第19話 不思議な湖

「ふぅ……」


 翌朝、桶に張っておいた水で顔を洗い、支度を済ませるた俺は、隣のリリヤドールたちの部屋へ向かった。

 扉の前に立つ。少し躊躇し、戸を叩く手をぴたと止めた。すると扉はひとりでに開き、その向こうからトーヤが姿を現した。


「うわっ!? なんだヨアンか、驚かせるなよ」

「す、すまない」


 どうして謝っているのだと内心苛立ちながらトーヤを見る。いつものローブを羽織り、すでに身支度は整えられているように見えた。


「準備は?」

「ああ、終わってる。今そっちに行こうと思っていたところだ」

「そうか…………リリヤドールは?」


 トーヤ越しに部屋のなかを覗き込むが壁の陰に隠れて彼女の姿は見えない。ごそごそともの音が聞こえてくるので、そこにいることは間違いない。顔を合わせないことに安堵している自分に気がついて苛立ちは罪悪感に変わった。


「ああ、もうすぐ出てくると思うけど」


 トーヤが部屋のなかに振り向くと、壁の陰からリリヤドールがその小さな顔をひょこっと覗かせた。


「む、わしが最後かの?」


 それだけ言うとすぐ引っ込んで再びごそごそと支度を始めた。さっきまではなかった鼻歌が壁の向こうから聞こえてくる。俺とトーヤは思わず顔を見合わせた。


「今朝から妙に上機嫌なんだ。ヨアン、何かあったのか?」


 トーヤの小声にドキリと心臓が音を立てたような気がした。


「さ、さあ。リリヤドールは何も言ってないのか?」

「ああ。今にわかるから楽しみにしていろだって」


 身籠ってじょじょに大きくなっていくお腹を見て気づけば良いと?


「なあトーヤ」


 おのが妹に訝しげな視線を向けるトーヤに、俺は小声で尋ねた。


「エルフというのはくちづ……」

「え?」


 口づけで子を孕むのか? とはどうしても言い出せず、俺は口ごもってしまった。


「くちず?」

「いや、なんでもない」


 よく考えたら……いいや、よく考えずともわかること。いくら種族が違うといえども同じ人類なのだ。口づけで子ができるなどありえない。


「何を話しておる?」


 と、トーヤの後ろからあっけらかんとした声が聞こえた。見ると、昨日買い込んだ物資をぱんぱんに詰め込んだ肩掛け鞄を下げたリリヤドールが、きょとんと脳天気な顔をして首を傾げていた。こちらの気も知らないでと、俺は前へ出てきたリリヤドールの頬を思わずぐにとつねってしまった。


「むぐ?! 何をふる!」


 手を離し、俺は今日の予定を告げた。


「今日はこれからトーヤの希望でもあるニーザ湖へ立ち寄ってから王都ラミアンへ向かう」


 非道を働いた挙げ句、無視して話しを進めようとする俺を、信じられないといった面持ちで見つめるリリヤドール。そんな彼女にあくまで反応せず、俺は更に詳しい説明を続けた。


 ニーザ湖までは馬でおよそニ時間。魔力が強すぎるために湖には近づくことはできず、せいぜい湖面を遠目に見るくらいしかできない。魔力がなければ人は生きてはいけないが、濃すぎる魔力は逆に毒となるのだ。


「何百年も前の逸話で、伝説の魔道師が極大魔法を行使し、戦いを止めるために戦場となる予定だった平原に大穴を開けたのだとか。その時の極大魔法が土属性だったから、その魔法の魔力の残滓が滞留し、こうして原色地となっているらしい」

「原色地?」

「アーグ教では、こういう魔力の溜まっている場所をそう呼ぶのだ」

「原色……なるほどね」


 トーヤはなにやら感心した様子で頷いていた。エルフの間では”魔力溜まり”と呼ばれているらしい。

 ところで、魔力とひとくちに言ってもアーグ教では七つの属性があるとされている。すなわち雷、火、土、金属、生命、風、水である。それぞれの属性にはそれぞれを象徴する色がある。原色地とはその名の通り、単一の魔力が高濃度で溜まっている場所のことなのだ。



 予定通り馬を二時間走らせて湖を望む丘の上まで来た。


「ここまでだな」


 さきほどから身体を押されるような圧迫感を強く感じている。土属性の魔力の濃い証だ。これ以上進めば呼吸困難にでも陥りかねない。俺が、額に玉の汗を浮かべながら止まるように促すと、ふたりは事もなげに「なぜ?」と言い放った。

 見るにふたりにはまだまだ余裕がありそうで、やせ我慢をしている様子もない。エルフの”ヒトよりも豊富な魔力”が、原色地の魔力から身体を護っているのか。トーヤは「ちょっと行ってくる」とだけ言い残し、ひとりで丘を下っていった。馬ももうこれ以上進めそうにないので、当然徒歩だ。


