第16話十日余りの月
目を覚ますと、見慣れない白い天井が目に入る。蛍光灯の灯りが控えめに点いているだけで、カーテンに閉めきられているベッドの上…
どこか分からずに記憶を辿る。意識を失う前の光景がフラッシュバックして、声にならない叫びが出た。身体が勝手に震えるのを抑えられない。私は、社長に―
「やっ!!」
ぎゅっと目をつぶり、身体に腕を回してうずくまる。怖い、怖い―
「夏樹さん!!」
カーテンが少し開き、綾乃ちゃんが私を見た途端、駆け寄った。
「大丈夫だよ、夏樹さん」
私を抱いたまま、綾乃ちゃんは言葉を続けた。
「もう、全部終わったから。夏樹さんが心配する事はないんだよ」
「綾乃ちゃん…」
何度も「大丈夫」と繰り返し、私の身体の震えを治めるのように背中を擦り続ける。綾乃ちゃんの言葉がゆっくり頭に入っていくと、少し落ち着きを取り戻した私は、その時、初めて彼女の身体も酷く震えていた事に気がついた。
自分の身体から腕を離し、彼女の身体にそっと伸ばすと、片手に点滴のチューブが繋がれている事に気が付く。そういえば、服もゆったりとしたワンピース調の物を着せられていた。
「…綾乃ちゃん、もう大丈夫」
「夏樹さん…」
身体を離した綾乃ちゃんの顔は憔悴していて、私の事をどれ程心配していたかが分かってしまった。
「ここは…?」
「病室だよ。夏樹さんは意識を失って、病院に運ばれたの」
「病院…」
「夏樹さんは2時間くらい眠っていたんだよ」
綾乃ちゃんは私をベッドに寝かせると、安心させるように笑いかけるが、その笑顔は痛々しかった。
「起きたら、看護師さんを呼ぶように言われてたの。少し待っててね?」
「綾乃ちゃん」
「?」
カーテンの外に出ようとする綾乃ちゃんを呼び止める。傍に来た彼女の手に触れると、ぎゅっと私の手を両手で包んでくれた。
「私、どうしてここにいるの?
あの時何が起こったの?綾乃ちゃんの声が聞こえた気がするけど、貴女が助けてくれたの?」
「えーと…」
苦笑しながら、綾乃ちゃんは私の傍の椅子に腰掛けた。
「分かった。とりあえず話をするから。
だけど、後からきちんと診察を受けてね?運び込まれた時に、酷い熱もあったんだよ」
「うん」
「あのね、あの時、私と晴次さんが会社に駆けつけたの。襲われていた夏樹さんを見て、晴次さんが社長を取り押さえて、そのまま通報した警察に引き渡した。社長は現行犯逮捕されたみたいだよ」
淡々と話す綾乃ちゃんの言葉に、思考が追いつかない。頭の中はどうして、と疑問ばかりが浮かぶ。
「どうして…どうして晴次さんと貴女が一緒にいたの?
何で私の事が分かったの…」
「夏樹さんはあの少し前に、私がメッセージを送ったのを覚えている?」
「ええ…後から返信しようと思って、ポケットにしまったままだったの」
「良かった…」
「?」
「夏樹さんがスマホをポケットに入れたままだったから、私達は助けに来れたんだよ。あの時、スマホは通話中だったの。偶々晴次さんと会っていた私が、何度か呼び掛けたんだけど、気づかれなくて通話を切ろうとしたら、尋常ではない音と声が聞こえた。それで、私達は急いで駆けつけたんだけど…」
「そうだったの…」
「ごめんね、夏樹さん…」
「えっ?」
「私がもう少し早く気付けば、あんな事にならなかったのに…」
声を震わせて俯く綾乃ちゃんの頬に、涙が一筋流れた。彼女は腕でごしごしと乱暴に拭うと、赤い目のまま私を見て「ごめん」ともう一度謝った。
「綾乃ちゃんのせいじゃないから!」
私は起き上がると、彼女に向き合う。
「私の身勝手な復讐に貴女は巻き込まれたんだよ!むしろ、私が謝らなければいけないの。綾乃ちゃんが責任を感じる必要はないから!
