第5話 三日月(3)
それから私は次第に学校に馴染むことが出来るようになった。気がつかなかったが、今までの私は近寄りがたい雰囲気だったらしく、長谷先輩と打ち解けてから、休み時間などに少しずつ話しかけてくる人が出来た。
そんな私の周りが変わっていくことを一番喜んでくれたのは長谷先輩だったが、友人が出来ても私にとって長谷先輩は特別な存在で、昼休みはずっと一緒に過ごしていた。
あっという間に一年が過ぎ、長谷先輩の卒業を迎えた。卒業式の後、私達は二人きりでいつかの公園のベンチに座っていた。公園にある桜がほころび始め、木全体が薄い桃色に包まれている。長谷先輩は、県外の短大に進学が決まり、私はこれから会えなくなる毎日を思って寂しさを募らせていた。
言いたい事は沢山あるのに、話してしまうと弱音が零れてしまいそうだ。折角の門出に水を差したくなくて、結局何も話さないまま時間だけが過ぎていく。
「夏樹」
不意に名前を呼ばれて顔を向けると、長谷先輩はにこりと笑って私を見た。
風が吹き、長谷先輩の長い髪を揺らしていく。ドラマの一場面の様な美しさに見とれていると、そっと指が伸びて私の頬をなぞった。冷たい感触に思わず手を当てると、いつの間にか頬を涙が流れていた。
「夏樹は泣き虫だね」
少し涙声でからかう様に笑う長谷先輩を見て、私は堪えきれず抱きついた。ぎゅっと抱き締めてくれる長谷先輩の腕の中でひたすら泣き続けた。
「私…先輩に、心配かけたくないから…一人でも、もう大丈夫って…本当は笑って送り出すつもりだった」
「うん」
「…だけど、…寂しい。先輩がいなくなるのが」
「うん」
涙でぐちゃぐちゃな顔を上げて長谷先輩を見つめる。赤い目をした彼女は泣いていても綺麗だった。私の胸にずっとあった想いを聞いて欲しくて、ごしごしと涙を拭うと、真っ直ぐ長谷先輩を見て伝えたかった言葉を紡ぐ。
「先輩」
「何?」
「大好きです。卒業おめでとうございます」
「私も、大好きだよ」
「ありがとう、夏樹」
嬉しそうな長谷先輩の笑顔につられて、私もまた笑いながら泣いた。
【改ページ】
長谷先輩が卒業してからも、日常は何事もなかったかのように周り続けた。勉強とバイトに明け暮れる毎日の中で、昼休みの時間になると、先輩が卒業したことを嫌でも思い知らされる。
図書室に入ると無意識に長谷先輩を思い出してしまい、進級してから私は一度も足を運べなくなった。クラスで過ごす様になった私を友人たちは歓迎してくれ、少しずつ新しい日常が始まっていった。
この頃には母親は音沙汰がなくなり、私は遂に一人になってしまった。家に残されたのは僅かな貯金のみでどうして良いか分からず、別れた父親に思い余って相談した。父親は既に新しい家庭があったものの、私を引き取ろうと提案してくれたが、結局断り、その代わりに今まで住んでいた家を売ってアパートで独り暮らしをする事になった。貯金に余裕が出来たものの、安心できる金額ではなく、私は今まで通りバイトを続けなければならなかった。
「久しぶり、夏樹」
「えっ?」
夏休みも終盤になり、朝から一日中バイトに明け暮れる毎日に、ひょっこり現れた長谷先輩を見て思わず幻覚かと思ってしまった。私が携帯を持っていなかった事もあり、卒業以来全く会えず引っ越ししたことすら知らせられなかったので、嬉しさより驚きが大きかった。久しぶりに見た長谷先輩は何も変わらず私に笑いかけていて、思わず笑みがこぼれた。
「長谷先輩…」
「元気そうで良かった…バイト中にごめんね」
「あのっ、もうすぐ終わるので、良かったら待ってて貰えますか?」
「うん、急がなくて良いからね」
「絶対待ってて下さいね!」
笑って手をふる長谷先輩を見送ってバイトに戻る。何ヵ月しか離れていなかったのにずっと会えなかったかのような気がする。
はやる気持ちを抑えて長谷先輩の元に行くと、彼女はきちんと待っていてくれた。走って乱れた息を整えると、くすくす笑う顔が目の前にある。
「慌てなくて良いのに」
「だって、会えると、思わなかったから、」
「夏樹こそ黙って引っ越ししていたじゃない。探すの大変だったのよ」
「あの、それは…」
「うん、先生に聞いたわ。分かってる」
しどろもどろで弁明しようとすると、真剣な顔の長谷先輩がいた。
「大変だったね」
「いえ…」
短い言葉に全ての想いを込める長谷先輩の気持ちが嬉しくて、否定したが、本当に大変だった。先輩は、事情を察してくれたのか何も言わず、ぽんぽんと頭を撫でた。そんな気持ちを無下にしたくなくて、無理矢理明るく笑って長谷先輩をアパートに誘った。会えなかった時間を埋めるように色々な事を互いに話し、一緒に食事を作った。
私が長谷先輩のいない時間を過ごした分だけ、先輩も他の誰かと共に過ごしている。同じ時を過ごす事が出来ないもどかしさが私の心に重くのし掛かる。私だけがこんなに寂しいのか分からなかったけど、自分のエゴで先輩を独占することはしたくなかった。
「ねぇ夏樹」
「はい?」
「夏樹と知り合ってもう一年以上になるんだよ。いい加減に敬語やめない?」
テーブルに向かい合って食後のお茶を飲んでいた時、思い出したかのように長谷先輩が言い出した。私にとっては年上の先輩だし、ずっとこの口調だったから変えようにもかなり抵抗がある。そう伝えると
「私は、夏樹をただの後輩と思ったことは一度もないよ。夏樹はどうなの?」
「私は…私にとって長谷先輩は…」
真っ直ぐ視線を向けられて、鼓動が跳ねる。周りの騒音が消えて、長谷先輩以外何も見えない。伝えたい言葉はあるのに、喉がからからで声が出ず、お互いの視線が絡み合って離せない。
ふっと長谷先輩が微笑み、再び時間が動き出した。ほんの短い時間だった筈なのに、私には随分長い間見つめ合った気がした。
「ほら、やっぱり堅苦しいわよ。良い機会だから敬語も呼び方も変えなよ。言ってみて?」
「じゃ、じゃあ、早紀先輩…とか、ですか?」
「先輩はいらない、それと、'です・ます'もいらない」
「…早紀さん?」
「うーん、ま、良いか。それと敬語は無しね」
「そんな急には、無理ですよ」
「じゃあ、少しずつ減らしてね?」
「努力は、します…する」
「ん、宜しくね」
何だか可笑しくて、二人で笑い合った。それから会話の度々で敬語が出てしまい、その都度早紀さんに指摘され、私は早々と口調を改善することとなった。
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