第10話 弓張り月(3)

「夏樹!!」


夏樹さんの部屋の前で、焦った様な男性の大きな声がしたかと思ったら、ドアが勢い良く開き、私の傍を夏樹さんが通り抜けた。


「夏樹さん!?」


咄嗟の事に驚き、見送ってしまったが、夏樹さんは泣いているようだった。視線を感じて振り向くと、夏樹さんの部屋の開いたドアの傍に知らない男性が立っていた。背の高いびっくりする位のイケメンな彼は、夏樹さんの出て行った方向を悔見つめていたが、私が見ている事に気付くと声をかけてきた。


「君は夏樹の知り合い?」

「はい。あの…今の、夏樹さんですよね?」

「あー、うん…」


一部始終を見られていた事で、男性は気まずそうにしていた。夏樹さんを呼び捨てにしている事から、親しい間柄だと言うのは分かるが、二人の関係性が分からなかった。

以前夏樹さんが、友人も恋人も家に上げた事はないと話していたのを思い出し、身内かもと考えついて話しかけてみた。


「あの、夏樹さんの家族の方ですか?」

「いや。…友人、かな。君は夏樹と約束していたのかい?

ごめん、呼び戻したいんだけど、あいつスマホも何も持たずに出て行ったんだ」

「あっ、いえ。約束はしていなかったんです。私、夏樹さんにいつも色々お世話になっていて、少しでもお返しがしたくてこれを持ってきただけなんです」


手に持っていた袋には、返し損ねたマフラーと包装に包まれたプレゼントが入っていた。体調が良くなってから、なかなか会いに行く勇気が持てず、クリスマスというイベントを切っ掛けに漸く決心がついたのだった。夏樹さんが不在ならポストに入れておこうと思って連絡をせずに来たのだが、修羅場の様な場面に遭遇してしまい、どう対応すれば良いのか悩んでしまう。


「そうだったのか。あの、君名前は?俺は長谷晴次」

「香田綾乃です」

「香田さん、君は夏樹の友人で良いんだよね?」

「はい」


長谷さんは迷っているようだったが、やがて私を真っ直ぐに見て口を開いた。


「後で事情を説明するけど、俺は今から夏樹を探しに行ってくる。それで行き違いにならないように、もし良ければ君が暫くここで待っていてくれないか?

あいつ、家の鍵も置きっぱなしなんだ。

俺たちの揉め事に君を巻き込んでしまうのは申し訳ないが、引き受けてもらえないだろうか?」


年下の私を対等に扱い、何より夏樹さんを本気で心配している姿に、私の長谷さんへの不信感は薄れた。


「分かりました。もし先に夏樹さんが帰ってきたら、長谷さんに連絡するので番号を教えて貰って良いですか?」

「分かった。俺も夏樹を見つけたら君に電話するから。

それと、あいつが行きそうな場所に心当たりはないかな?」


長谷さんは夏樹さんのスマホとコートを持って、靴を履いた。夏樹さんを思い浮かべると、何となく賑やかな場所ではないような気がした。彼女が好きそうな場所…


「…公園、とかかな?」


待ち合わせで、良く空を見上げている夏樹さんを思い出し、思わず呟くと、長谷さんはスマホで検索して場所を確認した。


「ありがとう。それじゃあ、ここを頼む。何かあったら電話してくれ」


あっという間に出て行った長谷さんを見送り、夏樹さんの部屋に入る。いつもより多い数の食器、隣通しで置かれた二つのコーヒーカップ…夏樹さんと長谷さんの親しさを表している様で、心の痛みがぶり返すみたいだ。

カップをシンクに持っていき、洗いながら考える。二人はどうして言い合ったのだろう?長谷さんは彼氏ではなく友人と言っていた。いつも穏やかな夏樹さんが、あれ程取り乱すくらい言い合いをするとはとても思えなかった。

一人で考え始めると色々不安が大きくなる。スマホをテーブルに置いてベッド脇のクッションを抱き抱えると、ほんのり夏樹さんの匂いがした。懐かしさに思わず跳ねる鼓動を感じながら、不安がこれ以上大きくならない様に意識を逸らすため、とりあえず手近にあった本を開いてみた。


【改ページ】

あてもなく部屋を飛び出し、どう走ったのか分からないまま気がつくと、綾乃ちゃんとお弁当を食べた公園に来ていた。涙は収まり、身体が冷えた事で頭も少し落ち着いた気がする。ベンチに座り、あまりの寒さに両腕を擦ると、吐く息は白い。

今更ながら何もかも部屋に置いてきてしまった事に気がついた。飛び出した私を心配して、晴次さんはきっと困っているだろう。だけど、もう頭の中はぐちゃぐちゃで何も考えたくない。誰かに助けて欲しかった。


