第17話 十日余りの月(2)

アラーム音が聞こえて、止めようと手を伸ばす前に音が止まる。ゆっくり目を開けると、綾乃ちゃんがスマホのアラームを切ったらしく、私と目が合うと微笑んだ。


「おはよう」

「…おはよう」


「まだ早いよ。もう少し休んでいたら?」

「…うん」


髪をそっと掻き上げて、おでこにひんやりとした手を当てられるのを目を閉じたまま感じた。ほっと安堵のため息が聞こえて、静かに手が離れていく。


「…綾乃ちゃんこそ、休んだの?」

「ちゃんと休んだよ。心配しないで」


目を開けて彼女を見上げると、苦笑している彼女が見えた。目の下にうっすら隈があったが、彼女はそれ以上何も言わなかったので、私も問わずにゆっくり身体を起こす。綾乃ちゃんが椅子に置いてあった自分の上着を肩に掛けてくれた。


「体調はどう?痛い所はない?」

「うん。大丈夫だよ」


身体のだるさはあったが動けない程ではなく、立ち上がってもふらつかなかった。いつの間にかカーテンは開けられていて、窓から朝日が見えた。空は綺麗に晴れ上がり、昨日の出来事からそれほど時間が経っていない筈なのに随分前の事に思えてしまった。ベッドに腰掛け暫く見つめていると、何も言わない綾乃ちゃんが私を見ている事に気付き、視線を向ける。


「夏樹さんは空が好きなんだね」

「うん、小さな頃から良く見ていて、癖になったみたい」

「ふふ、そうなんだ」


つられるように、綾乃ちゃんも眺める。二人無言で流れる時間の中、私は思い切って口に出した。


「綾乃ちゃん…私、貴女に話さないといけない事があるの」


「話さないといけない事?」

「うん」


それから私は、今までの事を全て打ち明けた。早紀さんの事、会社の事、復讐の事…全てを話終えて、沈黙が降りる。

彼女をこんな形で巻き込んでしまい、呆れられて、嫌われてしまうかもしれなかった。だけど、彼女の優しさに触れて、もう隠しておきたくはない。


「ごめんね、綾乃ちゃん」

「…」

「私は、もう大丈夫だから。私、一人で大丈夫だから。心配しないで」

「…」


沈黙が怖くて目を閉じる。衣擦れの音が聞こえ、私の頬にひんやりとした感触が伝わった。目を開けると、綾乃ちゃんが私の顔に手を当てていた。


「嘘つき。夏樹さん、全然大丈夫そうな顔してない」

「あ…」


「私、知っていたよ。全部」


「えっ?」

「黙っていてごめんね。私、晴次さんに貴女の事を聞いて、夏樹さんの身に万が一が起きないようにって頼まれていたの」

「…いつから?」

「クリスマスを過ぎた頃」


「…幻滅した?」


「どうして?」

「だって…」


何も言えなくて戸惑う私に、綾乃ちゃんは笑いかける。


「どちらかと言うと、悲しかったかな」

「…」


「夏樹さんがどれだけ早紀さんを大切にしていたか、分かったから」

「えっ!?」

「自分の人生を捧げる位大切な存在だったんだなって…

だけど、私が夏樹さんを想う気持ちは変わらないよ」


「綾乃ちゃん…」


何か言おうと口を開きかけた時、ノック音がして看護師が入ってきた。

綾乃ちゃんは、気持ちを切り替えるように立ち上がると「少し外に出てくるね」と部屋を出ていった。



その後の診察で異常なしと言われて許可が出たので、私は昼前には退院する事が出来た。いつの間にか準備してくれていた服に着替え、晴次さんと綾乃ちゃんに付き添われて自宅に戻り、晴次さんが作ってくれた昼食を三人で囲む。

