第12話 十日夜の月

クリスマスの次の日に、綾乃ちゃんに電話をかけ、お詫びとお礼を伝えた。綾乃ちゃんは、やはり心配してくれていた。それ以降彼女は、冬休みに入り時間があるから、という理由から私にちょくちょく体調や仕事を気遣う内容のメッセージを送ってくるようになった。


世間は年末に向けて慌ただしさを増すのに、私には帰る実家も迎えてくれる家族もいなくて、ひたすら仕事に追われて過ごす。年末年始は会社も連休になる為、私は久しぶりの休みを得ることが出来た。休みになったら早紀さんの元へ行こう、そう心に決めて毎日を過ごした。


明日で今年の仕事も終わりという頃になって、棚卸しのミスが見つかり、やり直しをしなければならなくなった。私の担当ではなかったのだが、案の定、私にやり直しが言い渡される。棚卸しは一日では終わらない為、必然的に明日からも出社しなくてはならない。不満が口に出そうになるのをぐっとこらえ、了承した。


全てのチェックが終わったのは新年を迎えて暫く経ってからの事だった。少しでも早く終わらせるために、食事も休憩も殆ど取らずの作業で、身体はくたくたで、頭も痛い。リストを作りパソコンと紙面に写して保存する。ホチキスで止めた後、一番奥の社長室のデスクに置いておく。社長はパソコンは使えるものの、昔の人間らしく紙の資料を好んで扱う。トップ自体がそんな状況なのでセキュリティも甘く、過去の資料を探すのも比較的簡単だった。


突然思考がフリーズする。どくんと鼓動が跳ね、自分が絶好の機会に恵まれた位置にいることに気がついた。日頃、社長室に入る機会は殆どない私が、今ここに一人でいる。どくんどくんと高鳴る鼓動がうるさい。

深呼吸をして落ち着かせると、私は一度自分のデスクに戻り、片付けを済ませて戸締まりをした。そして社長室に入ると、棚の端から少しずつ書類の束を取り出し、一つ一つ目を通していく。慎重に、丁寧に、目を通した書類を棚に戻して次を取る。棚が終わると机の引き出し、パソコンをチェックした。電源を入れるとパスワード入力画面が出てがっかりしたが、引き出しの中の付箋紙にそれらしき番号が書いてあったので、ダメ元で入力すると画面が開いた。夢中で片っ端からスティックメモリーにコピーして、パソコンを閉じる。その間、私の心臓はずっとどきどき鳴りっぱなしだった。部屋を見回し、不手際が無いことを確認すると、急いで会社を抜け出した。


外はぼんやり明るく、夜明けは直ぐだった。自宅に戻り、玄関の鍵を閉めた途端、身体の力が抜けて、そのまま座り込んでしまった。呆気ないくらいに必要な物は全て揃った。

私は漸く、真っ暗な長いトンネルの先に光を見つけた気がしていた。


アラームの音が耳に入り、意識がぼんやりと戻る。目覚ましを止めてのろのろと起き上がると、酷く頭が痛む。体温計で熱を測ると微熱があった。他に症状はないものの、昨日からの頭痛はどうやら仕事のせいばかりではなかったようだ。今日はこれから早紀さんの病院に行くつもりだったのだが、病院へ病気を持ち込む訳には行かない。あらかじめ私が早紀さんの付き添いに行く事を伝えていたので、今日は晴次さんも一緒に病院で過ごすと約束していた。時計を見て晴次さんも起きているであろう時間を確認するとメッセージを送る。きっと電話が掛かってくるだろうな…と思っていると、直ぐに着信が鳴った。


「もしもし、明けましておめでとうございます」

「…おめでとうございます。夏樹、具合が悪いのか?」


私の名を呼ぶその声だけで、彼がどれだけ心配しているのが分かる。また心配させてしまった申し訳なさで胸が一杯になる。


「ごめんね、メッセージ見たんでしょう。折角予定を合わせてくれていたのに、本当にごめん」

「俺は暫く休みで大丈夫だから気にするな。それより、身体は大丈夫か?」

「うん、微熱だけだから。酷くなったら後で休日当番の病院に行くつもり」


「俺が連れていこうか?」

「良いよ。晴次さん実家にいるんでしょう?折角のお正月をゆっくり過ごしておいでよ。気持ちだけ貰っておく」

「もし具合が悪くなったら直ぐ電話しろよ。

夏樹は明日まで休みがあるんだろう?」

「うん、大人しく寝ておくから大丈夫だよ。ありがとう」

「それなら良いが…」

「本当に何かあったら電話するから、ごめんなさい。またね」


押しきる様に電話を切り、スマホを置くとそのままテーブルに突っ伏した。晴次さんの優しさが心に染みて、思わず傍にいて欲しいと口に出しそうになる。いつまでも甘えるわけにはいかない。

