第18話 十日余りの月(3)
微かに聞こえる音で、目を覚ます。キッチンの照明が、暗い部屋に光を差し込んでいる。ベッドから起き上がろうとすると身体のあちこちが痛み、服を着せられていた事に気がついた。窓の外は暗く、陽が落ちて随分経ったことが分かる。
キッチンから美味しそうな匂いが流れ込んでいて、急に空腹を覚えた。ふと、光を遮りキッチンから人影がこちらを覗いた。
「夏樹さん、起きてる?」
「綾乃ちゃん…」
掠れ声で名を呼び身体を起こすと、灯りが灯され、部屋が明るくなる。眩しさに目を細める私の隣に座り、乱れた髪を手櫛で整えてくれる。
「身体、大丈夫?」
尋ねられて、先程までの記憶が蘇り、恥ずかしさが一気に押し寄せた。
「…え、あの、身体を動かすのが、辛い、かな」
「あー、ごめん」
「あの、別に…謝って欲しい訳じゃなくて…私が望んだ事だし…」
ちゅっ、と、キスされて何も言えなくなる。くすくすと笑って、綾乃ちゃんは愛しそうに私を見た。
「唇、腫れちゃってる」
「も、もう!?」
「夏樹さんが眠っていた間、勝手にキッチン借りたんだけど、何か食べれそう?」
「うん、良い匂いがすると思っていたの」
「あまり、自信ないんだけどね」
「ううん、前に作って貰ったお弁当も美味しかったし、料理上手だよ」
「あれは、何度も練習したから。何でも直ぐ作れる夏樹さんや晴次さんには、全然敵わないよ」
「綾乃ちゃん、料理苦手なんでしょう。苦手な事に挑戦するのは凄く大変だったと思う。貴女の気持ちがこもった料理が美味しくない筈ないわよ」
「…ありがと」
ぎゅっと抱きつかれたまま囁かれた。抱き締められる感触が心地好くて、身体を預けてしまいそうになる。
「夏樹さん、ご飯食べる?それとも…もう一度、ベッドに戻る?」
含み笑いの声が聞こえて、慌てて身体を離した。「残念」と笑いながら、綾乃ちゃんは私に手を伸ばす。
「一緒にご飯食べようか?」
「うん」
彼女の手を取ってゆっくり立ち上がると、どちらともなく微笑みあった。
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「はい、どうぞ」
目の前に置かれたのは、湯気が立ち上った少し大きめの深皿だった。
「ポトフ?」
「うん、食欲がないときでも食べやすいかな、と思って」
やや大きめにカットされた根菜とウインナー、ベーコンが彩り良く入っていて、美味しそうな匂いがする。対面に綾乃ちゃんが座って、心配そうに見つめていた。
「いただきます」
じゃが芋を半分割って口にいれると、優しいスープの味が広がった。「凄く美味しい」と微笑むと、少し照れくさそうな表情で「良かった」と呟き、食べ始めた。
「綾乃ちゃん、やっぱり料理上手じゃない」
「ネットでレシピを調べて、その通りに作っただけだよ。野菜の切り方から調べたもん」
「美味しく作れてるよ」
綾乃ちゃんは無言だったが、顔には喜色が浮かんでいた。「私も頑張ってみようかな…」と呟いているのが聞こえて、思わず微笑む。温かい料理に身体と心が、ほんのり温まっていくような気がした。
食後のコーヒーを飲んで、談笑して…時間は瞬く間に過ぎていく。いつもと違うのは、彼女がずっとこのままいてくれること。意識しない訳ではなかったが、今は安堵感が大きかった。
「電気消して良い?」
「大丈夫よ」
部屋が暗くなり、視界が闇に覆われる。ベッドに身動ぎする気配があって、目が暗闇に慣れた頃、直ぐ近くに私を見つめる彼女と目があった。
「夏樹さんは狭くない?私、下で寝ても良いんだよ?」
「ううん、狭くないよ。ごめんね、布団一つしかなくて…」
「私は夏樹さんと一緒に眠れるのが、むしろ嬉しいけどね」
