第8話 弓張り月

「うー、喉が痛い…」


朝起きると、喉が酷く痛んだ。昨夜薄着のまま、スーパーのバイトに行ったので当然だろうと反省はしている。テーブルの上に目をやると、昨日帰る間際に夏樹さんから巻いてもらったマフラーが置いてあった。

本人は自覚が無いみたいだけど、夏樹さんは同性の私が見とれるくらい綺麗な人だ。最初は冷たそうな感じを受けたけど、打ち解けると凛とした雰囲気に、穏やかな物腰、他人の心の痛みに敏感で、辛い時にさりげなく寄り添ってくれる優しい人だった。憧れと尊敬に好意も加わって、半ば無理矢理頼み込むようなかたちで友人になってもらい、私は本当に嬉しかった。


「マフラー、返さなくちゃ…」


仕事が忙しそうな夏樹さんに会えることは少なく、いつもスマホの連絡だけでしか会えなかったが、失恋の痛手で塞ぎ込んでいた私を気遣ってくれたお礼を言いたかったし、手渡しでマフラーを返したかった。

あれこれ文面を考えながらメッセージを送る。既読と返信が来るまで、色々と時間を潰しては、こまめにスマホにチェックをいれてしまう。やがて着信の画面が映り、どきどきして開くと「二日後なら都合がつく」と返事が届いた。私は直ぐに了解のスタンプを入れた。夏樹さんと会えると思えるだけで、わくわくして落ち着かない自分を自覚する。


私はもっとあの人を知りたいし、ずっと傍にいたい。隣にいるとどきどきするし、抱き着いた時の温もりや柔らかさが今でも忘れられない。


(彼女に、私は恋愛感情を抱いている)

そう自覚した時、全身の血が逆流するような感情を覚えた。

失恋したばかりの自分が、まさか同性の人にこんな気持ちを抱くなんて、と呆れてしまうが、どうしようもない。もて余す自分の気持ちを切り替えるように立ち上がると、とりあえず夏樹さんにお礼を返そうと考えることにした。


夏樹さんと会う当日の朝になって、更に体調が悪化していた。喉の痛みに加え、悪寒もするし身体がだるい。起き上がる事も辛く、とりあえず、大学の友人に連絡を入れて講義を休む連絡を入れた。それより困ったのは、今日は夏樹さんと約束の日だった事だ。

泣く泣く「体調を崩して今日は行けそうにありません。近々届けに行きます。すいません」とメッセージを入れた。


体調を崩す事も殆どなかったので、買い置きの薬もなければ、ドラッグストアに行く元気もない。ふらつく身体で漸くキッチンに行きコップの水を飲むと、少し喉の痛みが和らいだ。

ベッドに戻るとスマホが着信を告げている。時計を確認すると、まだ午前中の講義が始まる前だった。友人が心配してくれたのだろうかと画面を見ると、着信は夏樹さんからだった。会社で仕事をしている筈の時間なのに…と、思いもかけない相手に驚き、慌てて電話に出る。


「…もしもし?夏樹さん?」


酷く掠れた声が出て、慌てると今度は激しく咳き込んでしまい、スマホを落としてしまった。暫く咳込みを続けて、漸く落ち着いてからベッドに座り、再び耳にあてる。


「ごめんなさい、すいません…」

「綾乃ちゃん!大丈夫なの!?」

「一応は…あの、今日行けなくなって、すいません」

「それの事は良いの、それより病院に行ったの?」

「いえ…身体を動かすのが辛くて…今日はこのまま寝ていようかと、思ってます」


「駄目よ!」

「えっ!?」


あまりにも強い口調で叱られ、思わず身体がすくんだ。電話口の夏樹さんは怖いくらい真剣で、泣きそうな声をしていた。


「あっ、…ごめんなさい。あの、誰か一緒に病院に連れて行って貰えそうな人はいないの?」

「親は離れているし、友達は今日は一日ずっと講義が入っているんです。明日なら行けそうなんで心配しないで下さい」


夏樹さんに心配させまいと明るい調子で話していたが、頭がくらくらして、そのままベッドに倒れ込む。かなり辛い。一眠りしたら病院に行った方が良いかもしれない、と頭の片隅でぼんやり考えていると、夏樹さんの緊張した声が聞こえた。


「綾乃ちゃん、一時間待っててくれる?」


「何をですか…?」

「私が病院に付き添うから。一時間だけ待っていてくれる?」

「えっ?夏樹さん、仕事中でしょう!?」

「どうにかするから心配しないで。

綾乃ちゃん、本当は辛いんでしょう?なるべく早く行くようにするから。住所は以前聞いていたから大丈夫だと思う。保険証だけ準備していてね。

近くに着いたら連絡するから!」

「ちょっと!?夏樹さん、私は大丈夫だって!」


畳み掛けるように用件を述べる夏樹さんに大きな声を出すと、また咳き込んでしまい、治まった時には既に通話は切られていた。その代わりに「もう少しだけ頑張って」とメッセージが入っていた。


スマホが鳴る音で意識が戻る。どうやらあのまま眠っていたらしく、玄関のインターフォンが鳴ったので扉を開けると、心配した表情の夏樹さんがいた。


「ごめんなさい、遅くなって。準備出来た?」

「夏樹さん、仕事は良かったんですか?」

「ええ、大丈夫」


夏樹さんは私の荷物を持つと、支えるようにして部屋を出た。鍵を掛けて歩き出そうとすると、不意におでこに手を当てられて変な声を出してしまった。


「っ!?」

「…熱もあるんじゃない?他に具合の悪いところは?」


「…喉が痛いのと、だるい」

「分かった。少し歩くけど行けそう?」

「頑張っては、みます」


これ以上心配をかけたくなくて、何とか歩き出す。病院の受付で熱を測ると、思っていた以上に数値が高くて驚いた。ここ数年で一番具合が悪い気がする。


(自己管理出来ていないな…)

