第14話 十日夜の月(3)

どのくらいそのままでいただろう。私が身動ぎすると彼女はそっと身体を離した。

何だか恥ずかしくて顔が赤いけど、向かい合った綾乃ちゃんの顔も少し赤くなっていた。


「あ、ありがとう。もう、大丈夫だから…」

「うん」


ぎこちない会話につい綾乃ちゃんを見ると、彼女と目が合い、どちらともなく笑い出してしまった。二人の間にいつも通りの空気が流れ、ほっと安心する。

テーブルの上に置かれたままのコーヒーに気が付き、手に取るとすっかり冷たくなっていた。


キッチンに行って二人分のコーヒーを淹れる私の後ろに、いつの間にか綾乃ちゃんが立っていた。


「夏樹さんはお酒は飲まないの?」

「うーん…私、アルコールに弱くて、あまり自分から飲もうとは思わないんだよね。

綾乃ちゃんは好きなの?」

「嗜む程度、かな。気楽に酔える相手となら好きだけど…。

夏樹さんとならいつでも良いよ」

「そうね。綾乃ちゃんとなら楽しいかもね」

「本当に?それなら今度一緒に飲もうよ」

「ふふふ、良いわよ」

「やった!約束ね」


その後は、先程の出来事がまるで夢であったかの様に、寛いで過ごした。ただ、向かいあって座った先程と違い、すぐ隣に座った彼女の服越しに伝わる体温やずっと近くなった笑顔に、どきどきしてしまう。

ふと会話が途切れた後、落ち着かせようと静かに息を吐く私の隣で「くすっ」と忍び笑いが聞こえた。

目をやると、綾乃ちゃんが微笑ましいものを見るかの様に見つめている。


「どうしたの?」


「夏樹さん、さっきから物凄く意識しているでしょう?」

「っ!?」


自分の感情を指摘されたと同時に、彼女の細い指が私の頬を撫で、声に詰まる。優しい指使いが、嫌でも私の体温を上げていく。


「し、仕方ないでしょう!

むしろ、綾乃ちゃんはどうしてそんなに落ち着いていられるの!?」

「私?私も、どきどきしているよ。ほら」


何気ない口調で私の手を取り、自分の胸に押し付ける。ぎゅっと押し付けられた手に柔らかい感触が当たり、私は酷く狼狽えた。


「ね?分かったでしょう?」

「っ、分かった!分かったから!」


恥ずかしくて俯く私を見て、笑いながら手を離す彼女を軽く睨み付ける。


「綾乃ちゃん。私の事、からかっているんでしょう」


悪びれるようでもなく、笑う彼女の表情に、ふっと妖艶さが宿った。ぞくりと震える私の顔に手を伸ばす。避けようと思えば避けれる筈なのに、彼女の瞳から目が離せない。


「からかってなんかないよ。

私、夏樹さんになら何をされても良いから…」


ゆっくりと彼女の顔が近づき、お互いの吐息がかかる。どうすれば良いのか分からなくて、身体は強ばり、ぎゅっと目を瞑る。


「…ごめん」


小さな声が聞こえ、恐る恐る目を開けると、綾乃ちゃんは私から離れて苦笑した。


「夏樹さん。私に遠慮しないで、嫌ならそう言って良いから。

貴女が可愛すぎて、我慢できなくなるところだった」


困ったように笑う彼女に、どう伝えるべきか悩んだが、適当な言葉が見つからず、結局ありのままを伝える事にした。


「…嫌っていうか、私、あの、経験なくて、緊張して…ごめんなさい」


「えっ!?夏樹さん達、両想いだったんでしょう。

そういう事なかったの?」


「うん。…そんな関係っておかしいかな?」

「…そっか」


「お互い大切に想い合っていたんでしょう。気にしているの?」

「あまり気にはしてなかったけど…」


綾乃ちゃんは、ふと、イタズラっぽく笑った。


「それならさ…」

「?」

「夏樹さんがもし練習したいときは、いつでも言ってね?」

「えっ、あ、…うん」


何となく返事をしたものの、彼女の視線から何故か目が離せず戸惑う。そんな私を、優しく彼女は見つめていた。


「ふふふ。…さて、すっかりお邪魔したから、そろそろ帰るね。

今日は、ご馳走さまでした。急だったのに、ありがとう」

「ううん、私こそ何だかありがとう」


今までの雰囲気を変えるように、綾乃ちゃんは明るい口調で立ち上がり、私も慌ててそれに倣う。


コートを着込んで、玄関で振り返る綾乃ちゃんを見送る。靴を履く彼女を見ていると、自分の中に色々な感情が沸き上がる。

ドアを開けようとした綾乃ちゃんは、そんな表情に気がついたのか、向き直ると私を覗き込んだ。


「どうしたの?」

「うん?何でもないよ」


笑顔を取り繕う私に、綾乃ちゃんは私の頬を軽くつつく。


「嘘。夏樹さんって結構分かりやすいよ。

私は貴女にそんな顔をしてほしくないから、何でも言って欲しいの。ほら、言ってみて?」


「…」


躊躇う私に向ける優しい眼差しに勇気をもらい、そっと彼女の手を掴む。面と向かって伝える事が恥ずかしかったので、耳元に顔を寄せて囁いた。

彼女は「了解」とだけ言うと、私をぎゅっと抱き締めてくれた。もこもこしたコート越しでも伝わる優しさにもう少し甘えてから、「ありがとう」と離れようとした私の頬に、温かい感触があった。