彼女の手が私の手に重なり、指を絡める。何気ない口調とは反対の、触れ合う指の仕草に、鼓動が早まる。上手く言葉を返せない私にそっと顔が近づく。先程何度も繰り返された行為に反射的に目を閉じた。優しく一度触れた後ふっと笑う。
「もう何もしないから、安心して眠ってね」
「えっ?」
「身体辛いでしょう。それとももっと、お望みなの?」
「!?え、遠慮しとくわ!」
「ふふ、冗談だよ。お休みなさい」
「…お休みなさい」
そっぽを向いて不機嫌な声で挨拶を交わすが、彼女の手をしっかりと繋ぐ。その事に気付いた綾乃ちゃんは、くすくす笑っていた。
眠りについた夢の中で、あの恐怖が私を襲う。声を出すことも出来ず震える身体を縮めていると、ふと私の身体を包む温かい感触があった。
「大丈夫だよ」
その一言に酷く安心して、夢見心地で手を伸ばす。抱きつくと落ち着かせる様に背中を擦られ、私は再び微睡んでいった。
室内がほんのり明るくなった頃、目を覚ました。直ぐ傍に、綾乃ちゃんの顔があって、一気に眠気が覚める。規則正しい寝息が聞こえて、こちらを向いたままま動かない彼女の顔を見つめた。片手は私の手を、もう片方の手で私の身体に回したままの彼女には、うっすら隈が出来ていた。この二日間自分の事で精一杯だったが、大変だったのは彼女も一緒だった。ひょっとしたら私より大変だったのかもしれない、そう気が付いて泣きそうになる。
彼女に甘えてばかりいる訳にはいかない。ゆっくり、起こさぬようにベッドから抜け出し、そっと布団を掛け直す。
窓からは朝日が見えて、青空が広がっている。激変した私の新しい生活が始まる。暫く青空を見てからキッチンに向かうと冷蔵庫の食材を確認して、やがて起きてくる彼女の為に朝食を作ることにした。
「ごめん、寝過ごした!」
朝食を作り終えそろそろ起こそうかと時計を見た時、慌ただしく綾乃ちゃんが起きてきた。私を見て、テーブルに置かれた食事を見た後、ほっとしたように座り込む。
「おはよう」
「おはよ、夏樹さんは眠れた?」
「綾乃ちゃんのおかげで、大丈夫だったよ」
「そっか。…良かった」
少し疲労の色が見える顔に安堵の笑みを浮かべる彼女に、胸が詰まりぎゅっと抱きしめた。
「? 夏樹さん?」
「綾乃ちゃん、本当にありがとう…色々心配かけてごめんね」
「…大丈夫だよ。だって、私にとって夏樹さんは大切な存在だから、当たり前じゃない」
「綾乃ちゃん…」
「ふふ、ありがとう。夏樹さん」
綾乃ちゃんが笑った拍子にくうっとお腹の鳴る音が聞こえた。「ごめん、お腹がすいちゃった」と真っ赤になりながら、苦笑いする彼女の為、私も笑って身体を離すと、彼女を食事に誘った。
「綾乃ちゃん、今日大学の講義があるんでしょう。時間大丈夫?」
「うん、時間は大丈夫なんだけど、夕方まであるんだよね。夏樹さんは一人で大丈夫?」
「私もきっとバタバタすると思うけど、大丈夫よ。心配しないで」
「大変だったら、遠慮しないでいつでも電話してね」
「分かった。ありがとう」
「それじゃ、行ってきます」
慌ただしく靴を履く彼女と揃って出るつもりで、支度を整え玄関を開けようとすると、ドアノブを持つ手を押さえられた。
「…夏樹さんを補給しとくの忘れた」
「!?…んっ」
引き寄せられ唇を塞がれる。立っていられなくて壁にもたれる私に、何度もキスしてから彼女は身体を離した。お互い荒い息遣いの中、彼女を見やると、綾乃ちゃんは私の唇を指先で拭った。
「口紅、取れちゃった…ごめん。
行ってくるね」
ぺろりと舌を出して、元気良く外に出ていった彼女に、翻弄されぱなしの私は暫く立ち上がれずにいた。
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