片付けようとする私を制して、二人が食器を洗い始める。


「晴次さんって、料理上手なんですね。イケメンで料理上手は、ズルくないですか?」

「綾乃ちゃんはしないのか?料理は意外に楽しいぞ」

「私、苦手なんです」

「教えてやろうか?」

「うわっ!そのドヤ顔と上から目線、ムカつく。

絶対晴次さんからは教わらないから」

「悔しかったら、上達する事だな」

「~っ!?」


キッチンで洗い物をしながら言い合う二人を見て、不思議な気持ちになる。私が考えていた以上に二人は親しくて、端から見ていると、いちゃついている恋人同士にしか見えない。

手を拭いて部屋に戻る二人は、そんな私の視線に気がついたらしい。


「何だか二人とも、凄く楽しそうだなって…」


思わず口にした言葉が、僻んでいる様に聞こえてしまいそうで慌てると、綾乃ちゃんが私の手を取って笑った。


「夏樹さんがいてくれれば、きっと、もっと楽しいよ。

これからゆっくりする時間も出来るんでしょう?

約束したじゃない?沢山楽しい事をしようよ」

「そうだな、三人でどこかに行くのも良いかもしれないな」


「…ありがと」


二人の言葉に泣きそうになるのを堪えて、笑い返す。場の空気を変えるように綾乃ちゃんが、イタズラっぽく私に囁く。


「夏樹さん。ひょっとして、私と晴次さんの仲の良さに妬いた?」

「えっ!?いや、その…」

「大丈夫、私は夏樹さん一筋だから」

「ふぇっ!?」


動揺しているところに抱きつかれ、変な声が出た。晴次さんもいるのに抱きつかれるのは、流石に恥ずかしいと思っているのに、綾乃ちゃんは晴次さんに見せつけるかのように私にくっついてくる。


「羨ましいでしょう?晴次さん」

「お前っ!!」

「さっきのお返しだもん」

「…後で覚えておけよ」

「ふふーん」


「ふふふ」


思わず笑いだすと、二人もつられて笑いだす。楽しくて、くすぐったくて、涙が出そうな程幸せな時が流れた。


【改ページ】

「それじゃあ、またな」

「うん、ありがとう」


暫くしてから、晴次さんは帰る為に立ち上がった。玄関で見送る私を見てから、ちらりと綾乃ちゃんを見る。彼女が少し頷くのが見えたが、何も言わずに帰っていった。


「夏樹さん」

「うん?」

「私も帰った方が良い?」


綾乃ちゃんが私に許可を求めるように、見つめる。自分の顔が赤くなるのを自覚しながら、小声で問いかける。


「…今夜まで、一緒にいてくれる?」

「うん、良いよ」


「本当に良いの?」

「勿論、私も夏樹さんと一緒に過ごしたいの」

「ありがとう」


ほっとして笑うと、彼女も笑った。


「少しだけ時間を貰えるかな?私、着替えを持って来るね」

「あ、そうだね。急がなくて良いからね」

「何か欲しいものがある?」

「ううん、大丈夫だよ」

「思い出したときは、電話してね」


靴を履いて出ようとする彼女を、呼び止める。


「綾乃ちゃん、これ…」

「何の鍵?」

「…この部屋のスペアキー。預かっていてくれるかな?」


鍵を渡す事の意味を知らない訳じゃない。だけど、彼女の想いに自分が少しずつ絆されていくのを感じていた。


「…良いの?」

「私、まだ自分の気持ちがはっきり分からないの…だけど、貴女の傍にいたいと思ってる。

今はこれだけしか言えなくて、自分でもズルいって分かっているけど…受け取って貰えるかな?」


「ありがとう。私にはそれだけで十分だよ」


「ごめんね」

「謝らないで。私嬉しいんだよ。

夏樹さんに鍵を預けられる位、信頼されているっていうことでしょう?」

「綾乃ちゃん…」

「ほら、少し休んでいて。まだ体調は良くないんでしょう?

