第13話 十日夜の月(2)
綾乃ちゃんから連絡があったのは、部屋の掃除が終わって久しぶりの夕食を作り終えた頃だった。程なくして玄関のチャイムが鳴り、ドアを開けると綾乃ちゃんが待ちかねたように立っていた。
「いらっしゃい」
「お邪魔します。遅くなってごめんなさい」
「ううん、大丈夫よ。寒かったでしょう。中に入って」
「夏樹さん、これ。一緒に食べようと思って買ってきたんだけど…」
差し出された袋には、お菓子やスイーツが入っていた。
「わぁ、美味しそう。わざわざありがとう」
「ねえ夏樹さん、私、ご飯までお邪魔しちゃって良かったの?
夏樹さんの迷惑になっていない?」
「何言っているの。私の方こそ、この間綾乃ちゃんに迷惑かけちゃったお礼のつもりで誘ったんだから気にしないで」
「何だかごめんね」
遠慮する彼女を部屋に上げて座らせると、夕食の支度を始める。綾乃ちゃんが立ち上がると、さりげなく支度を手伝ってくれる。先程見た映画や友人の話など話題は尽きず、二人で夕食を取りながら楽しく過ごしていく。綾乃ちゃんはいつも美味しそうに食べてくれるので、料理を作るのもついつい張り切ってしまう。
食後のコーヒーを二人分淹れて、綾乃ちゃんの前に置くと、何かを思い出したかのように、彼女はくすり、と微笑んだ。
「どうしたの?」
「ふふ、ごめん。ちょっと思い出し笑いしちゃった」
「?」
「…夏樹さん」
「何?」
「夏樹さんが前に話してくれた人の事を聞いても良い?」
コーヒーを見つめたままで話しかける彼女の声は穏やかで、だけど真剣味を帯びていて、そんな彼女の様子を見て私は了承した。
「良いよ」
「…その人、どんな人だったの?」
「私ね、子供の頃から家族が不仲で、ずっと独りでいたの。学校ではそれなりに友達もいたけれど、いつも寂しかった。
だけど、その人、早紀さんに出会った。早紀さんは、私の傍にいて、寄り添ってくれたの。寂しさや孤独感を分かって、励ましてくれた」
「その人と付き合っていたの?」
「…付き合ってはいなかったけど、お互いに恋愛感情はあったと思う」
「夏樹さん、今でもずっと好きなの?」
「うん」
「辛くないの?」
綾乃ちゃんの問いかけに、思わず返事に詰まる。彼女は言わなかったがきっと色々な意味を込めていた。
早紀さんがずっと目を覚まさない事、このままいなくなってしまうかもしれない事、私が待ち続ける事…
「…辛いよ」
ぽつりと漏れた言葉は、綾乃ちゃんには想定外だったのか、少し驚いた様に私を見た。
「あのね、私、今までずっと目標にしていた事があったの。それがようやく終わって、急にこれからどうすれば良いのか分からなくなった。私はこの事が終われば、あの人が目を覚ましてくれるんじゃないかって思っていた…だけど、やり遂げても早紀さんは目覚めてくれないし、何も変わらない。
私はやっぱり独りなんだなって……」
言ってしまってから、発した言葉に自分が驚く。
「ご、ごめん。こんな事話すつもりじゃなかったのに…っ!?」
無言で抱き締められ、そのまま引き寄せられた。彼女の身体の温かさと甘い匂いに包まれて、私の体温は一気に上昇する。
突然の事に声が出せない私の耳元で綾乃ちゃんは囁いた。
「…私が夏樹さんの傍にいるよ」
「!?」
身体を離そうにもぎゅっと抱き締められていて、離してくれない。そんな私にまるで言い聞かせるかのように、私の返事を待つことなく彼女は言葉を続ける。
「落ち込んでいる時、辛い時、いつも貴女は私に寄り添ってくれた。私の心の痛みを貴女は癒してくれた。
だから今度は、私が貴女を守るから。貴女は一人じゃない、私がいるよ。私が貴女の全てを受け止めるから。
