第9話 弓張り月(2)
綾乃ちゃんから朝一番に「おかげさまですっかり回復しました。もう心配要りません(笑)」と、メッセージを受けてほっとした。早紀さんの一件は私のトラウマになっていた様で、綾乃ちゃんから連絡を受けて、思わず早紀さんと重ねてしまい、自分でも言動を取り乱した自覚はある。綾乃ちゃんにその事を指摘され、私は初めて早紀さんの事を綾乃ちゃんに話した。今まで誰にも打ち明けることはなかった話を彼女になら話しても大丈夫という信頼感があった。
デスクに向かうといつも通りおびただしい量の仕事が待っていた。暫く前から経理関係も請け負うようになり、私はあれこれ理由をつけて仕事の合間に資料庫やパソコンのファイルの様々な資料に目を通していた。
ある時、偶々数値のおかしいデータを見つけ、少しずつ慎重に調べていくと、会社で脱税を行っている思いがけない証拠の発見に息を呑んだ。過度の残業や、パワハラなどの事案を中心に内部告発をしようと思っていたが、他にも色々証拠があれば心強い、とこれらを見つからないように徹底的に調べる事を決意した。
年の瀬が近付く十二月に入ると、家に帰るのも億劫になる程、仕事に忙殺された。早紀さんが酷くやつれていたのもこの頃だったと納得する位の毎日を過ごす。綾乃ちゃんはあれ以来会ってはいなかったが、もし今会えば確実に心配されるだろうと思える状態で、早紀さんを心配した自分が同じ目にあっているのは皮肉でしかなかった。脱税の証拠を見つけて以来、私は少しずつ告発に向けて準備を進めていて、深夜まで会社に残ろうとも気にならなかった。
いつもの様に残業をしていると、スマホが着信を告げた。相手は滅多に電話をかけてこない晴次さんで、思い当たる用件もなかった。早紀さんの事で何かあったのかと心配になりながら電話に出ると、久しぶりの晴次さんの声が耳に届いた。
「もしもし、夏樹か?」
「晴次さん、どうしたの?早紀さんに何かあったの?」
「お前が、最近連絡しても返信がないから、心配していたんだ。早紀は相変わらずだ。今家か?」
「ううん、会社にいる。…ごめん、仕事に追われてて返信するの忘れてた」
「こんな時間まで残っているのか!?もうとっくに夜中だぞ」
「あー、うん。もう少しで帰るから」
時計を見ると、いつの間にか深夜を指していて心の中で驚く。時間を忘れて没頭していたのを見透かされるように、晴次さんの口調に少し刺が混じる。
「お前…明日は日曜日だけど、勿論休みだろう?」
「…ううん、仕事」
「休めないのか?」
「…無理そうです」
「夏樹」
「はい」
私の今の状況を推測したかのように、一段低い声で晴次さんが呼ぶ。長年のやり取りでこの後怒られる場合が多い事を、直感的に理解して、電話口で思わず身構えた。
「正直に言え。最近休んだのはいつだ?」
「えっと…」
「お前の会社がブラック企業なのは分かっている。だけどこんな時間まで仕事にのめり込むなんて事は、今までなかった。お前何か企んでいるだろう、何かやっているんじゃないか?」
「…」
冷や汗が出そうな無言の時間が流れる。最近は仕事もだけど、証拠集めの為に時間を費やしていたので、誰もいなくなるまで会社に残る必要があった。その為必要以上の仕事をこなしていて、休んだ記憶はなかった。
「明日、最低限の仕事を終わらせるのに、どのくらいかかる?」
「…夕方くらいかな」
「終わったら直ぐ電話しろ。待ってるからな」
「はい…」
通話が切れて、思わずデスクに突っ伏せる。ヤバい、あの声は絶対何か勘づいている、と明日の事を考えただけで憂鬱になった。ため息を一つつくと、私はデスクを片付けて帰る事にした。
翌日、仕事を終わらせると、会社を出てから電話をかけた。外は茜色に染まっていて、久しぶりに見る夕方の光景が新鮮だった。ぼんやりと待ち合わせ場所で夕焼け空を眺めていると、いつの間にか晴次さんが直ぐ傍にいた。
私を見た途端案の定、眉をひそめて不機嫌な顔になった。このところの仕事尽くしな生活で、ろくろく食事も睡眠もとっていない私は、顔に疲労が浮かんでいるのだろうと自覚していただけに、叱られるのを覚悟して話しかけた。
