながら歩き出した。彼が連れていってくれたのは、小さな看板が掛かった小料理屋だった。中に入ると混んでいたが、晴次さんを見た店主が、奥の座敷を指差した。衝立で仕切られた畳敷きのテーブル席に座り、メニューを開く。和食中心のメニューと、多種類のアルコールが並んでいた。
「何か飲むか?」
「ソフトドリンクで良いよ」
「お前、酒は飲めないのか?未成年だっけ?」
「とっくに二十歳過ぎてます!!童顔で悪かったわね。
私言っておくけど、ザルだからね!お酒は楽しく飲みたいの!」
「分かってるよ。冗談だ。好きなだけ注文しろよ」
「後で割り勘とか言わないでね」
私をにやにや笑いながら見る晴次さんに言い返して、料理と飲み物を頼むと彼は安心した様にいつもの表情になった。
「思った以上に元気で安心したよ」
「…これでもかなり落ち込んだんだよ。友達のおかげだよ」
「良い友達だな」
「うん」
料理と飲み物を頼むと、それほど待つこともなく運ばれてきた。私と同じくソフトドリンクを頼んだ晴次さんをちらりと見ると「お互い今度に持ち越しな」と笑った。グラスを軽く合わせてから、料理に箸をつける。オーソドックスなメニューだったが、どれも驚くほどおいしかった。夢中でぱくぱく食べ進めてから、ふと晴次さんを見ると、晴次さんも負けずに食べ進めていた。
「旨いだろう?」
「うん、凄く美味しい」
「遠慮するなよ」
「勿論、そのつもりだよ」
笑い合って食べる食事はやっぱり美味しくて、少し泣きそうになった。
大満足でお店を出て、歩き出す。大通りから少し離れると、行き交う車もぐっと少なくなる。街灯が並ぶ街に吹く風は冷たかったが、気温はそれほど低くなく、確かに春が近づいている気がした。
「早紀さんは、どんな様子なの?」
「…後遺症はないが、身体を動かすためのリハビリが必要らしい。…夏樹も元気だよ」
「そう…良かった」
「悪かったな、綾乃」
「えっ、何が?」
「俺は、お前達の関係を知っていたのに。夏樹に早紀の事を…」
「だから、それは何度も言ったでしょう?晴次さんのせいじゃないって。
私だって晴次さんの気持ちを知っていて、ぬけがけしたようなものじゃない」
「だけど…夏樹はお前を選んだんだろう?」
立ち止まり、悲しげな表情の晴次さんに笑いかける。彼にいくら慰めの言葉をかけても、きっと罪悪感が増えるだけだ。
「私ね、いつかきっと離れてしまう…何となくそんな予感があったんだ。私もあの人も早紀さんの事が、心のどこかでずっと引っ掛かっていた。だから、早紀さんの事を聞いた時、あまり驚かなかったの」
「綾乃は夏樹の事を好きだったんだろう?
どうして引き留めなかったんだ?」
「私、本当に好きだったよ。好きで好きで仕方なかった。
だから、悲しむ顔は見たくなかったの。私が傷つくのは全然構わない。だけど、あの人には傷ついてほしくないんだ。
…あの人が、夏樹さんが、幸せならそれで良いの」
「…」
頭上に視線を上げると、建物の間に少しだけ空が見える。だけど人工灯の光で、月も星も見えない暗い空が広がっていた。
「誰かを好きになることって、もっと楽しいことだと思っていた…
」
「夏樹を好きになった事、後悔しているのか?」
私の呟きを聞いた晴次さんの質問に、笑って返した。
その質問には、ずっと前から、今だって自信を持って返事が出来る。
「まさか。私、幸せだったよ」
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