第20話 十三夜月(2)

中に入ると、昔ながらの間取りの部屋が広がっていた。部屋一面に敷き詰められた畳が、懐かしさを呼び起こす。


「お邪魔します」


ぎしぎし鳴る廊下を抜けると、居間らしき場所に案内される。必要最低限の家具が置かれただけの部屋の一角に水槽が置いてあり、色とりどりの魚が泳いでいる。隣の小さな水槽には白い生き物が入っていた。

お茶を淹れてくれた水瀬さんに、お礼を言うついでに尋ねてみる。


「これ、何ですか?」

「それ、ウーパールーパーですよ」

「えっ、あの赤い触覚みたいなものがついた?」

「そう。だけど、そのウーパールーパーはその部分が、病気で半分以上なくなったみたい。貰い手がいなくて私が引き取ったんです」

「そうなんですか…」


「さっきの犬や猫も涼が拾って、そのまま飼っているんだよ」

「えっ!?あの子達捨てられていたの?」

「この辺りは結構多いんですよ。そういう事」


しんみりした空気を打ち消すように、綾乃ちゃんが水瀬さんに声をかけた。


「ねぇ、涼。外に出て良い?」

「構わないよ」

「夏樹さん、外にもっと凄い生き物がいるから、見に行かない?」

「凄い生き物って?」

「牛」

「牛!?あの、牛乳を出す?」


「やっぱりそう思うよねー」

「だよね」


水瀬さんと顔を見合わせてため息をつく二人に、何だか悪い事を言ってしまったかの様な気分になる。


「まあ、見に行こうよ」

「牧場があるの?」

「んー、大分想像と違うかもしれないけど…ま、良いか」


家から少し離れた場所に、白い屋根の建物が見えた。中を覗くと、仕切られた柵の中に黒い牛が数頭いて、一斉にこちらを見ている。


「怖い?」

「…思っていたより、大きいね」


綾乃ちゃんの後ろに隠れるように見ている私を、水瀬さんは「こっちが良いかもね」と隣の建物に案内してくれた。小さな仔牛が首を上げてこちらを見ている。


「可愛い」


ゆっくり近づくと、鼻をすんすん鳴らしながら私に寄ってきた。そっと手を伸ばすと、舌を出して舐められそうになり、慌てて引っ込める。


「凄く人懐っこいですね。それに体もふわふわしている」

「その子、ミルクで育てているから、人慣れしているんですよ。毎日、部屋の掃除もするから、汚れないし匂わないでしょう?」

「牛もミルクをあげるんですか!?」


驚く私に、水瀬さんは色々丁寧に説明してくれた。その言葉の隅々から、彼女が凄く熱意を持って仕事に取り組んでいる事が伺えた。仕事の目的が不純だった私には、水瀬さんの生き方が凄く眩しく、羨ましく思えた。


つい話が弾んでしまい、水瀬さんの家を出るときには夕方になっていた。


「また遊びに来てね」


初めに会った印象より、随分と柔らかい表情で挨拶を交わし、手を振って出発した。


「楽しかったね」


綾乃ちゃんに笑いかけると、彼女は少し拗ねた様に「夏樹さん、涼とばかり話してズルい」と呟いた。


「あっ、ごめん!

せっかく久しぶりに会ったのに、私、気が回らなくて…」

「違うの!」


綾乃ちゃんは近くの駐車スペースに車を停めて、少し不機嫌な表情で私を見た。彼女の表情と言葉の意味が分からずに、黙っていると、私の手に指を絡めた。


「涼じゃなくて、私はもっと夏樹さんと話したかった、って事」

「えっ!?」

「…二人で仲良くしているのを見たら、ちょっと妬いちゃったの」

「ふ、ふふふ」

「もう!

自分でも情けないんだから笑わないでよ」


「ごめん、ごめん。…綾乃ちゃん」

「何?」


「大好きだよ」

「…許してあげる」


頬を赤らめた綾乃ちゃんは、嬉しそうな表情で車を発進させる。私と繋いだままの彼女の手に、想いが伝わるようにきゅっと少しだけ力を込めた。


山を下りしばらく走った先に、やがて海が見えて来た。海岸線を進むと浜辺に沢山のオブジェが見える。すぐ近くの駐車スペースには車が何台か停まっていて、その一角に車を停める。

ドアを開けると、潮の匂いが届き、浜辺に波が打ち寄せていた。オブジェは波が当たらない場所に設置されていて、動物や乗り物、人物等が、等間隔で置かれている。


「わっ、凄い!」


オブジェに夕日が当たり、砂浜にそれぞれの影絵が広がっていた。砂浜にいる人達はそれぞれ写真を撮ったり、影絵を眺めていた。ゆっくり歩き進めて最後まで辿り着くと、不意に、綾乃ちゃんが私の腕を引いた。


