第3話 三日月
公園で香田さんと会ってから一月が過ぎた。外気は刺すように冷たくなり、冬が来るのを実感する。あれから香田さんは彼氏と別れたらしく、一度簡潔なメッセージが届いたが、それからはずっと連絡がなかった。様子を見に行きたかったのだが、仕事が終わらず、ずっと会えないままだった。その上、連絡をしようにも何と声をかけるべきか分からず、一人で悶々としていた。
朝目覚めると、窓の外は重い雲に覆われどんよりとした空だった。底冷えのする部屋で温かい布団の誘惑を振り払い、仕事に行く支度をする。テレビからはまだ随分先のクリスマスの特集が流れ、盛り上がりをみせている。
(クリスマスか…)
イベントなど関係なく仕事続きの毎日で、一人でいることが当たり前になっていた事に虚しさを感じる。テレビを消し、鍵を閉めていつも通りの日常が始まった。
仕事が終わった頃には外はすっかり暗くなり、会社から出ると、びゅうと冷たい風が体温を一気に下げた。コートの襟を立て、バックに入れておいたマフラーをしっかり巻き直して家路に急ぐ。冷たい風が顔を撫で、それが余計に寒さを感じるようだった。いつものスーパーを通り過ぎると、店はとっくに閉まっていて、今日も香田さんに会えなかった事にため息をつきながら通りすぎる。ふと、街路樹を挟んだ暗い道路の反対側に彼女の姿が見えた。呼び掛けようとするも、信号機は離れており、交通量が多くて声がかけれない。急いでスマホを取り出し通話を押すと、暫くして香田さんが立ち止まり電話が繋がる。
「もしもし」
「立木さん?お疲れ様です」
「左を見て」
「?」
視線が合うように手を振ると、驚いた顔の彼女が見えた。通話を切って早足で香田さんの方に向かうと、彼女も私の方に歩き出した。広めの歩道で合流すると、ガードレールにもたれて乱れた呼吸を整えた。自分の体力の衰えを痛感する。
「大丈夫ですか?」
「…大丈夫」
心配そうにのぞき込む香田さんは私より多く歩いた筈なのに息切れすら起こしていない。
(もう少し体を動かそうかな…)
心の中で呟き、顔を上げる。咄嗟に呼び止めて落ち合ったもののの、何を話せば良いか思い付かなくて、頭が真っ白になる。
「あの、ごめん、呼び止めて。姿を見かけたから声をかけただけなんだけど…」
結論として、謝罪の言葉が出た。
「えっ?」
「あっと、あの…電話すれば良かったね」
赤い顔で慌てふためき釈明する私をぽかんと見ていた香田さんは、堪えきれず笑い出し、私もつられて笑ってしまった。
「立木さんって面白いですね」
「そうかな?」
誉められてるのか微妙な評価をもらい、複雑な気持ちになると、
「良い意味ですよ」
と私の感情を読み取ったかの様なコメントを貰った。
「今まで仕事だったんですか?」
「ええ、貴女はバイトは終わったの?」
「はい」
何となく元気のない彼女を見て心配になる。何気に観察すると少しやつれているし、手袋もマフラーも着けていない事に気がついた。この寒さの中、身体は冷えないのだろうか?
「立木さん、あの…ごめんなさい」
「?急にどうしたの?」
「ずっと心配してもらったのに、私全然連絡しないで…」
「ううん、気にしていないわよ。私こそ連絡しなくてごめんね」
「そんな事ありません。お仕事も忙しそうだし、あの日だって本当は大変だったんじゃないですか?」
自分の事より私を心配してくれる香田さんに笑い返す。
「私の事は心配しないで。
…ねぇ香田さん?」
「はい」
「大丈夫?」
「…」
気遣いや心配、色々な事を上手く言葉に出来ず、結局一言で尋ねた質問の真意を分かってくれたらしく、立ち止まって顔を合わせた彼女は、無言だった。自分でも何と答えたら良いか分からないのだろう。だけど、悲しげな雰囲気と泣き笑いの表情がその質問の答えの様な気がした。
その表情を見た途端、私はぎゅっと抱き締めてあげたい衝動に襲われた。庇護欲でも同情でも憐憫でもない複雑な感情が自分の身体の底から沸き上がり、思わず身体が動くのを我慢する。暗がりだからか、彼女に気付かれる事はなくほっとするも、このままほうっておけなかった。
「香田さん。少し歩くけど良かったら、私の家に寄っていかない?」
「えっ?」
「あの、無理にとは言わないけど、その…落ち込んでいるみたいだから…少しでも、力になりたいって言うか…話を聞く事で楽になるかもしれないし…」
「…」
「…貴女の事が心配なの。私で良かったら…」
自分の口下手加減に嫌気が差しつつ、あわあわしながら遠慮がちに尋ねると、香田さんが突然飛びつくように胸に飛び込んできた。
「!!」
後ろに倒れ込まないように咄嗟に踏ん張るようにすると、反射的に彼女を両手で掴んで抱き締めるような体勢になってしまい、そのまま身体が動かせなくなってしまった。彼女の突然の行動が分からず口を開こうとすると、香田さんが震えているのに気がついた。きっと寒さだけではない理由を思いやって、緊張していた身体の力を抜き、ぽんぽんと子供をあやすように彼女の頭を優しく撫でる。
「うちにおいで。温かい物でも飲めば少しは落ち着くよ」