ごめんなさい、綾乃ちゃん、怖い思いをさせて…本当に、ごめんなさい」
「っ夏樹さん!!」
二人とも泣きながら抱き合う。私は、助かったんだ…と実感すると、涙が止まらなくなった。綾乃ちゃんの温かい身体が、私を安心させてくれる。彼女を求めるように、ぎゅっと抱きしめ続けた。
その後、医師の診察を受けて、幾つか質問をされた。殴られた頬が腫れていたのと、過労による体調不良を診断されて薬を処方されると、暫くして、女性が二人入ってきた。警察手帳を開いた彼女達は、医師から私の容態を聞いたらしく、事情聴取を求めてきたので、私は今までの経緯を話した。私が相談していた弁護士事務所にも事情を聞くとの事で、連絡先を教えた。
警察官が部屋を出た後、手の中のスマホを見る。メールが何件か入っている事に気付きアプリを開くと、広告の間に弁護士事務所からの連絡が入っていた。慌ただしさの中で覚えていなかったが、自分で幾つか適当に返信もしていたらしい。あの時の私は本当にどうかしていた、一歩間違えば、無事では済まなかった、と今更ながらに、自分の未熟さに血の気が引く思いがした。
ドアのノックが聞こえ、綾乃ちゃんの声が聞こえる。私が返事をすると、晴次さんだけが入ってきた。晴次さんは私を見るなり、顔を歪める。それだけで分かってしまう晴次さんの気持ちに、私も彼を見つめる。
「…」
無言のまま、綾乃ちゃんとは違う男の人の硬い腕で抱きしめられた。涙声で「ごめんなさい」と耳元で囁くと、「良かった…」と呟かれ、腕に力が籠る。「ごめん」何度も繰り返す私に、何も言わず晴次さんは私を腕に閉じ込めていた。
「晴次さん、助けてくれてありがとう」
「…ああ」
「ごめんね」
「もう十分謝罪はもらったから、謝るな」
「…うん」
「綾乃ちゃんから色々聞いたんだろう?」
「うん…ねぇ、晴次さん」
「何だ?」
「綾乃ちゃんといつの間に仲良くなったの?」
「は?」
「だって、お互い名前呼びしているし…」
「…夏樹と喧嘩した日があっただろう?
あの後、少し話をする機会があって、そこで、かな」
「そう」
「夏樹の身体は大丈夫だったのか、診察を受けたんだろう?」
「うん、今日一晩経過観察をしてから、異常がなければ、明日退院出来るだろうって」
「そうか…」
ほっとした顔の晴次さんは、腫れている私の頬に手を当てた。びくっとする私の様子に「痛かったか?」と手を退ける。
「ううん、驚いただけ、大丈夫だよ」
「…結構、腫れているな。あの野郎、もう少し殴っておけば良かった」
怒りの表情が収まらない晴次さんを、私は慌てて止めた。晴次さんは格闘技も趣味で、喧嘩も強いのを思い出したからだ。
「逮捕されたんでしょう?もう十分だから!
それに、晴次さんが来てくれたお蔭で乱暴されずに済んだんだから」
「夏樹…」
何か言いたそうにした晴次さんは、私が安心させる為に、作った笑顔を見て、結局何も言わずに微笑んだ。
「明日退院する時は迎えに来るから、ゆっくり休めよ」
「えっ!?晴次さん、明日の仕事は?」
「明日は休日だ。それに」
「それに?」
「お前の会社はあの後、車が沢山停まっていて、中を色々調べられていたぞ。警察以外もいた気がするが…」
「多分、私の方かも。さっきメールを見たら、弁護士事務所から近々強制捜査があるって連絡が入っていたから…」
「お前は、全く…」
ため息をつかれて、身のすくむ気がした。晴次さんは私の頭をくしゃっと撫でると、立ち上がった。
「そういう訳だから、暫くは休めるだろう」
「そっか…」
「とりあえず、必要な物があったら連絡くれ。俺は一旦帰るけど、ここには綾乃ちゃんがいてくれるみたいだから大丈夫だろう?」
「えっ!?うん、分かった」
「じゃあな、お休み」
「ありがとう、晴次さん」
部屋を出ていった後、一人でぼんやりとする。ドア越しに聞こえる音が、私を世界から一人だけぽつんと切り離しているようだ。どのくらいそうしていただろう、控えめなノックとともに綾乃ちゃんが入ってきた。
「夏樹さん…?」
静かな室内に眠っているのだと思ったらしく、ベッドでぼんやりしていた私を見て、少し驚く。曖昧に笑って見せると、彼女は私の隣に座って、そっと手を握った。
「私はここにいるから。もう少し眠った方がいいよ」
「…うん」
誘われるようにベッドに入ると、綾乃ちゃんは手を握ってくれた。その温もりが心地好くて、腫れた頬に彼女の手を当てる。
「氷、貰って来ようか?」
「ううん、このままが良いの」
「綾乃ちゃん」
「何?」
「お願いがあるの…」
「うん」
「私が眠るまでで良いから…傍にいてくれる?」
「今日はずっと一緒にいるよ」
「ううん、もうすぐ夜明けだよ。綾乃ちゃんも休んでいないんでしょう。お願い」
「…分かった。後から休むね。だから、安心して休んで?」
「うん」
目を閉じると真っ暗な世界の中、全ての思考を放棄し頬に当てた手だけを感じる。フラッシュバックする恐怖が、私の身体を強ばらせる。ぎゅっと手に力が入ると、そっと髪をすくように撫でられた。
「大丈夫だよ」
綾乃ちゃんの声と香りがふわりと届いて、強ばった身体からゆっくり力が抜ける。少しずつ落ちていく意識の中で彼女の声が聞こえた気がした。
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