ついでに、夕食の材料も買ってくるね。私が作るから」

「良いの?」

「頑張ってみます!!」

「ふふふ」

「じゃあ、行ってきます」


鍵を受け取り大切そうにバックの中に入れると、綾乃ちゃんは嬉しそうに手を振ってドアを閉めた。



賑やかだった部屋は一人きりになった途端、やけに静かに感じた。いつもは気にならない静けさが少し怖くなり、音楽をかけ流す。休もうと思うものの、昨日からお風呂に入っていなかったのが気になり、シャワーを浴びる事にした。

服を脱ごうとすると、胸に赤い痣がある事に気がつく。それが社長に掴まれた跡だと分かった途端、恐怖が蘇り、慌ててシャワーのお湯で洗い流した。腕や首、身体のあちこちにある痣を見つける度、あの時の光景がちらつき身体がすくむ。次第に吐き気を感じて、浴室に座り込んだまま何度も何度も身体を洗い流す。お湯を浴びている筈なのに身体は震えだし、いつまで経ってもあの感触が拭えなくて、ひたすら擦り続ける。


「夏樹さん?」


脱衣場から綾乃ちゃんの声が聞こえた。もう帰ってきたのだろうか。彼女には見られたくない、と思うものの、身体はすくんだまま、返事が出来ない。


「大丈夫?気分悪いの?」


「…」


「夏樹さん、ごめん。開けるね?」


「やっ!!」

「!?」


綾乃ちゃんは浴室の扉を開け、私の姿を見ると急いでシャワーを止めた。自分が濡れることも構わないまま浴室に入ると、バスタオルで私を背中から包み込む。そのまま私を抱き起こしてぎゅっと抱きしめた。


「大丈夫だよ、夏樹さん」


湯煙の中、びしょ濡れの私をあやすように耳元で優しく語りかける。震えが収まるまで、身体を包んで語りかけてくれた。


「怖かったね」

「…」

「部屋に戻ろうか?もう十分でしょう?」

「…」

「立ち上がれそう?」


「…綾乃ちゃん」

「ん?」

「…服、ごめん」

「着替え持ってきたから、大丈夫だよ。行こう?」

「うん…」


ゆっくり立ち上がり浴室から抜け出すと、綾乃ちゃんが別のバスタオルを身体に巻き付けてくれた。支えられて部屋に戻ると、ベッドに腰掛ける。明るい蛍光灯の下で自分の腕を見ると、擦りすぎて身体が赤くなっていた。


「夏樹さん、身体を拭くから少し待っていて?」

「ごめん…」


目を閉じて、震える身体を堪えるように膝を抱えて座っていると、隣に綾乃ちゃんが座った気配がした。優しく拭き取るタオルの感触が頭から肩、腕にゆっくりと降りてくる。


「震えているの?」

「…あの時の、事、思い出して、身体中、気持ち悪くて…」


そっと腕を触られて、労るように撫でられる。


「私が触ってもイヤじゃない?」

「うん…」



反対の腕を取ると、同じように繰り返す。マッサージより優しくゆっくりと撫でられて、徐々に身体の力が抜けていく。目を開けると、私の指先が彼女の胸元に当たって、私はその時、綾乃ちゃんがシャツ一枚羽織っただけの格好でいることに気がついた。


「!?」

「ごめん、イヤだった?」

「ち、違う!綾乃ちゃん、服!?」

「うん、さっき濡れたから、とりあえず羽織ったの」

「あっ、ご、ごめん!!あのっ…!?」


首元に腕が回されて、引き寄せられた。バスタオル越しに、いつもよりずっと柔らかな身体が当たり、私は身動き出来なくなった。


「あ、綾乃ちゃん!?」


「夏樹さん、返事はいらないから答えてくれる?」

「えっ…」


緊張した、どこか悲しそうな声色で彼女は私に囁いた。


「身体に触れられるのが嫌じゃなければ、私に貴女の辛い記憶を上書きさせて欲しいの」


「!?」

「唇にキスはしない。私が、貴女の初めてを、全部やり直すから。

…嫌なら拒否してくれる?

