第11話 弓張り月(4)
クリスマスの翌日、あれだけにぎやかだった通りは一気に閑散とし、代わりに年末に向けて慌ただしさが少しずつ押し寄せてくる。ファミレスのボックス席に座って窓の外の景色を見ながらぼーとしていると、ドアが開く音が鳴り、そちらに視線を移した。"待ち合わせの時間に少し遅れる"とメッセージが入ったのは、約束の時間の一時間前だった。"仕事が立て込む年末に無理矢理スケジュールを合わせてくれたのは、そちらだったので急ぎませんよ"と伝えたのだが、彼は"頼みたい事があるから"と引かなかった。
待ち合わせの時間は八時。今は八時五分だ。あれから連絡がないところをみれば、もう少ししたら来るのだろうか?
少し乱暴にドアが開き、男性が駆け込むように入ってきた。少し前に知り合った彼は店内を見回した後、案内を断り私を見つけるとこちらに歩いてきた。入り口近くの若い女性客がチラ見しているのを見て、納得してしまうくらいイケメンの男性が私の前に座る。
「遅くなってごめん」
「いえ、大して待っていませんから…」
恋人の様なやり取りをする自分達が他人にどう見られているのか考えて、おかしくなった。私達はまだお互いを殆ど知らないというのに…。
そんな事を考えていたのが顔に出ていたのか、長谷さんが不思議そうな表情をする。どんな顔をしても、イケメンは崩れないんだなあと頭の片隅で感心しつつ話しかける。
「今のやり取りが恋人同士みたいで、つい笑ってしまったんです」
私の言いたかった事に気がついたらしく、長谷さんも苦笑した。
「本当だな。とりあえず何か食べないか?香田さんも夕食はまだだろう、俺がおごるから。
仕事尽くしで昼食をとる暇がなくて空腹で倒れそうだ」
彼はメニューを私に渡し、自分の分も取った。お言葉に甘えてセットメニューを頼むと、彼は定食を頼んだ。洋食派かと思いきや和食派とは何だか意外だ。
食事を取りながらお互いの事を聞き合う。夏樹さんという共通の友人がいなければ、きっと知り合う事もなかったのだろうと思うくらい、長谷さんは何もかも別世界の人だった。だけど、彼女の友人という事を差し引いても、話しやすく、信頼出来る人だというのは分かる。夏樹さんは物静かだが、長谷さんは真逆の印象を受ける人だった。だから二人は合うのだろうとぼんやり考える。
食後のコーヒーを飲む頃には、随分打ち解けて話が出来るようになった。実は、彼は砂糖とミルクがないとコーヒーが飲めないらしい。夏樹さんはブラック派なので、彼女の前だけでは無理してブラックコーヒーを飲んでいると聞いて、ついに笑ってしまった。夏樹さんの事を話す長谷さんは楽しそうで、私は彼が友情以上の感情を夏樹さんに抱いている事を確信した。
「長谷さん、恋人はいないんですか?」
「いないな。香田さんは彼氏はいないのかい?」
「私もいないですね。最近失恋したんで…」
「それはごめん、悪い事聞いた」
「気にしないで下さい。そこは笑って流すところですよ」
笑い返すと、何となく沈黙がおりた。私をどのくらい信用して良いのか図りかねている長谷さんは、何か話あぐねている様な気がする。私は思いきって核心に触れることにした。
「長谷さん」
「ん?」
「早紀さんって誰ですか?」
「…」
ぴりっとした空気が張りつめる。雰囲気ががらりと変わり、長谷さんは無言でいた。
先日の公園でのあの時、夏樹さんの姿があまりにも衝撃的で、私は駆け寄れなかった。あの時の夏樹さんの様子は、絶望という言葉が相応しかっただろう。彼女は、どうしようもない感情を長谷さんにぶつけていた。どうして夏樹さんがあれ程苦しんでいるのか理由は分からない。だけど、私はあの人に笑っていて欲しいのだ。その為には、夏樹さんが苦しんでいる理由を知りたいし、長谷さんに信用してもらわなければならない。
