10–2 おブンガク②

 ゴギョウはホトが置きっぱなしにしていたアイフォンを雑に放った。古い機種だったのでパスコードも必要なかった。膨大なメモのなかからひとつ読んでみた。なにが面白いんだかさっぱりわからなかった。

 ゴギョウは部屋からもってきた文庫本をひらいた。隣の芦田さんから借りたものだ。芦田さんとは気が合う。このあたりの連中は本なんて読まない。小説の話題ができるのは芦田さんだけだ。ナボコフの文体に没頭することができず、すぐにページを閉じた。

 眉間をマッサージした。イライラは収まりそうもなかった。

 ゴギョウはとくに苦労せずともなんでもできるほうだった。両親は二人とも教師だった。厳しく躾けられたが、それをストレスと感じはしなかった。むしろ、両親は自分を正しい道へと誘導してくれていると思っていた。難なく一流大学をエスカレーター式に進学していった。成績も、いつだって上位だった。「一番になれ」とは両親はいわなかった。ナンバーワンになんてならなくてもいい、オンリーワンになれ。流行った歌みたいなことをよくいった。性体験も早々と済ませた(自分で処理する前に塾講師と関係を持てたのはゴギョウにとって密かな自慢である)。スポーツも中高と剣道部に所属していた。身体能力は悪くない。それに、わりと顔もいい。たまに同級生に紹介されるオナショーやオナチューだったという女の子たちも、ゴギョウに好意を寄せてくれた。

 大学に進学したとき、ゴギョウにはひとつ目標があった。在学中に、小説新人賞を受賞することである。あわよくばアクタガワショーかミシマユキオショーも獲れたらいい。ゴギョウは読書家だった。仲間たちと遊びながらも、自分の時間をきちんと持ち、名作から話題作まで読みふけっていた。

 大学生で、わりかし顔もよくスポーツマン、成績も優秀。こんな自分が文学賞を獲ったら、それは話題になるであろう。実際、ゴギョウは文章もわりとうまかった。読書感想文が学報に紹介されたこともある。国語教師に「センスがある」といわれたこともある。

 一作目を書き上げて送った。半年後に最終選考に残ったと連絡がきた。

 まあ、そうなることはわかっていた。選考会当日、ゴギョウは近所のバーで酒を飲んでいた。

「選考会のことをすっかり忘れ、馴染みの気の置けない店で酒を飲んでいたら、受賞の連絡がきた」

 と余裕をもって、スカして皆に話すために。

 きたのは落選の知らせだった。要件を伝えるとすぐに電話は切られた。受賞作が発表された文芸誌をゴギョウは朝一番で購入した。選評で、ある作家が、ゴギョウの書いた小説のことを一言、「からっぽ」と評していた。受賞したのは白黒写真のせいだけでなく、陰気そうでデブの、同い年の三流大学生だった。

 それから、何度書いて送っても予選に通らない。就職試験にも失敗した。

「からっぽ」

 ゴギョウはその言葉のグラスを満たそうと躍起になったが、いつまでたっても水は注がれない。つまり、グラスの意味すら与えられることがない。意味のない道具は、使われることを待ちながら、埃をかぶっていく。


 車が停まる音がした。

 帰ってきた。ゴギョウは目をつむった。車は走り去っていった。

 ドアの音、足音、そして、このリビングにやってきた。

「打ち合わせどうだった」

 ゴギョウはいった。返事はなかった。ゴギョウは目をあけた。

「ここで話してたの、聞いてた。ナズナがしゃべったわけじゃない。あーいうのが出版社の編集なんだな。なんかどんくさそうだったけどね。うさんくせーし」

 口からでるのは情けない言葉ばかりだった。認めたくない。

「本物だった」

 ホトの声は興奮を隠しきれていない。

「へえ」

「ドリアもピザもパスタもおごってもらった」

「ふーん」

「しかもドリンクバーも」

 返事をせず、ゴギョウは目の前に置かれた文庫本を手にした。

「お前、ナボコフ読んだことあるか」

「ないけど」

 返事は分かっていたし、どうでもいい。

「ガルシア=マルケスは? ピンチョンは?」

「なにそれ、有名人?」

「これだから」

 ゴギョウはせせら笑った。悲しい笑いだった。ディフェンスのための、虚勢のための演技。ホトはなにもいわなかった。

「お前みたいな、もの知らないやつの書きなぐったもんが本になるとか、紙がかわいそうだな。あのずんぐりむっくりしたとぼけたツラの編集はさ、お前を騙してんじゃねえのか。プロだったらまず、てにをはダメ出しするもんだろ」

 いえばいうほど、自分がみじめになっていく。

「お前、自分が大したやつだとか思ってんじゃねーだろうな、忠告しとくけど、んなわけねえから。まじでふざけんなよ」

「ゴギョウくん、小説家になりたかったんだよね。たくさん本読んでるし」

 ホトがいった。

 ゴギョウは振り向き、ホトを睨みつけた。

「はあ。なんだよっ詮索かよ、きみーな」

「ゴギョウくんのノート、前に見たよ。書いてあることよくわかんなかったけど。観念とかポストモダンとかマジックリアなんとかだっけ」

 ゴギョウは黙ってしまった。恥ずかしさと憎悪。

「なにもかもうまくいかなくって、うまくいかないってこともうまく伝えられなくって。助けてっていってもどう助けてもらいたいのかもすらわからないから。自分のことをゲームに置き換えて考えてみようって。そうしたら、自分だったはずなのに、自分がつらいっていいたかったのに、書いているうちに自分じゃなくなって動き出して、うまくいえないけど」

「はいはい、作家誕生おめでとう」

 自動書記でもしてるつもりか、てめーはクリモトカオル気取りか。だったら『グイン・サーガ』書いてみろや。

「ゴギョウくんの書いた小説、森村さんに渡すけど」

 時が止まった。つばを呑み込む音がはっきりと聞こえた。自分はいままるで、餌をチラつかせられた飢えた野良犬みたいじゃないか。こんな自分より格下の人間に!

「森村さん、ファンタジー小説の出版だけど、大学で、あれ、あれ、自殺した人、小説家」

「自殺した小説家なんて腐るほどいるわ」

「あれ、なんだっけ、自分でカップクした」

「三島由紀夫」

「それ、それの研究してたっていってたし。いずれは純文学の本を出したいって」

「……へえ」

「また近いうちに、打ち合わせにきてくれるっていってたから」

 ゴギョウはなにもいえなかった。そして、沈黙とはなんて雄弁なんだろう、と肌で理解した。いま自分の混乱と妬みが、完璧な形でホトに伝わっている。なぜなら、いまこいつは顔に蔑んだ微笑みを浮かべている。

「じゃ、おやすみ」

 ホトはテーブルのアイフォンを手に取り、男部屋へ去っていった。

 しばらく、ゴギョウは固まったままだった。そして、文庫本を床に叩きつけた。



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