いつ目を覚ますかも分からない早紀さんを信じ続ける事は想像以上に大変で、私はずっと不安だった。私達の関係は家族でも恋人でもない、だけど友人というには近すぎる関係に名前をつけるには難しく、私が信じなければ、全て消えてしまいそうな気がした。彼女と自分の存在意義すら失ってしまいそうで怖いのだ。


「夏樹…」


どのくらいそうしていただろう。顔を上げると、少し離れた所に晴次さんがいた。きっとずっと走って探してくれたのだろう。晴次さんはゆっくり近付くと私の前で立ち止まった。荒い息遣いが彼の必死さを感じてしまう。


「ごめん」


たった一言の謝罪が、私を包み込んでくれる。私の大切な人と良く似た眼差しが、私の心の中の早紀さんへの想いを一気に溢れさせた。


「…いつになったら…早紀さんは…目を覚ましてくれるの…」


一度口にするともう止められなかった。ふらふらと立ち上がり、目の前の彼の胸を掴んで問いただす。八つ当たりでしかないのに、悲しそうな顔の晴次さんは何も言わない。私は答えを言って欲しくて、彼の胸を叩いて揺さぶる。


「早紀さんに会いたい………お願い…あの人を…助けて…!」


何度も何度も泣きながら叫ぶ願いは、誰にも聞いて貰えなかった。



気がつくと、晴次さんにもたれ掛かっていた。身体には私のコートと晴次さんのコートが掛けられ、ずり落ちないように晴次さんが押さえてくれていた。


「落ち着いたか?」


「…ごめん。…痛かったでしょう?」

「ああ、痛かった」

「ふふ」


本音を言われて思わず笑ってしまった。晴次さんなりの気遣いに感謝して身体を起こす。


「私どのくらい眠っていた?」

「二、三分くらい。少しうとうとしていただけだ」

「心配かけてごめんね」

「気にするな」


立ち上がり、コートに腕を通す。寒さが身体に染み込むみたいだ。


「夏樹」

「ん?」

「…早紀の代わりに、俺じゃ駄目か?」

「えっ!?」


晴次さんの表情は真剣で私は言葉に詰まる。いつも傍にいて気兼ねなく相談出来る晴次さんを、私は今までそんな風に認識したことはなかった。何と答えれば良いか悩んでいると、晴次さんは、まるでこの雰囲気を壊すように、ふっと笑った。


「冗談だ。帰るぞ」

「あ、うん…」


そのまま結局何も話さずに、私達は帰宅した。

部屋に戻ると、テーブルに紙袋が置いてある。私の視線に気がついたのか、晴次さんが説明してくれた。


「香田さんからのクリスマスプレゼントらしいぞ」

「えっ、いつ来たの!?」

「夏樹が飛び出した時に、ドアの直ぐ近くで立っていた。気付かなかったろう?今日はそれを渡しに来ただけだったらしいけど、後でお礼を言っておけよ。

俺が探している間、ここで留守番してくれたんだからな」

「それで、綾乃ちゃんは?」

「お前が見つかった、って電話をしたら、今日はとりあえず帰るからって言っていた」

「そう…」


紙袋には綾乃ちゃんに貸したマフラーと、可愛い包装紙に包まれた物が入っていた。包装紙を丁寧に開けてみると、羽の形をした栞が入っていた。


「わぁ」


嬉しくて、思わず声が出た。晴次さんが私を見ながら「夏樹を良く分かっているじゃないか」と笑う。思いがけないクリスマスプレゼントが疲れきった心をじんわり温めてくれた。


「後でお礼言っておくから」

「良かったな」

「うん。晴次さん、綾乃ちゃんと話したの?」

「少しだけど。良い子だな」


「あのね、彼女何となく早紀さんに雰囲気が似てるんだ」

「…そうか?」

「顔とか声じゃないよ。何て言うのかな、ふとした雰囲気がそっくりで、どきっとした事が何度もあるの。晴次さんもじっくり話したら同じ事を思うかも」

「そんな機会があればだけどな。あの子年下だろう?」

「大学生だって」

「無理だな」

「そんな事ないよ」

「幾つ離れていると思っているんだ。勘弁してくれ」

「それを言ったら、私と綾乃ちゃんも同じでしょう?私と晴次さん一つしか違わないのに」

「男と女じゃ違うんだよ。それより、俺は帰るからもう休め。せっかくの休みだったのに悪かったな」

「私、晴次さんが一緒にいてくれて良かった。

晴次さんからも素敵なクリスマスプレゼント貰ったよ。今日誘ってくれてありがとう」

「…どういたしまして」


彼に微笑みかけると、晴次さんは私の頭に手をやり、くしゃっとしてから出て行った。


誰もいない部屋に一人で座る。綾乃ちゃんに晴次さん…私には見守ってくれる人がいた。孤独の代わりに安心感が私を包み、少しだけ安心する。これからの未来が何だか少しずつ良くなっていく予感がした。

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