好きな人を想う辛さも、独りの寂しさも、悲しい気持ちも、私が受け止める。
…だから、夏樹さん、私と一緒にいよう?」
綾乃ちゃんは少し身体を離すと、未だ混乱している私を見つめる。少し顔を近付ければ、触れあってしまうほど近い彼女との距離に、呼吸をする事さえ怖い。
「ねえ、夏樹さん。初めて会ったとき、私が貴女にどうして声をかけたと思う?」
「…」
「あの時貴女は酷く寂しそうに見えた。思わず声をかけてしまうくらい寂しそうに見えて、放っておけなかった。
…少しずつ夏樹さんの事を知るようになって、傍で見ていていつの間にか貴女の傍にいたいと思うようになった。
誰も傍にいてくれないなら、今だけでも私がいる。
頼りないかもしれないけど、私と一緒にいようよ」
「綾乃ちゃん…」
返事を躊躇う私に、優しい眼差しで問う彼女に軽い罪悪感を覚えてしまい、俯きがちに視線を落とす。
「もし…夏樹さんは早紀さんが元気だったら、どんな風に過ごしたかったの?」
「…私は、早紀さんと二人で色々な事をして過ごしたかった。楽しい事は笑い合って、辛い事は励まし合って、悲しい事は慰め合って、そんな同じ時間を過ごしたかった。
きっと傍にいてくれればそれで良かったと思う」
「私じゃ早紀さんの代わりになれない?」
「…私は、早紀さんがいるんだよ」
「知ってるよ。
夏樹さんは早紀さんを想い続けて良いから、私が貴女を守らせてくれれば良いの」
表情を変えることなく彼女は答える。私の為に傍にいてくれる事が嬉しくて、だけど、どれ程残酷であるか分かっていながら、拒絶出来ないでいる自分が悔しくて、涙がこぼれた。
抱き締められている綾乃ちゃんの腕を掴み、身体を離す。
「本気で言っているの!?私、貴女と知り合えて、仲良くなって本当に嬉しかったの。貴女の事を大切に想ってる。
…それなのに、貴女を傷付ける様な事出来る訳ないじゃない!」
全力で拒否した筈なのに、泣いてしまいそうで弱々しい口調になってしまった。自分で離れた温もりを、寂しいと自覚してしまう。
「大丈夫だよ、夏樹さん」
「私はそんな貴女を好きになったんだから、夏樹さんが気にする必要なんてないの。何も考えないで、独りで傷付かないで良いから…
彼女の目が覚めるまで私を代わりにすれば良いよ。
貴女の望む事を、私が叶えてあげる。
貴女が私を必要としてくれる限り、私は絶対に貴女の傍を離れない、約束する。
だから、夏樹さん、私、貴女の傍にいて良いかな?」
彼女の言葉の一つ一つが、私の心を揺さぶる。ひたむきで真っ直ぐな瞳が私を優しく見つめて、触れ合っている身体が彼女の想いを私に伝えてくる。
綾乃ちゃんは、にこりと笑って私の頬にゆっくり手を伸ばした。強ばる私に構うことなく、優しく私の頬の涙を拭ってくれる。
「…私、貴女に、甘えて良いの?」
「うん、沢山甘えて、傷付けて良いよ。私がそれを望んでいるから」
彼女の言葉が、眼差しが、私の中に媚薬の様に、じわじわと染み込んでいく。思考が追いつかず、抵抗出来ない甘い誘惑が私の心を支配していく―
微笑む綾乃ちゃんに引寄せられる様に、私は綾乃ちゃんの手にそっと触れた。彼女の瞳が弧を描くように細められる。
「夏樹さん、大好きだよ」
綾乃ちゃんは、私をゆっくり抱き締めた。頬に彼女のさらさらの髪の毛が触れ、優しい香りに包まれる。おずおずと手を彼女の背中に回すと、温かくて柔らかな身体に触れる。
思わず吐息が漏れると「くすぐったい…」と笑われた。
「綾乃ちゃん…」
「ん?」
「ごめんね」
「ううん」
くすくす笑いながら答える綾乃ちゃんの優しさに甘えて、私は身体を預けた。
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