第6話 三日月(4)
私と早紀さんはお互いを誰よりも分かっていたと思う。私は早紀さんの事を友人として好きだったし、彼女に恋愛的な感情もあった。早紀さんもきっと同じだったと思う。二人とも周りに他の友人もいて、一緒に過ごせる時間も少なかったけど、心の奥底がしっかり結び付いているのを感じていた。
「好き」だと伝えたのは、早紀さんの卒業式の一回きりだったが、ずっとその気持ちは変わらなかった。キスや恋愛的な事に興味がなかった訳ではなかったけど、相手を大切に思うあまり、この居心地の良い関係を壊すことを何となく恐れていた。
私が高校を卒業してアパートから通える大学に入り、早紀さんが隣の県の小規模の会社に就職して、ますます会う機会が少なくなっても二人の関係は変わらなかった。
早紀さんは、働き出してからやつれていった。元々身体があまり丈夫でなかった早紀さんは、最初の頃は慣れない仕事の為と言っていたが、働きだして二年目も終わる頃、久しぶりに再会した早紀さんの変わりように私は驚愕した。頬は痩けて顔色も悪く、身体は一回りも小さくなっていた。
「早紀さん、どうしたの!?」
「どうしたのって、何かあった?」
「顔色悪いし、体調悪いんじゃないの?」
「ああ、仕事が忙しくてね…大丈夫よ」
早紀さんは微笑んで否定したが、尋常ではない姿に私は不安を覚えた。
「ねぇ早紀さん。仕事が大変な事は分かるけど、少しは休めないの?」
「…うん、休みたいのはやまやまなんだけど…」
歯切れの悪い口調に、不安が募り私は詰め寄った。早紀さんの勤めていた会社は、早朝出勤深夜残業あり、休みなし、パワハラありの状態で、社会に出ていない私でも分かるくらいのブラック企業だった。同期の社員は既におらず、頼れる人もいない環境で過ごしている状況を、重い口調で話す早紀さんが辛くて、私は抱き締めた。
「…夏樹?」
抱き締めた身体はあまりにも細く、このまま壊れてしまいそうで戸惑う早紀さんに構わず抱き締め続ける。そして、少し背の高い私の腕の中で動けないでいる早紀さんにそのまま話しかけた。
「早紀さん、そんな会社は辞めなよ。自分を追い詰めるまで働かなきゃいけない様な会社はどう考えてもおかしいよ。
このままじゃ身体を壊しちゃうよ」
「…」
「どうしても働かなきゃいけないなら、せめて身体を休めてからにして。自分の身体がぼろぼろなのに、気がついていないの?
早朝から深夜まで働き詰めで、休日も会社に行って、体調崩しているのに仕事優先で病院にもいけないなんて、おかしいじゃない!」
「…そうだね」
「早紀さん?」
「そうだよね…もう自分じゃおかしいとも思えなくなっていたみたい」
「…私、思いきって転職を考えてみる」
「本当に!?」
早紀さんは私の腕の中から顔を上げると、少し微笑んだ。それから、どこか緊張したように私に顔を向ける。
「…あのさ、夏樹」
「うん?」
「もし…もし、私がこっちに戻ってきて就職したら、…一緒に暮らさない?」
「えっ?」
「二人で住めば私もお金を入れるから、少しはゆとりも出来て、夏樹も毎日バイトに追われなくて良いでしょう?家事も分担するし。
そもそも貴女は私よりずっと大変じゃない。だから良かったら…私と一緒に暮らしてくれないかな?」
「本当に、良いの?…本当に?」
「夏樹?…きゃっ!」
「早紀さん、待ってるね!本当に約束だよ!」
思いがけない提案が嬉しくて、抱き締めた腕に力を込めた私の腕中で、早紀さんは苦笑した。
「な、…苦しい…」
「あ、ご、ごめん」
「…私、結構勇気出して伝えたのに、何だか力が抜けちゃった」
「えっ、何を?一緒に住む事?」
「ふふ、内緒。じゃあ、夏樹。また連絡するから」
「うん、早紀さん。ゆっくり休んでね」
早紀さんに手を振ると、笑顔で手を振り返してくれた。私が早紀さんの笑顔を見たのはこの日が最後だった。
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それからしばらくして、早紀さんは病院で診察を受ける事と、年度末まで働いてから会社を辞める事にした、と連絡をくれた。私は早紀さんを迎えに行く日を決めて、忙しい毎日を過ごしていた。授業料の減免を受ける為勉強を疎かにする事が出来ず、学校が終われば夜遅くまでバイトに精を出していた。そんな中で、新年度から早紀さんと過ごせる時間がぐっと増えるのを楽しみにしていた。
待ち合い当日、何時間待っても早紀さんは姿を見せなかった。何度か連絡をとったが、電話にも出る事はなく、不安で仕方がない。携帯の発信画面が全て埋め尽くされた頃、何度目かのコールの後漸く繋がり、慌てて電話に出ると、電話口に聞き慣れない男性の声が聞こえた。
「あの…どなたですか?」
「長谷早紀の弟です。すいません、今、姉は電話に出れません」
「私、早紀さんの友人で立木夏樹と言います。あの、どうして早紀さんは…?」
「あなたが立木さんですか。…姉は今、病院にいます」
「病院?あの、早紀さんはどうしたんですか?」
心臓が大きく跳ねた。早紀さんが電話に出ない状況が怖くて仕方がなく、電話を持つ手が震えるのを必死で抑えた。早紀さんの弟だという彼の声が淡々と響いている。
「姉は先日、自宅で倒れていたのを発見されて…入院しています」