「言いたい事は分かってるし、反省もしています。ごめんなさい。
それで今からどうするの?」
「…晩飯の予定は?」
「冷蔵庫に何もなかったから、買い出しに行かなきゃ行けない」
「どこかに食べに行くか?」
「晴次さんの料理だと嬉しいな」
「…それなら、うちに寄るか?」
「ねぇ、うちに来れば良いよ。すぐ近くだし、晴次さんも今まで来た事なかったよね?コーヒーくらいはご馳走出来るよ」
私の提案に、彼は目を白黒させるように驚く。
「どうしたの?」
「…分かった」
何か言いたそうな晴次さんと並び、スーパーに向かう。店内は物凄い混みようで、入るのを躊躇う程だった。この時間は大体買い物客が多いが、ここまで普段は混雑しない。うんざりしていると、晴次さんが買い物かごを私から取り上げた。
「夏樹は疲れているんだろう?お前本当に酷い顔色だぞ。あそこのベンチに座っとけ。何か食べたい物があるか?」
「お任せでお願いします」
「了解。大人しく座っておけよ」
子供に言い聞かせるようにして、晴次さんは中に入っていった。背の高い晴次さんは人混みの中でも目立つ。買い物かごを片手に悩む様子もなく次々と品物を入れる姿をぼんやり見ていると、サンタ帽子の店員があちこちにいるのに気がついた。漸く今日がクリスマスだという事を思い出し、道理で人が多いはずだと納得した。
晴次さんの電話も、クリスマスなのに仕事に追われる私を見かねての事だったのだろう。せっかくのクリスマスなのに私の心配ばかりで申し訳ない、と気落ちしていると晴次さんが買い物袋を両手に抱えてやってきた。慌てて片方の袋に手を伸ばすが、避けられてしまう。
「重くないから大丈夫だ。行くぞ。一人で歩けるか?」
「うん、大丈夫。色々ごめんね」
二人で歩きながら、ぽつりぽつりと近況を話す。怒ると怖くて、普段はぶっきらぼうな口調の晴次さんは、本当は面倒見が良く、何かと支えてくれていて、私が素直に甘え信頼する事が出来る相手だった。
部屋に入ると、晴次さんは冷蔵庫に食材を入れていき、「キッチン借りるぞ」と断ってから、料理を作り出した。引っ越す前から手料理を作って貰った事が何度もあるので、そのままお任せして、お湯を沸かし二人分のコーヒーを入れるとテーブルの前に座って、晴次さんが料理をするのを眺めていた。
「本好きな夏樹らしい部屋だな。本以外にも何か置けば良いのに」
「全然。私は気に入っているよ。それより、晴次さんはクリスマスなのに、自分の予定はなかったの?」
「ああ、特になかったから構わない」
「晴次さんイケメンだし、面倒見良いし、料理得意だしモテないはずがないでしょう?気になる人もいないの?」
「…」
「いるなら、誘えば良いのに。せっかくのクリスマスなんだから」
「…うるさい。もう誘ってる」
「えっ、どうだったの?…って、あ、ごめん。もしかして断られた?」
「…」
調理の手を休めないまま晴次さんに睨み付けられたが、本気で怒っている顔ではないのが分かったので全然怖くない。無言の返事から、相手に断られたのか…と思いながらそれ以上尋ねず、フライパンからの美味しそうな匂いに、思わずお腹が鳴りそうになった。
「晴次さんのご飯久しぶり…お腹空いた」
「毎日殆ど食事もとれてなかったんだろう?あれ程無理するなって約束したのに、人の忠告を聞かないんだから…
もう少しで出来るからテーブルの準備しておいてくれ」
「うん」
海老のクリーム煮、ビーンズサラダ、照り焼きチキン等々次々に並べられ相変わらずの料理力の高さに、感服する。アルコールが苦手な私に付き合って、二人ジュースで乾杯すると、早速箸をつける。
「美味しい!」
私の感想に少し嬉しそうに笑うと、晴次さんも食べ始めた。私も料理は結構するが和食が中心で、洋食は晴次さんに全然敵わない。あれこれ食べ進めるとじんわり身体が温かくなった。もし晴次さんが電話してくれなかったら、クリスマスの夜に会社で脇目も振らず資料を睨んでいたのだろうと思う。