囁いた言葉の返事はなかったけど、しがみつく手と少し頷く頭を返答の代わりにして、私は自分のマフラーをとると、彼女の顔を隠すように巻いてあげた。手袋を取り外し、香田さんの手をそっと握るとその冷たさに内心驚く。体温を分け合うようにして、柔らかい手を温めるように握ると赤い目を向ける彼女に少し笑いかけそのまま歩き出した。
「お邪魔します」
部屋に招き入れると、おずおずとした様子で香田さんは入ってきた。暖房をつけお湯を沸かす準備をする。彼女は部屋の壁全体を覆うように置かれている本に目を丸くしていた。
「これ…全部で何冊くらいあるんですか?」
「うーん、分からないわ。とりあえず適当に座っていて、コーヒーとココアどちらが良い?」
「すいません、コーヒーでお願いします」
私の部屋に置かれているのは必要最低限の家具のみで、インテリアはなく全て本棚に覆われている。女性の部屋というにはあまりに殺風景な事も自覚しているが、私は気に入っていた。
コーヒーを淹れるとふわりと香りが部屋に広がる。
「どうぞ」
カップを渡し自分の分もテーブルに置くと、彼女と対面するように座った。お礼を言ってコーヒーを飲む彼女は、大分落ち着いたようだ。自分以外の誰かが、この部屋にいることに酷く違和感を覚える。そういえば今まで誰も招いたことがなかったな…と考えついて思わず苦笑した。
「?」
「香田さんがこの部屋の初めてのお客様だなと思っただけよ」
香田さんが不思議そうにしていたので、笑って説明すると驚かれた。
「友達とか彼氏も入った事がないんですか?」
「ええ。私隣の県出身だから友人はあっちで会うの。まあ、彼氏…はいないしね」
「すいません」
「ううん、本当に気にしないで。ごめんね、何だか色々気を遣わせちゃって」
気まずくなりコーヒーを飲んで誤魔化す。香田さんもそれ以上詮索する事もなかったのでほっとすると、空腹を感じた。そういえばとっくに夕食の時間を過ぎている。彼女もバイトが終わったばかりできっと食事はとっていないはすだ。
「香田さん、お腹すかない?良かったら私がご飯作るから一緒に食べていかない?」
「あ、だけど…」
「時間も遅いから、簡単な物だけど、一人分も二人分も作る手間は変わらないから遠慮しないで」
「…本当に良いんですか?」
恐縮しっぱなしの香田さんに笑って、立ち上がる。
「じゃあ、決まりね」
キッチンに向かい、冷蔵庫の中を確認してからメニューを考える。香田さんも手伝いを申し込んできたが、独り暮らし用のキッチンは狭く、手伝う事は難しそうだったので、居間に座って待っていてもらった。キッチンと居間は三歩も離れていないので、私は彼女と雑談をしながら料理を作った。
「わ、美味しそう」
野菜多め冷凍ご飯の卵雑炊と作り置きのマリネと鶏ハムの和え物をテーブルに並べると、香田さんの嬉しそうな声が上がった。普段から来客用の食器を準備していなかったので、お椀も皿もバラバラだが、香田さんはきらきらした目でテーブルを見ていた。二人で「いただきます」と挨拶してから箸をとる。
「すっごく美味しいです!」
「そう、良かった」
香田さんは感動した様に言うと、無心になって食べ始めた。もぐもぐ食べる様子が可愛らしくて、ついつい眺めてしまう。普段空腹を満たす為だけに食べる食事が、彼女と食べるだけで特別な物の様に感じるから不思議だ。
目が合うと微笑む香田さんが、遠い昔の記憶の中の人物と重なり、どきりと胸が騒いだ。そっと目を伏せて心を静める。姿も声も性格も何もかも違う筈なのに、何故かあの人を思い出す。
(そっか…だから気になるんだ)
溢れそうになる様々な感情を、コップのお茶と一緒に無理矢理流し込み、食事を食べ終えた。
食器を洗い、片付けを手伝ってもらう頃には、香田さんも随分表情が穏やかになった。
「本当に送らなくて良いの?」
「はい、ご飯までご馳走になって…ありがとうございました。…お腹が満たされたら、少し気分も良くなった気がします」
照れながら笑う香田さんを玄関で見送ろうと、ドアを開けると冷たい風が身体を一気に冷やした。思わず身震いすると、靴を履く彼女に声を掛ける。
「ちょっと待って」
「?」
部屋からマフラーを持ってくると香田さんの首に巻き付ける。
「良かったら使って。風邪ひくわ」
「でも…」
「私はもう一つ持っているから大丈夫。今度会ったときに返してくれれば良いから」
「…ありがとうございます」
お節介だったかなと思いつつ、照れ隠しに顔が半分埋もれるくらいわざと巻くと、笑いながら受け取ってくれた。
「お休みなさい」
「あの…立木さん」
「何?」
「今更だけど名前で呼んで良いですか?」
「えっ?ええ」
「お休みなさい、夏樹さん」
嬉しそうに挨拶する香田さんに、少しどきどきしながら私も挨拶を返す。
「お休みなさい、綾乃ちゃん」
ぱあっと明るく笑った彼女に、照れ臭さを誤魔化すよう手を振り、彼女と別れた。
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