41−1 メタモルフォーゼ(犬たちは荒野をめざす)①

 幸次は犬に食われながら、あのときのことを思い出していた。

 早紀と初めて寝たときのことだ。

 あのときの早紀の肌の滑らかさに震えたこと。そして、奥底で、誰よりも先にこの女を手に入れたこと、セックスをしたこと、すべてが官能に向かって昇華し、想像以上に早く、射精したこと。ああ、なんと短い時間だったろうか。永遠に続くことなどないことを、人は快楽の果てに悟る。放出さえしてしまえば、目の前にいた女は途端にどうでもいい存在になる。まるで、あれだけ欲しがって、ねだって手に入れたおもちゃが、自分のものなってしまった途端、輝きを失うように。

 そうだ。あの後、俺は幸一郎の部屋で漫画を読んだ。何度も読んだ『火の鳥』をわざわざ。宇宙船に乗っている連中がみんな死んで、たしか乗組員の一人がどんどん子供になっていくやつだ。幸一郎は居間で『めちゃイケ』を観たいといったのに、俺は引き止めた。あのとき、俺は数時間前に自分がしたことを、いいたくていいたくてしかたがなかった。もちろんあのとき、いわなかった。この腹違い(と思っていた)の兄弟であり、親友に、こういってやりたかった。

「お前の好きな女とやった」

 もしいったなら、どんな顔をするだろうか。想像するたびに楽しくなった。漫画の内容は頭にはいってこなかった。俺はベッドに寝転んで読んでいた。布団は少し湿っていた。そばにあったゴミ箱のなかに、丸まったティッシュが入っていた。そういう、いかにもなやつを幸一郎の部屋で発見するたび、嬉しくてたまらなかった。幸一郎は机に向かって書き物をしていた。

 なにやってんだよ、と背後から覗き込もうとすると、幸一郎は慌てて書いていたノートを隠した。いいじゃん、見せろよ、などとノートを引っ張りあった。そのノートには、小さい字でびっしりと、『誠実と勤勉』と書かれていた。

「なんだよこれ」

「これ書いていると落ち着く」

 幸一郎はノートを奪った。居心地が悪くなり、幸次は部屋を出た。幸一郎も続いた。幸三が居間でテレビを見ていた。

「幸ちゃんの好きな『爆裂お父さん』やってるよ」

 と幸三が呼んだ。


 なんでそんなことを思い出したんだろう。

 な、ん、で、そ、ん、な、こ、と、を、

 幸次が人間であった最後の瞬間、そんなことを、思っていた。


 幸一郎の目の前で、幸三が犬となり、そして幸次もまた犬と化していった。身体が膨らみ、毛が生え、幸三に噛みつく。犬は威嚇しあい、牽制し、そして襲いかかる。お互いを噛み合う。血を吹きながらも、決して止まろうとしない。始まってしまった運動を止めることはできない!

 幸一郎はそのさまを唖然として眺めていた。自分よりふた回りも大きな犬二匹が噛み合っている。こんなことってあるのか。この犬たちは、幸次と幸三なのだ。

 幸一郎は、へたりこんだ。

 そのとき、能天気な音楽が小さく聴こえてきた。

 早紀の口から、なぜか、音楽が流れ出す。幸一郎は驚いて退き、そして、おそるおそる早紀に近づく。音楽は流れ続けている。

『恋するフォーチュンクッキー』

 ラジカセになってしまったのか。そんなことを思ってしまうほどに、なぜか、早紀の口から小さく、CDと同じ音が、流れ出す。

「早紀」

 幸一郎は早紀を揺さぶる。音楽は乱れなく、流れ続ける。幸一郎は、どうにかなりそうだった。あまりの混乱に、退行しそうになっていた。妻の口から能天気な音楽が流れてくるのだ。早紀がゆっくりと、目を開く。

「早紀!」

 幸一郎は再び妻を呼ぶ。

「わたしは、お父さんじゃないから、この歌、そんなに、好きじゃない」

 ゆっくりと、早紀が呟く。

「早紀……、早紀……」

 目を覚ました早紀に、幸一郎はすがりつく。離したくない。この女を、もう離したくない。

「だいじょうぶよ、わたしは、だいじょうぶ」

 早紀はいった。

「わたし、さっき、お父さんに会ったよ、そして、お父さんになった」

「うん」

 幸一郎は訳がわからなかった。でも、頷いた。

「わたし、お父さんに、抱かれた」

 幸一郎は息を呑む。

「いや、ちがうな、お父さんを抱いた?」

 わかんないな、でも、そうだった。わたしが、お父さんになったとき、いろいろなものを、見た。めちゃくちゃで、どろどろで、なにもかもが全部ごっちゃになってて、ひとりの人のなかにあるものを、全部、見た。奥にね、子供がいた。あなたに似てた。泣いていた。生まれたくないって。おとこにも、おんなにもなりたくないって。おとなになりたくないって。誰かに優しくして欲しいって。人を傷つけるのも憎まれるのももういやだって。わたしは、その子を抱きしめてやろうと思った。触らないでって、その子はいった。触られてしまったら、もう、あなたはあなたじゃなくて、僕になるからって、泣いた。そんなの構わない、ってわたしは、いった。わたしは、目の前で泣いている子供を抱きしめないような、そんなことはしないって。わたしね、その子を抱きしめてあげた。すごく冷たくて、ぴりぴり痛くなって、離してしまいそうになって、でも我慢して、そして、歌を歌おうって、いった。秋幸さん、好きだったでしょ、あの一位になった女の子、テレビで観るたび、嬉しそうにしてたでしょ。そうしたら、音楽が聴こえてきて。

「子供が溶けちゃった」

 二人は見つめあった。

「わたし、あの歌が一番好きよ」

 あのとき、三人が歌ってくれた、あの歌。

「俺、うまくいつもいえなくて、お前のこと」

 早紀が首を振り、幸一郎の言葉を止めた。

「知ってる。大丈夫。大丈夫よ。それよりも、歌ってよ、今度は最後まで」

「さ」

 血に塗れた犬が幸一郎の頭に食らいついた。

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