お腹一杯食べて二人で片付けをすると、コーヒーを飲みながら最近の早紀さんの容態について話した。
「早紀さんに会いたい…」
引っ越ししてから随分会っていない早紀さんを思い出したら、ぽつりと言葉がこぼれた。
「会いに行けば良いだろう?」
「だって…ここから病院まで随分距離があるし、私、車を持っていないからそう簡単に行けないんだもの」
「仕事を辞めて、帰れば良いじゃないか。夏樹は転職しても困らない位色々資格を持っているだろう?あの会社より働きやすい企業なんて沢山ある」
「そんなの…駄目だよ」
私はどうしてもやらなくてはいけない事がある。その為にあの会社に入ったのだから。
「もう良いよ。夏樹」
「えっ?」
「お前が早紀と同じような目になって欲しくないんだよ。夏樹は頑張った。お前のその気持ちだけでもう十分だ」
「何…言っているの…?」
晴次さんは、私を見てつらそうに呟く。私は彼に否定された気がして、返した声が微かに震える。
「私、諦めていないよ。黙っているつもりだったけど、色々証拠を集めているし、あの会社の違法な取引や脱税の証拠も見つけた。もう少しで全部証拠が揃いそうなの。
晴次さん、内部告発は法律上犯罪じゃないんだよ。正々堂々とあの会社に制裁を与えれるの。それを今更止めたいなんて思わない。だから、私の事は放っておいて」
ガタン、と音がして、晴次さんが私の目の前にいた。私の両肩を掴み至近距離で見つめている。反射的に逃れようとしたが、強い力で押さえられて身動き出来ない。晴次さんは怖いくらいの表情で私を見ていた。
「そんな事を聞いたら、余計に放っておけない。夏樹、お前自分がどれだけ危険な立場にいるか分かっていないだろう?あの会社の社長は良い噂を聞かない。会社に不利な情報を公開しようとしているのが夏樹だと分かったら、どんな目に遭うか分からないんだぞ」
「…分かってる。一応今まで気づかれていないから、多分大丈夫だと思う」
晴次さんは迷う様に黙っていたが、やがてぽつりと呟いた。
「…続けるつもりなのか?」
「うん、後少しだけ」
「一つ約束しろ。お前が一人で会社にいるときは電話でも何でも良いから必ず連絡を入れろ。何かあってからじゃ遅いんだ。それと一人で深夜まで残るのはなるべく止めろ」
「…善処します」
「約束だぞ」
とりあえず、晴次さんの了承がとれたので安心すると、晴次さんは言い辛そうに言葉を続ける。
「それと…この事が終わったら、早紀の事は諦めてくれ」
「えっ?」
「会社に復讐して気が済んだなら、もう良いだろう」
「…何で?どうしてそんな事を言うの?」
「夏樹の為に言っているんだ。早紀が倒れてもう三年以上過ぎているんだ。このままずっと眠ったままかもしれないんだぞ。お前はこの先10年、20年もずっと早紀を待つのか?」
「そうだよ、当たり前じゃない!」
「いつになるか分からないような希望を持つのはいい加減にやめろ!
もっと周りを見ろよ。お前なら幾らでも他に幸せになれる方法はあるはずだろう?」
「私は早紀さんがいてくれればそれで良いの!」
「だから友人として関われば良いだろう。もう目覚める可能性の方が低いかもしれないんだ。早紀の為にお前の人生をこれ以上振り回すな。早紀の事は俺に任せろ」
今まで何度かやんわりと言われていた事をはっきりと言われて、かちんときた。いつもなら聞き流せる筈の事も今日は心に突き刺さる。今まで胸に溜まっていた不安を言葉にされて、抑えきれない感情が爆発する。
「私と早紀さんの事は、晴次さんには関係ないでしょう!」
「早紀は俺の家族だ。夏樹の方こそ関係ないじゃないか!」
「っ!!」
言い返したくても返せない。思わず言葉に詰まり、代わりに涙がこぼれた。悲しくて、悔しくて咄嗟に立ち上がると、そのまま靴を履いて玄関を飛び出す。後ろで晴次さんの焦った様な声が聞こえたが、脇目も振らず走り出して滲む景色の中に飛び込んでいった。
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