と反省しながら診察を受ける。薬を処方され、安静にすれば直ぐに良くなると言い渡されると、夏樹さんは漸く肩の力が抜けたようだった。

自宅に戻り薬を飲んでベッドに横になると、疲れて眠気が襲ってきた。


「夏樹さん、今日はごめんね…」

「何言っているの、気にしないで。少し眠ったら良いわ」

「うん、ありがと…」


うとうとする頭の中で、そう言えば私夏樹さんにタメ口で話してる…と気がついたが、そのまま眠ってしまった。



ぼんやりと目覚めて部屋の中を見ると、夏樹さんの姿はなかった。随分眠っていたらしく、窓から夕焼けが見えている。

スマホを見ると、友人からの体調を気遣うものと、夏樹さんから鍵を預かっていて、夜にもう一度様子を見に来るとメッセージが入っていた。起き上がりテーブルを見るとスポーツドリンクとパンが置いてあり、「冷蔵庫にも色々入れてあるので食べてね」と書き置きがあった。私が眠っていた間に買い物をしてくれたらしく、おでこに冷却シートも貼られていた。何だか至れり尽くせりで申し訳なかったが、お腹も空いていたので有り難く頂く事にした。


ゼリーを食べながら、つい夏樹さんの事を考えてしまう。私が酷く具合は悪かったものの、今日の夏樹さんはあまりにも様子がおかしかった。心配しすぎるというか、どこか怯えていた気がする。

(友人なら誰にでもあのような態度なのだろうか?

それとも私だから…?)


都合良すぎる考えを振り払い、薬を飲んで再びベッドに戻る。スマホを触るのも億劫で、何もかも放置したままもう少し眠る事にした。


頭の上でひんやりした感触を覚えて、目を覚ます。薄暗い部屋の中で、直ぐ傍に誰かいる気配がして顔を向けると、スーツ姿の夏樹さんがいた。


「ごめんなさい。起こしちゃった?」


「ううん…」

「具合はどう?何か食べた?」


ゆっくり起き上がり、時計を確認すると9時を過ぎていた。薬が効いたのか朝より随分楽になった気がする。


「大分楽になりました。すいません、何か色々迷惑かけちゃって…」


夏樹さんはきょとんとした様子で私を見ていたが、ふっと微笑んで話しかけた。


「そんなにかしこまらなくても大丈夫よ。私、綾乃ちゃんと友達でしょう?

これを機会に普通の口調で話してくれると嬉しいな」

「えっ?本当に?」

「うん」


友達という単語に引っ掛かるものの、夏樹さんとの距離が近づいたようで素直に喜んだ。


「ふふ、何だか凄く嬉しい」


思わず笑うと、また咳き込み慌てて布団で口元を押さえる。夏樹さんが背中を擦ってくれ、咳が治まると飲み物を渡してくれた。


「一応ゼリーを食べて、薬も飲んだから安心して」

「そう、良かった…」


大きく安心した表情を浮かべる夏樹さんを見て、やっぱり変だと思いながら、つい口に出してしまった。


「夏樹さん、どうしてそんなに心配してくれるの?」

「…えっ」


「仕事忙しいんでしょう?私の事はそんなに心配しなくても良かったんだよ。


あのね、勘違いだったらごめん。私には夏樹さんが酷く怖がっているみたいに思えたのだけど、何か理由があったの?」

「っ!?」


おかしな質問に、なぜか動揺する夏樹さんを見て、不安が募る。しばらく落ちつかなげだった夏樹さんは、やがて何か決心したように話し出した。


「前に…元々体調が悪かった友人が、病院に行く前に自宅で倒れて…意識のないまま見つかった事があってね。

私、綾乃ちゃんから連絡貰った時、真っ先にその人の事を思い出したの…だから、貴女も何かあったらと思ったら、怖くて…」


「その人、良くなったの?」

「…今も、ずっと眠ったままでいるの」


きっとただの友人ではないのを夏樹さんの表情を見て直感的に理解した。

俯きながら話す姿は弱々しくて、あれだけ色々心配して貰ったのに、彼女が私をその友人と重ねて見ていて、しかも、そんな顔をさせる友人がいた事に嫉妬している自分に気がつき、酷く狼狽する。


'友人'という言葉をそのまま信じれば良いのに、どうしても尋ねずにはいられず、必死に平静を装い質問をする。


「その友人って、…夏樹さんの恋人だったの?」


'恋人'という言葉に反応したのか照れと懐かしさと好意がごちゃ混ぜになった様な表情で、夏樹さんは私に告げた。



「恋人と言うか、私の一番大切な人だよ」



その後の事はあまり覚えていない。とりあえず私は今日のお礼を言い、夏樹さんに作って貰ったご飯を仲良く食べて「お休みなさい」と見送った気がする。

布団に潜り込むと、涙がこぼれた。心のどこかで夏樹さんに好きな人がいるのは感じていた。夏樹さんは時折、寂しそうな顔をしている事があったが、その理由が分かった今は、納得してしまった。


病気で弱った私の心に夏樹さんの言葉は酷く堪えた。自分の自覚していた以上に私は夏樹さんを好きだったのだろう。自分が好きになった人は、既に好きな人がいた。ありきたりな展開に仕方がないと自分を無理に納得させながら、今は泣きたくて、疲れて眠るまで泣き続けた。

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