「お前も平気なのだな」


 兄に取り残された妹――いや、取り残された俺のために自ら残ってくれたリリヤドールに尋ねた。


「そうじゃな。じゃが確かに魔力は濃いが、多少息苦しいくらいでそう大したこともなかろう?」


 リリヤドールがあまりにもあっさり言ってのけるものだから、まさか彼女らの故郷、エルフの里である”ニヤラ”もこうなのではないかと不安になってしまった。彼女に尋ねると、


「まさか。せりくしあの街よりも少し濃い程度で、今立っておるこの場所よりも薄いから安心せい」


 と、しっかりした否定が返ってきた。胸をなでおろしながらトーヤの帰りを待つこと三十分。湖から戻ってきたトーヤは、開口一番こう言った。


「ヨアン! ここの魔力溜まりは変だぞ! 多分だけど魔力溜まりの核となる結晶がないんじゃないか? それに魔力は湖からじゃなく湖底から溢れ出ているように感じる。きっと湖の底には表に出てきている何倍もの魔力が眠ってるんだ。ヒトはこれに気づいているのか?」


 一息に並べ立てるほど興奮しているようだ。


「さあ。俺は研究者ではないし、ここいらはシフォニ王国の領土だから、この国の研究者がどれほど研究を進めているのかは、イニピア出身の俺にはわからないな」


 それほど重大なことなのか? と尋ねてみると、なお興奮冷めやらぬ様子でトーヤは口を開いた。


「こういう湖が存在していること自体も不思議だけど、それ以上に土属性の魔力溜まりとしての在り方が信じられないよ」


 トーヤ曰く、原色地――魔力溜まりには必ず核となる魔力結晶が存在するらしい。その結晶自体も強力な魔力源なのだが、周囲の同属性の魔力を繋ぎ止める引力のような力を持っているのだとか。だから魔力溜まりの魔力は霧散せずに一箇所に滞留している。だが、ニーザ湖にはそれがない。湖に飛び込み、中心部を見てきたわけではないのにどうしてそう思ったのかと尋ねると、湖畔を少し歩いてみても魔力の濃度が変わらなかったからだとトーヤは答えた。魔力溜まりの中心がどこかはわからないが、彼が常に中心部と同じ距離を保って歩いたとは考えにくい。通常の魔力溜まりでは、中心部に近づけば近づくほど魔力が濃くなる。つまり魔力溜まりは、核から同心円状に広がるように形成される。だがニーザ湖は他の湖と同じように円ではなく歪な形をしている。そのどこも魔力の濃度が同じという事実は、中心部が存在しないと考える根拠に十分なものらしい。


「では大量の魔力はどこから?」

「これを」


 トーヤ差し出した手の平には、琥珀色の半透明の小石がいくつか転がっていた。


「魔石?」

「岸に落ちてたんだ」


 魔石とは魔力を多く含む石だ。純粋な魔力結晶とは違い、魔石は魔力を多く含む石でしかない。魔力量も魔力結晶とは比ぶべくもない。だが、トーヤはこの小さな魔石にニーザ湖の正体を見たらしい。


「もしかしたら、湖底いっぱいに魔石が敷き詰められているのかもしれない」


 塵も積もれば山となると、トーヤは言う。だが魔石が魔力を多く含むとはいえ、いったいどれほどの数を集めれば魔力溜まりを形成するほどの魔力量となるだろう。遠目に見える穏やかな湖面の底には想像を絶する量の魔石が眠っているに違いない。


「なるほど、だからトーヤは知っているのかと尋ねたのか」


 エルフで魔石がどういう使われ方をしているのか、俺はしらないけれど、言い方を鑑みるにエルフたちの間では魔石は重要なものらしい。そしてレギニアにおいても魔石はとても希少なものとして扱われている。具体的に言えば、魔石は魔法石の材料になるのだ。


 魔法石とは魔石に魔法陣を転写させたもので、従来の長ったらしい詠唱を省略し魔法を発動させることができる代物として多くの魔道師たちに求められてきた。それは弾丸に魔法を込められるようになるまで二百年以上にわたって続いた。今でも発動が簡単であるため護身用に携帯する魔道師も多いらしい。


 魔石自体は単に魔力の塊でしかないが、そこに転写する魔法次第では武器にも防壁にもなりえる。謂わばニーザ湖はその鉱山といえるだろう。とはいえ、魔力溜まりと化している以上、ヒトでは採取不可能である。取ってこれるのはトーヤが高濃度の魔力に耐えうるほどの魔力を持っているエルフだからだ。


「なあトーヤ。これ、もう少し拾ってこれるか?」


 魔石は高く売れる。然るべき場所に売れば十分な旅銀を得ることができるだろう。王都ラミアンでは庶民用の宿屋ではなく上流階級向けに建てられたホテルに宿泊するのも良いかもしれない。

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