考え込む事を避けるようにパソコンにスティックメモリーを差し込み、データに目を通す。この貴重な休みの間に一刻も早く証拠を揃えて、しかるべき場所に提出しよう。お湯を沸かしてコーヒーを淹れると、私は作業に取りかかった。


書類を仕上げて窓の外を見ると、すっかり暗くなっていた。封筒に以前から相談していた弁護士事務所の宛名を書き、書類を入れて封をすると、忘れていた頭痛がぶり返す。集めた証拠は、間違いなく会社に大打撃を与えるはすだ。後はこれを投函すれば良い。とりあえず、少しでも身体を休めておこうと思い、頭痛薬を飲んでベッドにもぐり込んだ。


朝起きて熱を測ると平熱とまではいかないものの、下がっていた。頭痛はとりあえず治まっていたので、一安心して起き上がる。早紀さんの病院に行きたいのはやまやまだったが、何となく身体がまだ重い。風邪やインフルではないと思うのだが、足を運ぶにはいまいち難しそうだった。

テーブルに置いたままの封筒に目をやり、投函する事にしてベッドから抜け出す。このところ食事もろくに取っておらず、冷蔵庫は空っぽだったので、買い出しも兼ねて支度を整えると、ドアを開けた。


近くのコンビニで切手を買って投函すると、私の復讐は呆気なく終わってしまった。心の中に残ったのは達成感ではなく、大きな虚無感だった。

私はこれからどうすれば良いんだろう…何だか今までの苦労が現実ではない気がしてそのままコンビニを出ると、ふらふらとあてもなく歩き出す。


正月で街は活気に溢れていた。目的もなく歩いていたつもりだったが、いつの間にか書店の前に来ていた。入り口から中を覗くと、人混みで埋め尽くされている。人混みが苦手ではなかったが、今はあの中に入りたくなかった。軽く買い物をして家に戻ろうと書店を引き返すと、後ろから声がかかった。


「夏樹さん!」


振り向くと、綾乃ちゃんが書店の入り口から駆けてきた。きらきらした笑顔に私も思わず笑顔になる。お互い新年の挨拶をすると、出入りする人の邪魔にならないようにそのまま二人で脇に移動する。綾乃ちゃんと会うのは随分久しぶりだった。


「久しぶりだね、綾乃ちゃん。元気にしていた?」

「元気ですよ。そう言う夏樹さんは大丈夫?

何だか顔色が良くないみたいだし…少し痩せた?」

「あ…うん。昨日少し熱があったからかな。もう大丈夫なんだけど」


「本当に大丈夫なの?」


心配そうに覗き込む綾乃ちゃんとの距離がぐっと縮まって、彼女のいつもの甘い香りが鼻に届く。思わず曖昧に笑って「大丈夫」と誤魔化したが心臓はどきどきしていた。どうして私は彼女の傍にいると落ち着かなくなるのだろう。


「綾乃ちゃんは一人で来たの?」

「あっ!」


私の質問に綾乃ちゃんは慌てて店の方を振り向くと、少し離れた場所で私達を見ている女の子と目があった。私達が見ている事に気が付いたのか、ぺこりと頭を下げる女の子に、私も会釈する。


「友達と来ていたんです。二人で夕方まで映画でも観ようと思って借りに来たら、夏樹さんを見つけてつい飛び出しちゃった」

「そうだったの。それじゃお邪魔しちゃったわね。わざわざありがとう。嬉しかったわ」


友達を待たせるわけにはいかないだろうと、離れようとすると服の袖を掴まれた。


「あの、夏樹さん。今日時間がある?」

「えっ、うん。特に予定はないよ。どうかした?」

「後でゆっくり話したい…って思ったんだけど、駄目かな?」


少し躊躇いがちに尋ねる綾乃ちゃんが可愛くて、私は笑いかける。


「ううん、私も貴女と会いたかったから、構わないよ。私は遅くなっても良いから。友達とゆっくり遊んでおいでよ。

待たせちゃ申し訳ないよ」

「ありがとう。後で連絡するね」


手を振り別れると、綾乃ちゃんは友達の元に急いで戻っていった。二人できゃあきゃあと話しているが、私の方には何を話しているのか聞こえなかった。もう一度手を振り、反対方向に歩き出す。

不意打ちの嬉しい出会いで、いつの間にか私の心はほっこりとあたたかくなった。

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