38–2 チの果て、シジョーの時②

 昔話を読んでくれたみたいだねえ。

 ババアはいった。吸い殻を放り投げた。

「あんなもの、ただの伝聞だよ」

 綺麗事でまとめているけれど、実際はあんなもんじゃなかった。いまあんたの全身、脳髄の奥の奥から湧いてくる恐怖だの絶望、怒り、そんな月並みなものすべてをひっくるめた感情を超えたものを、わたしはあのとき味わった。まあ、あんたのそれとは質が違うか。誰の痛みも、他人が理解できるもんじゃない。

 ババアは硬直したままでいる浅田を横切った。

 妹はね、男と逃げていった。そして戻ってきた。ずいぶんたってからね。そしてわたしたちは、滝で暮らした。何百年と息を潜めてね。献身的だったよ。あの子は。なにせわたしはいろいろ封じられていたからねえ。ぜんぶあの子頼みだった。

 ババアは奥へ進む。祠を通り過ぎ、奥の岩に手を触れた。がらがらと簡単に崩れていく。

 浅田はその成り行きに耳を傾けることしかできなかった。

「あんたが死ぬ前に、見せてあげよう。ああ、背にしていたら見えないか」

 ババアはいった。だからといって、浅田の動きを戻すつもりはないらしい。

 崩れた先に、窪みがあった。人がいる。光がそこまで届かず、すべてを見ることはできない。薄暗闇のなか、佇んでいる人影。

「わたしはあるとき妹に訊ねた。なんであのとき、男とでていってしまったんだい、と。そうしたらね、この子はいったんだ」

 ババアの前に、女が俯いて座っている。血を流し続けている。その血は垂れ、滝の水に流され続けてきた。永遠に流され続ける血! 水の成分には、妹の血が含まれていた。

 ババアは久し振りに妹と対面した。かといって、妹に意識はない。妹の頭は半分ごっそりと欠けている。ババアがその手でかつて脳を潰したのだ。未来永劫生き続ける肉の塊。それが妹のいまだった。

 身体中に彫られた経は薄れ、力が弱まり、彼女自身の力を取り戻し始めたときのことだった。妹はいったのだ。

「おねえさまのものを欲しくなってしまったから」

 無邪気に。

 まるで共犯をほのめかすように。

 そう、妹と同様に、あのおとこを、わたしは愛してしまっていた。愛。なんという陳腐な概念だろうか。しかし生まれてしまったからには、それは実存した。ババアの身体で、歪に育った。

 妹の言葉を聞いたときの衝動は、ババアのなかにいまでもあった。あのとき、首を絞め、何度も刃で刺した。妹は生き続けた。心臓をえぐっても、体温は暖かいまま、だった。彼女たちにとって心臓など、ただの人に寄せた部品でしかなかった。そして、ババアは、妹の脳を奪った。何度も何度も妹を潰したというのに、どこか、口には笑みがある。いまでもそうだ。ただの出来損ないの肉人形と化したいまでも。

「もうここはおしまいだ」

 あのとき、まもなく終わることを悟った。あの女が、幸一郎の母が田島にやってきたときだ。女の腹に、懐かしいおとこを視た。そう、妹とおとこの末裔の血がついにここまでたどり着いたのだ。

 昔話の嘘は、妹の産んだ子供は全員死んだ、ということだった。おとこが気味悪がりどこかへ棄てたのだろう。子供は生きていた。そして、自分の不遇を呪い続けながら、子孫へ血を繋げてきたのだった。

 ババアはわかっていたというのに、幸一郎を殺そうとしなかった。秋幸からこの子供を離すことはできなかった。いずれ幸一郎がこの田島の主人となり、滅ぼすであろうということも、肌で感じていた。

 皮肉すぎて笑える。

 ババアは意志のない妹の腕を手に取り、雑に引っ張った。当たり前だが妹はなすがままだ。妹を引きずりながら、滝までいき、躊躇なく投げ捨てた。妹は沈んでいった。底にとどまることも、海まで流れていくことも、自由だ。ババアは妹を興味の外へ押しやった。乱暴な別れを振る舞うことで、くだらない感傷を食い止めようとしていた。さよならすら、いわなかった。なにに別れを告げるというのか。愛かもしれない。はっ!

「さてと、断捨離は終わった」

 ババアはいった。

 ものを捨てるこつはね、ときめくものとときめかないものを仕分けることらしい。わたしは一番ときめくものをいま、捨てた。ババアは振り向く。

「あんたはときめかないねえ」

 ババアはいった。

 さて、どう死にたい?

「……ふ……ざ……け」

 浅田は脂汗を流しながら、声を出そうとしていた。水浸しの衣服に汗が沁み、そして吸収しきれず垂れていく。身体中がぶるぶると震え、いま自分の周囲にかけられている、己を縛っているなにかを解除しようとしていた。

「おやおや、すごいねえ。ほんとうに人間を超えようとしているみたいだ」

 あんたらにとって、進化は希望なんだろうがね、わたしらにとって、進化とは……。

「人間に成り下がることさ」

 まあ、死ねない限り、人間にはなれないんだけどね。修行が足りないねえ、あと何千年かかるんだか。

 浅田が震えながら、手を伸ばそうとした。一言いえば、こいつを倒すことができる!

「おお、すごいすごい」

 ババアはほくそ笑む。

「かわりにあんたがいいたい言葉をいってやるよ。かわいくできるかねえ」

 水浸しじゃないか。気づかず悪かったねえ。

「だっちゅーの♡」

 浅田の頭が時計回りに、そして足が逆に動く。浅田は倒れこむ。骨が軋み、折れる音がする。まるで雑巾を絞ったようなかたちとなる。皮膚は避け、全身から血が吹き出した。その有様は想像を絶するものだった。声にならない叫びをあげ続け、浅田の身体からすべての水分が絞られた。

「これだけきつく絞っても、収納する場所はないからね、捨てちまうしかないね」

 ババアはその浅田のグロテスクな死に様を見ながら、タバコに火をつけた。

 ババアの脳髄の奥から、犬の鳴き声がした。

 はじまった。

 幸一郎さん、あんたがどう喧嘩の始末をつけるのか、楽しみにしているよ。わたしはここから出ていく。つまり……。

 

 咲子、あんたを可愛がったのは、贖罪みたいなもんかね。自分勝手で、すまなかった。せめて、長生きしな。そんなくだらない思いなど、伝わらなくて構わなかった。

 姉の子孫たちと妹の子孫、最後に生き残るのは、果たして?


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