40 大乱闘! タジマブラザーズ!

『誠実と勤勉』と書かれた書道作品が、教室の後ろの壁に飾られている。田島秋幸が一つづつじっくりと眺めていた。秋幸の後ろに幸一郎は立っていた。小学六年生の頃だ。その日は親子参観日だった。授業が終わり、生徒たちはさっさと帰っていった。幸一郎も、幸次たちと一緒に出て行こうとした。秋幸に呼び止められた。幸一郎は秋幸がなにかいうのを待っているかたちになった。父兄はそれぞれ、話し合っている。秋幸には近寄らないようにしているらしく、二人のまわりはぽっかりとあいていた。幸次の母は失踪しており、父親はやってこなかった。幸三の母は、田島の仕事のため、欠席だった。

「性格があらわれているな」

 秋幸が口をひらいた。幸一郎は黙っていた。

「幸三の筆はひとつひとつが丁寧だ。まるで教科書の通りにしないといけないとでも思っているみたいに神経質だな」

 たしかにそうだった。幸三の書いた『誠実と勤勉』は、どこか人を寄せ付けない。人工的にすら思える。ノートに書く字もいつも丁寧だ。秋幸は移動した。

「幸次くんは一見豪快だけれど、ハネが甘い。弱さがある。繊細さを嫌っている。乱暴に見せかけて、優しさを隠している」

 なるほど、と幸一郎は思い、頷いてしまった。文字だけで、こんなに人というものは理解できるのだろうか。不思議だった。そして、幸一郎は、びくびくしだした。では、自分のことを、父はなんと評するのだろうか?

 秋幸は幸一郎の作品の前に立った。そして、しばらくずっと眺めていた。いったい父はどんな顔をしているのだろうと、幸一郎は覗き込む。顔から、なにも読み取れない。無心、のようにも呆けているようにも見えた。担任が、ではみなさん、お子さんの席にお座りください、と教壇から声をかけた。父兄が移動する。しかし秋幸は動こうとしない。担任は秋幸に声をかけられないらしい。そのまま会議めいたものが始まった。幸一郎は自分が場違いな場所にいるのが辛く、秋幸の袖をひっぱった。気づいた秋幸が、幸一郎の手を握った。幸一郎は驚いた。力が強く、離してくれない。

「お父さん」

 幸一郎はいった。

「お父さん」

 ぼくの字は、とは聞けなかった。秋幸は幸一郎の声に気づいたらしい。幸一郎を見た。

「この字が一番好きだ」

 といった。


 なぜそんなことを思い出したのか、走りながら幸一郎の脳裏に、さまざまな、忘れていたことが思い出される。

 草原に入っても、スピードを緩めなかった。なにもなかった。あてがなくとも、走った。ババアがいったからではない。確信していた。先にかならず、早紀がいる。これからどうするつもりかもわからない。早紀と一緒に、ここから逃げ出すのか。それとも、ただ、ふたりで、老いるまで、死に至るまで暮らし続けるのか。ただ、これだけはわかっていた。

 早紀さえいればいい。

 この異常事態のなか、早紀だけは守らなくてはならない。幸次のことを思う。幸次を逃がすためにはどうしたらよいのか。幸三のことも考えた。あいつを縛り付けていたのかもしれない。走る。転びそうになりながら、立ち止まりたかった、休みたかったけれれど、走り続けた。早紀を見つけるまで、決して立ち止まってはいけない。

 幸一郎がたどり着いたのは、地獄だった。

 離れたところで、幸次が、馬乗りになって、誰かを殴っている。おい、幸次、やめろ……と駆けこんで止めようとしたとき、人が倒れていた。早紀だった。早紀の喪服ははだけていた。腿どころか、股も露出しており、襦袢も乱暴にひらかれている。

「早紀……早紀!」

 なんてことだ。なんてことだ!息はある。早紀は気を失っているらしい。

「幸次!」

 幸一郎は叫んだ。幸次にだけでない。すべてに向かって、怒鳴った。

 幸次は、拳を振るうのを止め、幸一郎を見た。お互い睨み合うかたちになった。

「お前がやったのか……」

 幸一郎が立ち上がる。俺の女房を! こんなことに!

「違う……そうじゃない」

 幸次もまた、立ち上がる。さっきまでの顔とうって変わり、泣き顔になる。まるで雑な福笑いみたいに顔を歪めている。

「幸三が、こいつが、早紀を犯そうとしていたんだ、だから……」

 なんて顔をしているんだ。幸一郎は幸次の顔を見てはいられなかった。

「早紀、早紀……」

 幸次が近づいてくる。そして跪き、早紀に抱きつく。

「早紀、早紀、早紀」

 幸一郎は幸次を早紀から引き剥がした。仰向けに倒れながら、幸次は泣いていた。幸一郎は、幸三に近づく。幸三の顔は腫れ上がり、もとの面影はなくなっている。

「なんでこんなことを……」

 幸一郎の怒りは、どこにも向かえなかった。なんてことだ。なんてことだ。幸三は、死んでいた。田島のほんとうの跡取り。頰に触れた。冷たい。涙を流すことができなかった。背後で幸次の鳴き声が聞こえる。なんで自分は泣けないのだろう。

 こんな終わり方、おかしいじゃないか。全部、おかしい。幸三を抱き寄せた。幸三の首のあたりに触れていた皮膚が、ちくりとした。幸三を離す。幸三の目が見開かれている。

「幸三?」

 幸三の肌から、毛が生え出す。口が開かれ、両端から、牙がせりだしてくる。

「幸三?」

 幸三の身体が、巨大化しだす。服が裂け、そして、耕三は、巨大な犬となった。犬の口が開く。幸一郎は獣の臭いを嗅ぐ。

 犬が、雄叫びをあげた。そして、幸次に向かって、飛びかかった。幸次はなすがまま、だった、幸次を、まるで食らっているように見えた。

「幸三……、幸三?」

 早紀の肌にまで、血が飛んだ。

「やめろ!」

 幸一郎が叫んでも、その陵辱は止まらない。

 しかし。

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