第37話 レン

「お兄さま!!」


 兄の元へ駆けつけようとするリリヤドールを俺は必死に制止した。彼女の伸ばした小さな手が、無情にも空を彷徨い、その向こうで血塗れのトーヤがぐったりと倒れている。彼の右半身はすでに無く、臓物すらも辺りに散らばって、もう人の身体の形を成していない。かろうじて残っている肩から上の部分が、その肉塊がトーヤであったことを示しているのみだ。息は無く、当然言葉もない。


「だめだリリヤドール! お前まで撃たれてしまう!」


 せめて、狙撃手の位置がわかっていれば、反撃もできたかもしれない。リリヤドールの魔法で障壁を作れば、こちらはゆっくりと狙いをつけられる。だが、今わかっていることは、今いるこの場所が、敵の射線から外れているということだけだ。


 とにかくここを離れないと!


 俺は必死に考えた。

 今、俺たちのいる位置は、前と左に広く射線が通っている。トーヤが右半身を撃たれたということは、左側に敵はいないということだ。つまり射撃手は右側か背後にいるということになる。狙撃手を直接確認したわけではないから、予想でしかないけれど、その予想に縋り付いてでもここを離脱しないと、すぐに追手に捕捉されてしまう。

 長いライフルを銃身で持ち、泣きじゃくるリリヤドールの脇から支えた。


「行くぞ」

「じゃ、じゃがお兄さまがっ」

「もう……死んでる」


 本当は遺体の傍で心の整理がつくまで待ってあげたい。だが、そんな悠長なことはしていられないのだ。


 トーヤの遺体のある場所はもちろん狙撃手に見られている。だからそこは避けて北へ抜ける。相手が魔道師で爆裂魔法弾が使えるのであれば、わずかに居場所を察知されるだけでも危険だ。そして見られればすぐにその場を離れなければならない。慎重に、すばやく森を移動する。時々茂みに紛れて背後を警戒する。そしてまた走った。


 どこまで逃げれば安全だろうか。リリヤドールと繋がる手は徐々に重くなっていって、ふたり分の体重を支えられなくなった俺の膝は、とうとう地面についてしまった。

 周りに戦いの気配はなく、鳥の囀りが頭上から鐘の音のように降ってくる。ただ、そんなものを聞いている余裕はなくて、俺の耳には自分の荒い息遣いと胸を突き破るほど激しく打ち付ける鼓動の音だけが聞こえていた。