「夏樹さん、前、見て」

「…」


橙色の海面に、丸い太陽が少しずつ隠れようとしている。辺りに障害物はなく、私の正面には海と夕日だけが存在していた。あまりの美しさに声を無くした私の隣に綾乃ちゃんは立って、前を見たまま語りかけた。


「私ね、高校生の時、毎日この道路を通ったの。辛い時、悲しい時、嬉しい時…同じようで、毎日この景色は違って見えた。夏樹さんに行きたい場所を聞かれたとき、真っ先に思ったのがこの景色だった」

「…」


綾乃ちゃんは私に顔を向けた。夕日に照らされた彼女があまりにも幸せそうに笑っていて、私は息をのんだ。


「私は貴女とこの景色を見たかったの」


「ありがとう…」


張り裂けそうな程の幸せな感情が胸に広がり、言葉にするには上手く伝えれなかった。それでも、震えた声で告げた一言に、彼女は微笑んでくれて、私達は夕日が沈むまでそのまま眺めていた。


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部屋の電気を消してベッドに入ると、温かい空気が私を包む。夏樹さんとこうして一緒に眠るのも初めてじゃないのに、未だにどきどきする。手を伸ばせばすぐに届くのに、私と夏樹さんの間には見えない壁があるように思えて、躊躇する。


夏樹さんは暴行事件以来、不安定な状態が続いていて、就寝時によくうなされていた。そんな時の彼女は、自分の身体を縮めて、何かに怯えるように、丸まっていた。まるで、たった一人で怖がっているような姿が悲しくて、私はそんな彼女をいつも抱きしめていた。

時が過ぎるにつれ、次第に落ち着きを取り戻したが、私は一抹の不安があった。夏樹さんは一切早紀さんの話題を口にしなくなったのだ。敢えて、私も夏樹さんに、早紀さんの事を触れようとはしなかった。私は、彼女が早紀さんの事をどれ程大切に想っていたか知っている。だけど、私を選んでくれた夏樹さんを信じたかった。


そんな彼女が、私を気遣うように話題を避けることは、かえって私に、夏樹さんの早紀さんへの気持ちを感じさせた。彼女の存在が、小さな棘の様に私達の中に刺さっている。私と夏樹さんそれぞれの彼女への想いが、私達の関係に小さな不安の影を落としていた。

自分の心のどこかで、きっと分かっていたのだと思う。夏樹さんは早紀さんの元にいつか帰ってしまうかもしれない、と。


夏樹さんが「私の事を知りたい」と言ってくれた時、脳裏に思い浮かんだのは地元の海だった。空を見るのが好きな夏樹さんならきっと気に入ってくれる。何となくそんな気がして、私は彼女を案内した。久しぶりに見る光景は、何一つ変わっていない筈なのに、大切な人と一緒に眺めるだけで別な光景に見えた。夕日を浴びた彼女は普段よりずっと綺麗で、私は愛しさがあふれ、胸が押し潰されそうだった。


「私は貴女とこの景色を見たかったの」


―いつか私を必要としなくなった時、この光景を見て、私を思い出してくれれば嬉しいから―


伝えきれない言葉を飲み込んで、夏樹さんに微笑む。笑い返してくれる彼女の姿を、自分の目に焼き付けるように見つめていた。



「綾乃ちゃん…」


「何?夏樹さん」


夏樹さんはまだ眠っていなかったらしい。静かに呼び掛ける彼女に、私も小声で返す。


「今日凄く楽しかった」

「そう、良かった。少しは気分転換出来た?」


「あのね…」

「?」

「また、見たいの。貴女と一緒に」


暗闇に慣れた目が、私を見つめる夏樹さんを捉える。とても大切な約束の様に真剣な表情の夏樹さんを、抱き締めたい衝動が襲う。彼女に気づかれないよう、ぎゅっと手に力を込めて衝動を抑えた。


「…うん、夏樹さんが望むなら、良いよ」

「本当に?」


「約束する。だから、もう眠ったら?

今日は色々体験したから、身体が疲れたでしょう?」

「分かった、約束ね。…お休みなさい」


「お休みなさい、夏樹さん」


いつもの様に、布団の中で夏樹さんと手を繋ぐ。やがて安心した様に彼女の穏やかな呼吸が聞こえてきた。

私がどれ程貴女の事を好きなのか、きっと夏樹さんは分からないだろう。愛という見えない、触れないものを自分が信じなければ、私は貴女の傍にいることが不安に思えてしまう。

だから、今だけでも良いから、私を見てほしい―


「大好きだよ、夏樹さん」


そっと彼女の頬にキスして、目を閉じた。

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