第30話 ニヤラへ

 レデルハイトは寒い。まだ初秋だというのにセントレントの真冬のようだ。流石にまだ雪は降っていないが、さらに北のニヤラではどうかわからない。シフォニ王国の沿岸部の都市では、すべてが白に染まるほど多くの雪が降るのだとか。それを”銀世界”などと表現するらしい。イニピアでも雪は降ったが、北側の国境は海に面していないため、そう多く積ることはない。見てみたいような気もするが、寒いのは嫌いだ。

 海峡を渡った先のイェルノートという街に降り立った俺が、白む息にうんざりしていると、リリヤドールが自分も寒いのは嫌いだと言うものだから、ニヤラはもっと北にあるのだろうと尋ねると、


「ニヤラはこんなに寒くはないぞ」


 と、横からトーヤが教えてくれた。


「そうなのか?」

「ニヤラは森の深くにあって、魔力が濃いから季節の影響を受けにくいんだ」


 森に満ちた生命属性の魔力が、冬の寒気や夏の熱気に含まれる魔力の侵入を防いでくれるらしい。


「……それでも、冬の王ネイハヤートがもたらす冷気には勝てない」


 それを防ぐためには生贄が必要だった。だが、何千年と紡がれてきた悪習を断ち切る時がきたのだと、トーヤは勇んだ。しかしもう冬は目の前に迫ってきている。今から調査して計画を立ても、今年の厳冬期には間に合わないだろう。トーヤは策があると言っていたが、一体どうするつもりなのだろうか。


「今年の冬には工業化はとても間に合わないぞ?」

「ああ、わかってる。フィンドハルト伯に声をかけたのは、何も工業化するためだけじゃない。近代兵器を融通してもらうためでもあるんだ」

「それでドラゴンを討伐するつもりなのか?」


 尋ねるとトーヤは、力強く頷いた。魔法弾は込める魔力の量によって威力が変わる仕組みになっている。ヒトよりも遥かに魔力の多いエルフなら、もしかするとドラゴンの鱗も貫けるのかもしれない。ドラゴンなど見たこともないし戦ったという記録もない。そもそもレギニアにはドラゴンは生息していないから当然だ。だが大海原を駆け巡ったレギニア人は、世界各地から様々な伝承や記録を持ち帰ってきた。その中にはドラゴンにまつわるものもあって、そのどれもが、かの生物の圧倒的な力を記すものだった。


「そう上手くいくかな」

「それでもやらなくちゃならないんだ」


 たったひとりの妹を救うために、多くの同胞に痛みを強いることを良しとしている? いいや違う。そのことで妹の心が傷つくことさえもトーヤは知っている。それでも成さねばならぬという確固たる信念があるだけなのだ。




 イェルノートからは列車に乗って北に向かう。大森林の手前のルエールブという街が最後のヒトの領域となる。此処から先は大森林。つまりエルフの土地だ。

 俺たちはルエールブの宿で、ニヤラに戻った後の打ち合わせをすることにした。


「俺がリリヤドールのレンであることは誰にアピールすれば良いのだ? 王国というからには国王がいるのだろう? トーヤの父親がそうなのか?」

「ああ、もう四百年は父の治世が続いているよ。古い世代では評判みたいだけど、俺からすれば怠慢さ」


 俺は肯定することも否定することもできない。


「具体的には何をすればいい? 生贄の儀式かなにかの時に、まるで物語のように飛び入って劇的にリリヤドールを連れ去ってみるか?」

「それは良いね。でも、大人たちの驚く顔を見るのも痛快だけど、さすがに今回は堅実にいこうと思う」

「計画があるのか?」

「ニヤラに到着したら俺が王へ謁見を申し込むから、そこでリリヤドールのレンとして名乗り出て欲しい。その時に調査隊も紹介しようと思う」

「だが良いのか?」


 これを言っても今更だ。それに俺が口をだすことではないと思ってずっと黙ってきたけれど、とどのつまりトーヤがなそうとしているのはクーデターにほかならない。確かに王がトーヤの提言を受け入れればその必要はなくなるだろうけれど、それができなかったからトーヤは、妹のレンと近代化のパートナーを連れてきたわけで。


「まあ、王には拒絶されるだろうな」

「ならば――」

「その時は仲間たちが王宮を抑えることになっている。その中には戦士たちも多くいるから大丈夫だ。この旅は、計画の最後の決定的なピースを探すものだったのさ」


 この旅が始まるとうの前に覚悟は済ませてあるらしい。


「準備万端というわけだな」

「ああ!」


 トーヤは力強く頷いてみせた。



 ルエールブから馬で半日も行けば大森林の入り口へと辿り着く。入り口といっても大都市のような頑強な門があるわけでもなく、王宮のような絢爛な玄関があるわけでもない。口を開けているのは薄暗い木枝のアーチだ。ここまで深い森であれば、野生動物はもちろん、もしかすると魔獣も姿をみせることがあるかもしれない。森の民たるトーヤの指示のもと、俺たちは隊列を組んで森に入った。


 外から見た印象と違って、森の中は意外に明るかった。とはいっても薄暗いか仄明るいかの違いでしかないのだろうけれど。

 時折、ウサギやキツネといった小動物の足跡を見つける。さらに奥に進むと巨大な山鹿の痕跡を見つけることもあった。だが見知らぬ侵入者に警戒しているのか、ついに姿をみせることはなかった。”ついに”というのは例の霧の結界とやらに突き当たるまでのことだ。


 霧の結界は千年以上に渡ってエルフの王国を外界――つまりヒトから遠ざけてきた実績を持つ。ヒトの世界でいうところの都市壁のようなものだろう。この結界のおかげでヒトは大森林に入ってもニヤラに辿り着くことはできないようになっている。物理的な壁があるわけではなく、霧がヒトをどうしようもなく惑わせ、迷わせるのだとか。だから案内人がいればたやすくくぐり抜けることができるそうだ。


 前の馬の尻しか見えないような濃霧のなかを、先導するトーヤを信じて進む。どれくらい経ったのか、具体的な時間はわからない。懐中時計を取り出して見ても出鱈目な時刻を刻んでいる。森の濃密な魔力がそうしているのか、それともこれも結界の仕業なのか、それすら俺には見当もつかなかった。とにかく、気がつけばいつのまにか霧は薄くなっていた。


 霧が完全に晴れるとそこは、霧に入る前の仄明るい森とは打って変わって、瑞々しい緑が光を反射する明るい空間だった。しかし森は依然深いままで、木漏れ日が差し込んでいるわけでもない。この溢れんばかりの光は一体どこからもたらされているのか。注意深くあたりを見渡すと、空気中にぼんやりと光る靄のようなものが浮かんでいることに気がついた。


「あの光は?」


 前に座るリリヤドールに尋ねると彼女は、


「む? ああ、明かりの魔法じゃ」


 と、事もなげに答えた。いいや、気丈に振る舞ってはいるが、その実、彼女がひどく不安がっていることは、すぐに見てとれた。俺は、彼女の震える小さな肩を抱き留めようと手綱から片手を離した。そうしてやれば幾分不安もましになるだろうか。けれど、結局そうすることはなかった。最終的に気持ちに応えられないのであれば、みだりに優しさを振りまくべきではないと思った。そういう優しさもあるのだと言い聞かせた。けれど、不安に震える身体を抱きしめてあげることのできない優しさなど……と、自己嫌悪した。


 まったくもって愚かな葛藤だった。行動原理はべき論で語られるべきではないというのに。

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