「はぁッ、はぁッ、はぁッ……どうして……どうして」


 切れた息で、それでも無理をしてリリヤドールが口を開いた。


「どうしてお兄さまを見捨てたのじゃ!」


 悲痛な顔だった。ここまで走りながら色々考えただろう。だが普段聞き分けの良い彼女が、それでも受け入れられなかったのだ。兄の死を。


「身体の半分を失って生きている人間などいない」


 そんな哀れなリリヤドールに非情な現実を突きつけなければならない。そうしないと前に進めない。ふたりともが後ろを向いていては、前に進めないのだ。


「お主は! お主は、薄情者じゃッ」

「ならば死者を蘇らせる魔法でもあるというのか?!」


 俺はわざと激高させるような言葉を吐き捨てた。彼女はただ悲しんでいるだけだというのに。ただ慰めれば良いだけなのに。それでも憎まれ口を叩いた。


「仮にトーヤに駆け寄っても俺たちふたりとも死んでいただけだ!」


 俺の言葉が正しいと思えるからこそ、リリヤドールは奥歯を噛み締めて俺を睨みつけた。

 余計なお世話だと恨まれても良い。恩知らずだと蔑まれても良い。冷徹だと恐怖されても良い。それで身体に力が入るなら、俺はいくらでも憎まれ役をかって出よう。

 返す言葉の見つからないリリヤドールは、昂ぶった感情を制御できずに呼吸を乱れさせた。それは嗚咽となり、やがて彼女の目から大粒の涙がぼろぼろと零れ落ちた。


 しんと静まり返る森のなかで、リリヤドールの鼻をすする音だけが聞こえている。さっきまで歌っていた鳥たちもどこかへ飛んでいってしまった。

 ややあって、落ち着いたのか、リリヤドールはようやく顔を上げた。


「目が腫れているぞ。鼻も赤い」


 俺は袖口で彼女の目尻に滲む涙を拭った。


「ん、むっ」

「落ち着いたか?」

「……うむ」

「立てるか?」

「うむ」


 歩けるなら歩かなければならない。走れるなら走らなければならない。俺は立ち上がり、リリヤドールに手を差し出した。彼女も俺の手を取って立ち上がった。


「お主は、優しいのう」


 まだ少し悲しそうな目をしてリリヤドールは零した。


「優しい言葉を吐いたつもりはないのだが?」

「わしが脱力してしまわぬように、わざと反発させるようなことを言ったのじゃろう」


 いくらなんでも察しが良すぎないか。まるで心でも読めているような気味悪ささえ感じる。それともレンの魂の繋がりとやらは、実在するのだろうか。

 訝しむ俺に、彼女は呆れ半分こう言った。


「魔力は嘘を吐かぬのじゃ」





 レデルハイトの大森林は大きい。我が祖国イニピア王国の全土をすっぽりと覆い尽くすほどだ。だが、森の様相はその緯度のよって大きく異なるようだ。ニヤラの森は幅広の葉の木々が多かった。だが霧の結界の範囲を越え、さらに北上すると森は針のような葉を持つ木が支配するようになった。茂みも減り、土の地面と岩肌をよく見るようになった。


『さらに北へ進むと、やがて背の低い草原に出て、それから大きな河にぶつかるだろう。

 雄大で、どっしりとした流れだが、あまりに太いために橋がかかっていない。

 だが流れが緩やかだから、氷結の魔法で難なく渡ることができるだろう。

 河を渡り、しばらく上流へ川縁を進む。

 すると正面に大きな尖った山を望むことができるはずだ。

 その山を右手に、河を背に、さらに北へ進む。

 尖った山がふたつに割れた時に正面に見える三つこぶの山の、一番左の麓を目指す。

 その先は高地になっていて、そこからはもう草木も疎らになる。

 そこでまず、ニヤラを示す印が刻まれた大岩を探さなきゃならない。今までよりも地面に起伏がないから見つけやすいはずだ。

 大岩から星を頼りに北へ進むと、少し行ったところに洞窟があるから、久しぶりの屋根のある場所で野宿できるぞ』


 ニヤラを脱出して何日が経っただろうか。二週間は経っただろうか。ニヤラの外れの小屋でトーヤに言われたことを思い出しながら旅をして、話にあった洞窟に辿り着いた俺たちは戦慄していた。


「さっっっっっっっっっっっっっっっっっっむッ!」


 寒すぎたのだ。

 確かに吹きさらしの外よりかは幾分ましだろう。それでも旅の準備もままならなかった俺たちに耐えられる寒さではなかった。だが耐え難い寒さでも耐えなければ死んでしまう。俺たちは寒さを乗り切るために様々な方法を試みた。

 できるだけ風の届かない奥の方に場所を移したり、枯れ枝を集めて火を起こしたり、その火を囲う時に身を寄せ合ってみたり。


「くしゅんッ」

「大丈夫か?」

「大丈夫じゃ、ちょっと鼻がむずむずしただけだから」


 子供のように鼻水をすするリリヤドール。こうしていると俺よりもずっと年上であることをついつい忘れてしまう。彼女の幼い精神性は、生贄として周囲から隔離されていたことに起因するのだろう。まるで妹でもできたよで微笑ましくもあるが、腹立たしくもある。

 こう寒いと鼻水もすぐに乾くだろう。彼女の鼻の下がカピカピになってしまわないように、俺は自分の袖口で彼女の鼻水を拭おうとした。


「ひあっ!? 冷たッ」


 拭きやすいように顔を掴もうとしたのだが、どうやら俺の手は相当冷たかったらしい。


「ああ、すまん」


 そう言って袖口越しに彼女の頬に手を添えなおした。


「んんむうっ、自分でできる! 子供扱いするでないっ」

「良いから」


 しつこい俺に観念したのか、彼女は目を瞑って顔を俺に預けた。少し間抜けな顔を見ながら俺は明日の予定を考える。


 この高地からは点在するニヤラの印が刻まれた大岩を伝いに進まなければならない。

 その大岩と太陽や星の位置から進むべき方角を導くのだ。だが特別な知識は必要ない。

 なぜなら、道を詠った歌があり、それを頼りに進めば間違えること無く目的地に辿り着けるようになっているからだ。

 その歌は、ちゃんとネイハヤートのところへ辿り着いて無事にお役目を果たせるようにと、生贄となる者は幼い頃から教えられるのだそうだ。


 結局、そんな歌を頼りに旅をすることになるのだな。


 目の前のリリヤドールは何を思っているのだろうか。仕方なかったとはいえ、この道を回避できなかった現状を恨めしく思うも、目的は違うのだと自分に言い聞かせた。


 目を瞑って俺を仰ぐ彼女はひどく無防備で、俺はその青白い唇にそっと口づけをした。












「!??! なっ?!」


 混乱したリリヤドールは、小さな手で口元を確かめる。青ざめていた彼女の顔がみるみる赤くなっていくのが可笑しくて、


「寒さはましになったか?」


 と、誂ってやった。

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