第21話 十三夜月(3)
「それじゃ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
笑顔の綾乃ちゃんに手を振って見送る。会社員という肩書きが外れて無職になった私は、大学へ行く彼女をこうやって送り出す事が多くなった。「気にしないで、もう少しゆっくりすれば良いのに」と綾乃ちゃんは苦笑するが、一人きりだった生活の中で、寄り添ってくれる彼女を送り出す事は嬉しくて、こうしていつも見送った。
だから、綾乃ちゃんが行ってしまうと、つい寂しさがこみ上げてしまう。今までの忙しさに追われていた日常が無くなり、する事がなくなった私は、この平穏さに戸惑っていた。どこかに出掛けようとしても、綾乃ちゃんと一緒に過ごす楽しさを知ってしまった今は、どうしても躊躇ってしまう。私の中で彼女の存在が、あまりに大きくなってしまっていた。
「はぁ」
コーヒーを淹れて、ぼんやりと本をめくるも、少しも頭に入らない。最近一人になるとつい考えてしまうその原因に、ため息がこぼれた。
綾乃ちゃんは、あの日以来私に触れてこなくなった。抱き締めてくれたり、手を繋ぐ事は常にしてくれたが、それ以上はしてくれない。私から求めれば良いのだが、恋愛初心者の自分にはハードルが高すぎた。それに、時折見せる綾乃ちゃんの私を見つめる眼差しが、なぜか私を落ち着かなくさせた。心の内を見透かすような優しい瞳で見られる度、私は以前同じ様な表情をしていた早紀さんの眼差しを思い出してしまう。
私は無意識に、綾乃ちゃんを早紀さんの代わりに見てしまっているのだろうか?そんな事が頭をよぎり不安になる。
綾乃ちゃんへの好きな気持ちは、早紀さんへの気持ちとは別だと彼女に告げたし、そう自覚している。だけど、私は早紀さんを忘れたくはなかった。そんな後ろめたさを、何となく彼女は分かっているのかもしれない。
だけど、この気持ちをどうすれば良いのだろう…
「会いたい…」
無意識に呟いた言葉にはっとする。これ以上考え込んでしまうのを恐れるように慌てて立ち上がり、気分を変えるため外出の支度をした。
外に出ると冷たい風が吹いている。暦の上ではもうすぐ春が来る筈なのに、体感する温度からはまだまだ先の事の様に感じた。
たまたま見つけた図書館に通うようになって何日か過ぎた頃、バックのスマホが震えた。マナーモードとはいえ急いで電源を切ろうと開くと、晴次さんからの着信だった。着信は直ぐに切れ、かけ直そうと外に向かっているとメッセージが表示された。
"今日昼食を一緒にとらないか?"という珍しい誘いに驚きながら了承すると、晴次さんが時間と場所を指定してきた。スタンプを送ってから時計を見ると、約束の時間までもう少し余裕があった。彼と会うのも久しぶりで嬉しくなる。早めに待っておこうと借りたい本を手に取って、貸し出しカウンターに向かった。
待ち合わせのお店に入ると店内はそれほど混んでおらず、窓際に席を取った。約束の時間にはまだ五分位早く、待つつもりで借りてきた本を開いたところに向かいの席に晴次さんが座った。本をしまうと、久しぶりに会う晴次さんに笑いかける。彼は少し驚いた様子だったが、にこりと笑い返した。
「早かったな」
「晴次さんも早かったね、仕事は良かったの?」
「少し早めに休憩を入れたんだ。とりあえず先に注文しないか?」
食事をする間、私の近況について晴次さんは色々尋ねてきた。私が綾乃ちゃんと毎日の様に一緒に過ごしている事も話したが、特に驚くことなく聞いていた。
食後のコーヒーを飲み終わるのを見計らったかのように、晴次さんは私を真っ直ぐ見つめた。
「夏樹、お前に伝えたい事がある」
「…何?」
彼の真剣な表情に、私は一気に緊張した。まだ何も言われていないのに、声が掠れ、身体が聞くことを拒絶するように硬直した。そんな私の様子に気づいているはずの晴次さんは、表情を消したまま私を見て告げた。
「早紀の意識が戻ったんだ」
「…えっ?」
心臓がどきどきと、うるさいくらいに音をたてている。言われた事の意味は理解出来ているのに、心が追い付かない。嬉しい筈の知らせが、私を酷く混乱させた。
「いつ…?」
「今朝、連絡が来た」
「…」
「夏樹、大丈夫か?」
「う、うん、大丈夫。驚きすぎて、どうして良いか分からないだけ…」
心配する晴次さんに、無理矢理笑みを作ってみせる。彼は何か言おうとしたが、結局口を閉じた。
「そろそろ出ようか」
「うん…」