「っ!?」

「お休みなさい、夏樹さん。また連絡するね」


頬を押さえて赤くなる私に、にっこりと笑って手を振ると、綾乃ちゃんはドアを開けて出ていった。



結局、中々寝付けないまま朝を迎え、仕事に向かう。投函した書類の連絡が届くにはきっと暫く時間がかかるだろう。油断すると、昨日の様々な出来事を思い返してしまいかねない今の私には、何も考えないで済む仕事の存在が少し有り難かった。


デスクの上に置いてあったスマホが震える音で、我にかえる。画面の差出人を見ただけで、鼓動が跳ねた。昨日のお礼とともに"いつでも良いので一緒にご飯を食べに行こう"と綾乃ちゃんからのメッセージがあった。

今までもメッセージの交換は何度もしていた筈なのに、何気ない文章から綾乃ちゃんの好意が伝わってくるようで、画面を開く指が少し震えてしまう。いつも控えめに笑う彼女が、少し強引で小悪魔的な彼女に印象を代えた昨夜を思いだし、どちらが彼女の本当の姿なのかと考える。だけど、そのギャップさえも彼女の魅力で、私の心は落ち着かなくなる。

一緒に過ごしたいのはやまやまだったが、積み上げられた仕事にため息をついて、暫く難しいかもしれない事を綾乃ちゃんに返信した。


綾乃ちゃんと会えないままあっという間に週末になった。今年は休みが長く、漸く来週に仕事初めを迎える。相変わらず仕事に忙殺されていたが、綾乃ちゃんからのこまめな連絡が、私の繰り返す日常に潤いをもたらしてくれる気がした。


深夜をすっかりまわり、戸締まりをしてドアを閉めると、スマホに綾乃ちゃんのメッセージが入っているのに気づく。一時間前に届いたらしく、画面を操作すると"遅くなっても構わないので、仕事が終わったら電話をして欲しい"とあった。

もう寝てるかもしれない…と心配になったが、電話を掛けるとワンコールで繋がった。


「もしもし?夏樹さん。

今電話して大丈夫?」

「ええ、大丈夫よ。どうしたの?」


「夏樹さん、明日仕事なの?」

「あっ、うん…ごめん。しばらく無理そうなの」

「ううん、別に怒っている訳じゃないよ?あのさ…」

「?」

「明日、お昼前に少しだけ会えないかな?

…五分で良いから」


やけに緊張した彼女の声が耳に届く。


「ええ、それくらいなら大丈夫よ」

「本当!?分かった。ありがとう。ごめんね。

それじゃ明日また連絡するから」

「え、ええ」


少しテンションの高い彼女につられるように返事をすると、思い出したかのように、いつもの彼女のトーンに戻る。


「夏樹さん」

「何?」


「お仕事お疲れ様。大変だと思うけど、身体に気をつけて休んでね?」

「…ありがと」


電話越しの声が、私の耳に届くと、彼女の顔までも浮かんできて、思わず会いたくなってしまった。通話を切っても、しばらく画面を眺めて、表通りに出る。

冷たい空気と、静けさが心を沈めてくれるようだった。見上げた空の月は今夜も綺麗で、少しだけ明日を楽しみにしながら帰宅した。


翌日の昼前に、会社近くの植え込みの側で待っていると、綾乃ちゃんが手を振って近づいてきた。


「ごめんね、これを渡したくて…」


少し恥ずかしそうに手渡された物は、小さなファスナー付のバックだった。受け取ると、ほんのり温かさが伝わる。


「これ、もしかして…お弁当?」


「うん。

あのね、夏樹さんがずっと忙しそうだったから、私も何か出来る事がないか考えてみたの。休日なら時間もあるし、お弁当作れるかなと思って作ってみたけど…受け取ってもらえるかな?」


以前料理が全く出来ないと言っていた彼女のプレゼントに、その気持ちが嬉しくて胸が詰まった。不安そうな綾乃ちゃんに、つい抱きつきそうになるのを堪えた。


「ありがとう。凄く嬉しい」

「良かった。一応、味は大丈夫だと思う」

「一生懸命作ってくれたんでしょう。心配してないわよ」

「うーん、夏樹さんが料理上手だから心配だよ」

「うふふ、楽しみにしておくね」


「用件はこれだけだったの。ごめんね、仕事中だったのにお邪魔して」

「ううん、大丈夫。私こそ、わざわざありがとう」

「それじゃ、お仕事頑張ってね」

「うん」


会社に戻ろうとして振り返ると、彼女はまだそこにいて、私を見ていた。


「綾乃ちゃん」

「?」


「あのね、…また、電話するから」

「うん、待ってる」


伝えようとした言葉は彼女の姿を見た途端、口に出せずに、結局曖昧に挨拶を交わして会社に戻った。


仕事をきりの良いところで一旦終わらせると、普段誰も来ない給湯室に行き、まだ温かいお弁当を広げた。自分の親にすら頼めなかった、手作りのお弁当を貰うのは初めてで、何が入っているのか、わくわくしながら蓋をとる。


「わぁ」


一口サイズのハンバーグを中心に可愛らしく飾られたミニトマトやブロッコリーが綺麗に詰められていて、食べる事が勿体ない位だった。温かいうちに持ってきてくれた綾乃ちゃんの気持ちを無駄にしたくなくて「頂きます」と手を合わせてから箸をとる。


「美味しい」


普段は簡単に取るだけで、忙しさにかまけて抜く事もある昼食が、私の身体と心に染みた。食べ終わってから丁寧に片付けると、早速綾乃ちゃんにお礼のメッセージを送った。直ぐの既読と、可愛いスタンプが彼女の気持ちを代弁していて、思わず笑みがこぼれた。

(会いたいな…)


思い浮かぶのは彼女の笑顔…そんな自分の心境の変化に驚きながら、仕事に向かった。

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