夏樹さんが決めて欲しいの」


「でも…」

「拒否されても、私は気にしないよ。今日は一緒に過ごすって約束したでしょう?心配しないで」


少しだけ身体を離して、彼女は私を見た。優しい瞳が私を包んでいる。


傍にいたいと言った気持ちに嘘はない。私は、もう彼女と離れたくない―そう思うと、自然と口から言葉がこぼれた。


「私、貴女が好きだよ」

「…」


息をのむ音が聞こえて、綾乃ちゃんは時が止まった様に動かなくなった。お互いの視線だけが、存在を確かにしているみたいだ。


「…もう一度、言って?」


「私は、綾乃ちゃんの事が好き」


「…本当なの?

早紀さんの事は?」

「早紀さんの事は今でも大切に想っているよ。だけどね、傍にいたいし、いて欲しいのは綾乃ちゃんなの…どう言えば良いのかな、貴女への好きは、早紀さんへの想いとは違う特別な気持ちなの」


「…無理しなくても良いんだよ、夏樹さん」


寂しそうな口調の彼女に、上手く説明出来ないもどかしさだけが募る。私の気持ちを伝えたくて、ばくばく跳ねる心臓の音が聞こえるような静けさの中、ゆっくり彼女に近づき唇を重ねた。


「っ!?夏樹さん!?」


触れるだけのキスだったのに、彼女は酷く狼狽えた。私もきっと真っ赤になっている筈だけど、恥ずかしさを隠して微笑んだ。


「これで、信じてくれるかな?」


「…うん」


少し涙混じりの声と共に、涙が彼女の頬を伝っていて、私はそっと頬に手を伸ばす。


「綾乃ちゃん、泣いてるの…?」

「うん、嬉しいの…」


濡れた頬を拭う手に彼女の指が重なる。綾乃ちゃんの香りがふっと近づき、すぐ傍の涙で濡れた瞳が、きらきらと光っているように見えた。


「夏樹さん、大好きだよ」

「私も、好きよ」


彼女の顔が近づき目を閉じると、柔らかな感触が唇に触れた。優しく重なり合って、何も考えられないくらい胸が高鳴り続ける。それだけで、呼吸が荒くなる私を気遣う瞳に微笑みかけて、私は彼女を抱きしめた。服とは違う、温かい素肌が触れ合う度、自分の身体に熱が伝わる。甘い香りがより強く薫り、胸がぎゅっと締め付けられる。

思わず吐息が零れ、恥ずかしくなって顔を綾乃ちゃんの首に埋めるように隠すと、彼女が笑うのが分かった。


「大丈夫?」

「…あまり大丈夫じゃない、かも。心臓が凄くどきどきしてる」

「ふふふ、私も一緒」


首元に柔らかい感触があたって、びくっと身体が跳ねた。未体験の感覚が怖くて、ぎゅっと目を閉じる。


「怖い?」

「…うん」

「止めようか?」


心配そうに尋ねる綾乃ちゃんの身体から離れたくなくて、腕に力を入れた。そっと顔を持ち上げられると、優しくキスされる。


「夏樹さん、目を開けて。私を見て」


彼女は私を見たまま、擦りすぎて赤くなった腕にゆっくり唇を落とした。優しく艶かしい仕草に、身体が熱くなる。


「まだ怖い?」


いつもの彼女ではない妖艶な姿に声を出せず、横に少し首を振ると安堵した様に笑った。


「怖かったら直ぐ止めるから」


反対の腕に触れた彼女の指を、そっと掴む。拒絶したと勘違いされないように指を絡めて彼女を見る。言葉を待つ彼女に、羞恥から倒れ込みたくなる自分を叱咤して、少し震える声で告げた。


「大丈夫、大丈夫だから。このまま…」


「…うん」


もう片方の指も絡めると、顔が近づいてくる。ゆっくり目を閉じると、何度も唇が重なり次第に何も考えられなくなっていく。

いつしかベッドに横たわる私を、見下ろす彼女は優しく微笑んだ。

それから、綾乃ちゃんは私の身体の全てに同じ事を繰り返した。少しずつゆっくり優しく触れられる感触と、彼女の私への眼差しが、恐怖よりももどかしさと、ぞくぞくした感覚を呼び起こす。


何度も声を上げ真っ白になった頭の中、遠くで私の名を呼ぶ声が聞こえた気がした。

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