ふらふらと立ち上がりかける私を見ていた晴次さんが、急に私の頬を、両手で挟み込んだ。とっさの事で避けられず、驚いた私を晴次さんは強い眼差しでにらむように見る。
「!?」
「しっかりしろ、お前のそんな顔をあいつが見たら、また心配するだろう!!」
晴次さんに言われて思い浮かぶのは、綾乃ちゃんの心配する姿だった。ふらつきそうな身体に力が戻る。
「…うん、そうだね。ありがとう、晴次さん」
ほっとした晴次さんに促されて店を出た後、「送ろうか?」と言う晴次さんに「少し歩きたいから」と断ってその場で別れた。
何も考えたくなくて、あてもなく歩き出す。広い公園を見つけて中に入ると、木陰のベンチに座った。お昼過ぎの公園には、遊具の傍ではしゃぐ幼児の声が聞こえ、のどかな光景が広がっていた。何となく空を見上げると、頭上に薄く月が浮かんでいる。
「早紀さん…」
綾乃ちゃんと過ごすようになって、口に出せなかった人の名前を呟く。様々な感情が押し寄せてきて胸が痛くなり、私はその場から、しばらく動けないでいた。
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部屋に戻っても、心がざわついて何も手につかないまま時間だけが過ぎる。
「夏樹さん!!」
肩を掴まれはっとして顔を上げると、綾乃ちゃんが心配そうに私を見ていた。
「あれ?…綾乃ちゃん?」
「夏樹さん、具合が悪いの?部屋が真っ暗で心配したんだよ」
「えっ!?」
窓の外を見ると、既に陽は落ちていて暗くなっていた。私はどのくらいここにいたのだろう?
「あ、ご、ごめん。体調が悪い訳じゃなくて…ちょっと考え事をしていたら…」
「本当に?」
「えっ?」
「本当に、体調は悪くないの?無理していない?」
綾乃ちゃんの優しさが、私の胸に深く突き刺さる。彼女を傷つけたくなくて、どうしても私は早紀さんの事を話せなかった。
「…うん、大丈夫」
「そう、それなら良かった。
夏樹さん、少し休みなよ。ご飯食べていないんでしょう?
軽く食べれそう?」
「あ、忘れてた!私が作るから。本当にごめん!!」
慌てる私を、突然綾乃ちゃんが抱きしめた。苦しい程腕の中に捕らわれ、彼女は囁いた。
「大丈夫。焦らなくて良いから。もう謝らないで」
「…うん、ごめん、分かった」
ゆっくり腕をほどくと、私と目を合わせて身体を離した。私の様子がおかしい事を分かっている筈なのに、何も尋ねない綾乃ちゃんの気遣いが、私を酷く追い詰める。
次第に溢れる涙が頬をつたう。嗚咽をあげる私を優しく抱き寄せる彼女に、私はもう限界だった。
「どうしてっ、何も聞いてくれないの!?」
「夏樹さんは、聞いて欲しいの?」
「綾乃ちゃんは、優しすぎるんだよ!!」
「そんな事ないよ。
私、自分でも夏樹さんに酷い事してるって自覚してるから…貴女が言いたくなければ言わなくて良いよ」
取り乱して詰め寄る私に、綾乃ちゃんは普段通りの口調で答えた。
「綾乃ちゃんが、無理矢理原因を聞いて、私を責めてくれれば良かったのに!」
「そんな事出来る筈ないでしょう?
夏樹さんの事が心配なのに」
「…私、自分が本当に嫌になる!
こんな時でも、貴女が心配してくれる事が…嬉しいの」
「ふふふ、良かった」
微笑む彼女に泣きながら抱きついた。温かい綾乃ちゃんの香りに包まれる。綾乃ちゃんは黙って抱きしめてくれた。
「…早紀さんの、意識が、戻ったって」
「そっか…」
「…私…会いたいの…」
「会っておいでよ」
「だって…」
「夏樹さん、ずっと待っていたんでしょう?ずっと会いたかったんでしょう?
会いに行かなきゃ」
「…」
「ねぇ、夏樹さん」
答えられない私に、優しく話しかける綾乃ちゃんが悲しくて、私は顔をあげれない。綾乃ちゃんは、きっと私以上に私の気持ちを分かっているのだと思う。
「私、前に貴女に言った事覚えてる?
早紀さんが、目覚めるまで私を代わりにすれば良いって。沢山甘えて、傷つけて良いって。
だから、夏樹さんが傷つく必要はないんだよ?
ずっと、私に遠慮して言えなかったんでしょう?早紀さんの事」
「ごめんなさい…」
「良かったね、夏樹さん…」
「私っ、綾乃ちゃんの事大好きなんだよ!?」
「…うん、ありがとう」
「だから、だから、気持ちを整理して、綾乃ちゃんに会いに来るから!必ず!!」
「ふふ、分かった」
泣き続ける私を、いつまでも綾乃ちゃんは、優しく抱きしめてくれた。
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