そして、彼女の力になりたいという私の気持ちを知ってもらわなければならない。
「私が一度体調を崩した時、夏樹さんは凄く心配してくれたんです。理由を聞いたら、体調を崩して病院に行くつもりだった人が意識を無くしたまま発見されて、今もずっと眠ったままだって話してくれました。
私、その人は友人ですかって聞いたら、一番大切な人だ、って答えてくれたんです」
「…」
「その人が、早紀さん、ですか?」
「…ああ」
「夏樹さんと早紀さんは恋人だったんですか?」
「そんな事を知ってどうするんだ?」
「私は、夏樹さんに幸せになって欲しいんです」
凍りついた雰囲気の中で周りの喧騒だけが耳に入る。僅かに悲しそうな顔を見せた長谷さんは、大きく息を吐くと、覚悟を決めたように私を見た。
「夏樹は香田さんの事を余程信頼していたんだな」
「えっ?」
「あいつとは三年くらいの付き合いだけど、今まで誰にもその事を話した事はなかったと思う」
「…」
「ただ、さっきの質問の答えは分からない。俺も二人の事は、結局良く知らないんだ」
「どうしてですか?」
「俺が、夏樹と初めて会ったのは、早紀が倒れてからだ。それまで、俺は早紀から相談として、夏樹の事を聞いていたんだ」
「早紀さんから相談されていたって…?」
「ああ。早紀は俺の姉だ」
それから長谷さんは早紀さんの事、夏樹さんの事を話してくれた。今までの事、これからの事…話を聞くうちに夏樹さんの想いが痛いくらい伝わってきて、どうしようもない。茨の道を歩き続ける夏樹さんはあまりにも孤独で、悲しかった。
「それで、香田さんに頼みたいのは、夏樹の事だ。夏樹には何かあったら必ず連絡する様に伝えてある。だけど、君も夏樹に内緒で、あいつを気にかけて欲しいんだ。夏樹に何かあったらと思うと、怖いんだ。頼む」
長谷さんは私に頭を下げてお願いした。夏樹さんが早紀さんの為に何もかも捧げた様に、長谷さんもまた夏樹さんの為ならプライドも外聞も簡単に捨てる事が出来るのだろう。この二人は本当に良く似ている、と思いながら私は自問する。私はこんなにひたむきで、報われないのに真っ直ぐな恋をする事があるのだろうか?
「分かりました。私も夏樹さんの様子を見ておきます」
「本当か?ありがとう」
ほっとした様子の長谷さんに、つい疑問をぶつける。
「どうして夏樹さんに気持ちを伝えないんですか、好きなんでしょう?夏樹さんの事が」
「…」
「すいません…本当は言わないつもりだったんです。だけど、そんな事見なくても分かります。長谷さん自分じゃ気がついていないと思うけど、夏樹さんの話をすると雰囲気が変わるんです。
楽しそうに嬉しそうに…愛しそうに」
遠い何かを見るように、ふっと長谷さんは微笑んだ。
「そうか…バレてるか」
「すいません…」
「良いんだ。俺も誰かに聞いて欲しかったから。
夏樹の事を初めて早紀から聞いたとき、正直戸惑ったよ。だから何度か聞いたんだ。その感情は友情の間違いじゃないかってね。
だけど、夏樹に会って少しずつお互い知り合って、何となく分かったんだ。口下手だけどどんなに辛くても挫けない強さを持って、眩しいくらい真っ直ぐで、人の痛みに誰よりも敏感で、優しく寄り添ってくれて…早紀が惹かれても仕方がないって。気づいた時にはもう好きだったよ。
だけど、君が言った通り、俺も夏樹には幸せになって欲しいんだ。夏樹が望むのはいつも早紀で、俺じゃない」
「…」
「あいつが望むなら喜んでその手を取るさ。だけど俺の一言で、夏樹がこれ以上苦しむなら言わない方が良い。夏樹はずっと早紀以外で支えてくれる人がいなかったんだ。だからどんな形であれ、傍にいてくれる人が必要だ。
俺と気まずくなれば夏樹はまた周りの人間を失う事になる、自分は一人じゃないって思っていて欲しいんだ。だから俺は今のままで良いと思っている」