その後の会話は、殆ど覚えていなかったが、辛うじて早紀さんの運ばれた病院名と住所を聞いて電話を切った。突然の事に心が痺れたように動かない。
(早紀さんの所に行かなきゃ…)
強ばる身体を無理矢理奮い立たせるように動かして、学校とバイト先に休みの連絡を入れ、準備を整えると部屋を飛び出した。
病院に着く頃には夜になっていて、自動ドアの向こうは最低限の灯りしかなく、静かな空間が広がっていた。ひんやりとした空気に足を踏み入れると、待ち合いロビーの奥で、誰かが立ち上がる気配がした。
「立木さん、ですか?」
「はい。あなたが早紀さんの弟さん?」
「晴次です。初めまして」
170台の私と同じくらいの身長で、すらっとした細身の男性は疲れが浮かぶ顔に、少し笑みを浮かべて迎えてくれた。その笑顔が早紀さんとそっくりで、やっぱり姉弟なのだと思った。
「すいません、こんな時間まで待っていて貰って」
「いえ、今日は僕が付き添うので、都合が良かったです」
「あの、早紀さんは?」
早紀さんに早く会いたくて尋ねると、晴次さんは私を見て、辛そうな顔をした。
「立木さん。姉に会う前に少し話したい事があります」
「えっ?はい」
「あなたの事は早紀から聞いています。俺と早紀は、結構姉弟仲が良くて色々相談したりしていましたから…勿論お互い相談事を誰にも話していませんよ」
「相談って、何を…?」
「それは今は言えません。ただ早紀にとってあなたは大切な存在だと知っていたから、俺の一存で早紀の事を話しておきたかったんです」
「…」
「早紀は意識不明のまま病院に運び込まれてから、ずっと眠ったままです。…いつ意識が戻るか分からないそうです」
「っ!?」
身体から血の気が引いて、思わず倒れ込みそうになった。晴次さんが手を伸ばしてくれたが、自分で近くの椅子に倒れるように座った。頭の中はぐちゃぐちゃで何も考えられない。
ふと、目の前にペットボトルが現れて顔を上げると、晴次さんが私に差し出していて、無理矢理私の手に持たせた。
「どうして…?」
「えっ?」
「どうして早紀さんは、そんな事になったんですか?」
「…医者の診断は、極度の疲労による栄養失調と衰弱らしいです」
「嘘…だって…早紀さん、病院に行くって連絡してくれたのに…」
「ええ、あなたに言われてから漸く休みを貰えたみたいで、俺が連れていく予定だったんです。だけど、その日部屋に迎えに行ったら、テーブルの脇でスーツ姿のまま倒れていて…」
その時の事を思い出したのか、晴次さんは声が震えていた。
「早紀が話していたんです。年度末で会社を辞めると上司に伝えてから、次の新人が入るまでという名目で、何もかもを押し付けられて仕事が倍以上に増やされたって」
「っ!」
「立木さん?」
頭を殴られたような衝撃が走った。晴次さんが私の様子がおかしい事に気がついて心配そうな表情を浮かべるが、私はがたがたと震える身体を抑えることが出来なかった。
「私が…言ったんです…私が、会社を辞めた方が良いって…だから、早紀さんは…私のせいで…」
「違う!」
肩を掴まれ強い口調で否定されるも、私の心は混乱して、罪悪感で溢れていた。
「立木さん、落ち着け!」
「…」
「早紀が倒れたのは君のせいじゃない!どう考えてもおかしいのは早紀を働かせていた会社だ。
良いか?あなたが責任を感じるなら、早紀の異変に気がつかなかった俺にも責任がある。自分を責めるなら、俺も責めてくれ」
「…そんな事…出来ない」
「それなら自分を責めるのは止めてくれ。そんな事をすれば早紀が目が覚めたときに悲しむだけだ」
「早紀さん…」
「きっと意識が戻る筈だから、俺たちが待っててあげなくちゃいけないだろう?」
「うん…」
力が抜けたように座る私を、真っ直ぐに見つめて晴次さんは語りかける。私と自分を励ますように話す声を聞いていると、少しずつ気分が落ち着いてきた。
「晴次さん、あの、ありがとうございます。取り乱してすみません。…少しだけで良いから、早紀さんに会わせてもらえますか?」
「あ、ああ。俺も何だかすいません。だけど、早紀に会う前に話しておかないと多分、ショックだと思うから…」
「…分かりました」
そのまま二人で無言のまま病院の中を進む。面会謝絶のプレートがかかった扉の前で立ち止まると、晴次さんは「向こうの椅子に座っているから」と私を一人にしてくれた。ノックしてドアを開ける。消毒液の匂いが微かに残る中で、早紀さんは色々な機械と点滴のチューブを付けられ、静かに眠っていた。
「早紀さん…」
小さく名前を呼んでも瞼は閉じたままで、私はゆっくり傍による。早紀さんは隈が浮かび、元々細い腕が触れただけで折れてしまいそうな位痩せていて別人の様だった。震える手でそっと指を握ると、温もりを感じ、それだけが早紀さんが生きている証拠の様に思えた。
「早紀さん、ごめん」
呟いた途端、涙が止まらなくなった。私が泣いていた時、いつも傍で抱き締めてくれた優しい人はいない。止まることを知らない様に流れ続ける涙を拭う事もせず、私は早紀さんの手にすがってひたすら泣き続けた。
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