第15話 十日夜の月(4)

年度末の忙しさに忙殺されて、あっという間に日々が過ぎていく。休日を取ることもままならず、連日夜明けまでの残業が続き、目の前の仕事をひたすらこなしていくだけの日常の中、私の書類はきちんと届いたのだろうか、と不安になる。今のところ会社に目立って変化はなく、その事が私を余計に不安にさせていた。

綾乃ちゃんにも会いたかったが、全く会えず、私は疲労と睡眠不足も重なって、まともに考える事が出来ずにいた。


アラームに起こされて今日も1日が始まる。気だるい身体を無理矢理起こし、準備をする。今日も積み上げられた膨大な仕事を頭の片隅に思いながら、ふらふらと会社に向かう。

仕事に取りかかろうとするが、今日はやけに身体が重く感じて、デスクの中に常備している頭痛薬を取り出して流し込む。パソコンの画面に意識を集中しようとするが、気を抜くとぼんやりしてしまう。

(身体が、だるい…熱かな?)


とにかく仕事を終わらせて家で休もうと、なんとか進めた。夕方を過ぎても体調は悪くなる一方で、どうしようもない。今日は残業を切り上げさせてもらおうと思い、立ち上がるとスマホのランプが点滅しているのに気がついた。社内に誰もいない事を確認して、その場で画面を開くと綾乃ちゃんからのメッセージが表示されている。とりあえず後から返信しようとあやふやに画面を閉じて、そのままポケットにしまう。

社長室に向かい、ドアをノックした。今まで数える程しか入った事のない社長室は、まるで別の建物に入ったのような錯覚を覚える。


「失礼します」


ふらつきそうな身体を何とか堪えて社長に向き合う。従業員が私を含めて4名しかいないこの会社は、何もかもに社長の許可がいる。私をちらりと見て、社長は無言で用件を促した。


「体調が悪いので、今日は早目に退社して宜しいでしょうか?」

「君は以前も勤務中に抜け出した事があったね」


'以前'、が綾乃ちゃんが体調を崩して、病院に付き添った事を言われているのだと気付き、慎重に答える。


「はい。病院を受診するためでした」

「それで、今日も体調が悪いから帰りたいと?」

「すいません」


社長がおもむろに立ち上がり、私に近付いてくる。内心酷く動揺していたが、表情に出さないように必死に無表情を貫く。


「体調が悪そうには見えないが?」

「…」

「特別に許そう」

「ありがとうございます…」


緊張の糸が切れそうになるのを、息を少しだけ吐いて誤魔化す。部屋を出ようと、振り返った途端に背後から声をかけられた。


「待ちなさい。少し尋ねたい事がある」

「…何、ですか?」


心拍数が一気に上がり、声が少し上擦る。ゆっくり振り返り、社長を見ると、思ったよりすぐ近くにいることに驚くが、社長は表情を変えることなく私を見ている。その事がとてつもなく怖い。一刻も早く退出したかったが、部屋を出ても社内にいるのは私と社長だけだった。覚悟を決めて向き合うと、社長はにやりと笑った。


「なに、簡単な質問だ。そんなに怯える事もないだろう?」


「…」

「最近我が社の中で、不穏な動きがあるという情報を耳にしたのだが、何か知らないかね?」


「…いえ、知りません」


私はきっと震えていると思う。だけど、社長を見返すようにはっきりと返答をした。どのくらい時間が経ったのか分からない。実際はほんの数秒だった筈だが、私達は視線をぶつけたままだった。


「そうか、分かった」


「残念だよ」


その言葉と共に、思い切り身体を押し倒された。咄嗟の事で受け身も取れず、強かに床に身体を打ち付けてしまい、息が止まりそうになる。馬乗りになった社長は胸ぐらを掴むと、憎悪に染まった表情で私を見下ろしていた。私は恐怖のあまり声を出すことすら出来なかった。


「っ!!ぐっ!」

「やったのは、お前か!」


「余計な事をせずに、大人しく使われていれば良かったものの!」


首元を締められて呼吸が浅くなる。苦しい意識の中で少しだけ笑みが浮かび、それを見た社長は、ふと残酷な表情を浮かべた。


「調子に乗るなよ。自分の置かれた状況を考えるんだな」


片手で首元を押さえたまま、社長は私の服に手を掛けた。一気に身体が硬直する私を見下ろし、笑う。


「っ!?、やっ!!」

「先程の余裕はどうした?」


胸元からボタンをちぎられ、抵抗しようとするが完全に押さえ込まれていて腕が動かせない。咄嗟に叫ぼうとするとハンカチを口に押し込まれた。私の狼狽する姿に、嬉しそうな表情になる社長に、抵抗するすべがなくて涙が流れる。


「良い光景じゃないか。後で写真に撮っておいてやる」


手を伸ばして身体をまさぐられる。激しく暴れると頬を殴られ、意識が朦朧とした。社長は愉快そうに見ながら、私のスカートに手を伸ばしてきた。


(もう、駄目…)


涙で滲む視界の中、ふと、綾乃ちゃんの顔が浮かんだ。


全てを絶望した時、社長室のドアが激しく音をたてて開き、誰かが入ってきた足音が聞こえた。途端に私の上にいた社長が吹き飛び、後ろで激しく争う物音が聞こえる。


「夏樹さんっ!!」


悲鳴に近い声で名前を呼ばれ、抱き起こされる。口の中のハンカチを取り出され、呼吸が一気に楽になり激しく咳き込んだ。朦朧とする意識の中で、私をぎゅっと抱きしめ、何度も名前を呼ぶ声と、あの優しい甘い香りが届いた。

すぐ傍では、まだ激しい物音が続いている…


「綾乃、ちゃん…」

「夏樹さん!!」


顔を見なくても分かる、彼女の名前を呼び掛けようとした所で、私の意識は途絶えた。

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