「長谷さん…」
「まあ、この間は俺が我慢出来ずに、つい口が滑ったのが原因だったんだけどさ。…結局俺は中途半端なんだよ」
「そんな事ない!」
自嘲気味に笑う長谷さんに、思わず感情のままに反論する。
「長谷さんは夏樹さんを誰よりも大切に思っている。自分の気持ちを押し殺してまで夏樹さんに寄り添っているんでしょう?そんなに一途で、大切にしている恋を自分で否定しないで。
あなたが不安なら私が何度でも伝えるから。あなたは頑張っている。夏樹さんに想いは届かなくてもきっと誰かがいつか必ず見つけてくれるから。
だからあなたは自分に自信を持って」
驚いた表情の彼は固まっていた。言ってしまってから、年上の人に説教じみた事を話してしまったのに気付き、さっと血の気が引いた。またしでかしてしまったと後悔する。
「夏樹の言った通りだな…」
ぽつりと呟いた言葉に意識が戻り、思わず尋ねた。
「…夏樹さんが、何て?」
「香田さんは、早紀に似ているって」
「私が、ですか?」
「雰囲気が似ているんだと。最初君に会ったときにはそんな事思わなかったけど、夏樹の言った意味が、今なら分かる。
夏樹が話してくれたんだけど、昔似たような事を早紀に言われたらしい。まさか俺が香田さんに同じ事を言われるとは思わなかったな」
「そうなんですか…」
早紀さんと似ているから、夏樹さんは私を早紀さんに重ねてしまったのだろうか、友人になってくれたんだろうか。軽く落ち込みそうで、心がちくちくして痛い。
「そんな顔するなよ」
髪をくしゃっとされて、俯いた頭を上げると、長谷さんは笑っていた。
「俺は嬉しかったよ。早紀にも夏樹にも話せないし、誰も気づかなかったから、君だけでも自分を分かってくれる人がいた事が、凄く嬉しかった。
心配しなくても、夏樹は香田さんを早紀の代わりになんかしていないよ。君が君らしいから夏樹は惹かれたんだ。だから落ち込む必要なんてない」
「長谷さん…」
不器用に真っ直ぐに励ましてくれる姿を、いけない事とは分かりつつ、私もあの人と重ねてしまった。
(あなたも似ていますよ…夏樹さんと)
優しくて、頼りがいがあって私が傷ついていたらさりげなく慰めてくれる。私達は同じ人を好きになって、諦めきれず、どんな形であれ離れることができない似た者同士だ。
そう思うと、私は伝えるつもりのなかった事を、思わず口にしていた。
「私さっき失恋したって言いましたけど、長谷さんの話を聞いて考え直しました」
「?」
「自分の気持ちを伝える前に、相手に好きな人がいるって知って諦めていたんです。だけど長谷さんを見ていたら、どんな形であれ離れたくないし、あの人の傍にいたいって気づいたんです。
だから私ももう少し頑張ってみようかな。それに、素敵な恋敵もいるって分かったし」
「そうか…」
言葉少なめながらも、微笑んで見守るような彼に、笑いかける。
「だから、これから宜しくお願いしますね。長谷さん」
「は?…何を?」
「私達お互い頑張りましょう。恋敵同士として」
「…もしかして、君の好きな人って?」
「その、もしかして、です」
突然の恋敵宣言に、流石の長谷さんもしばらく絶句していたが「あいつは天然の人タラシだな」と諦めたように呟くと、にやりと少し意地悪に笑いながら、先程私がぶつけた言葉を口にして片手を出してきた。
「俺たちお互いに良い友人になれると思わないか?
俺が不安な時、君が支えてくれるんだろう?なあ、綾乃ちゃん」
「勿論ですよ。その代わり私にもお願いしますね。晴次さん」
長谷さんに私も笑いながら手を握り返す。
きっと私達は良い友人になれるという予感があった。
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