28 さよなら(二度目)
早紀は喪服のまま、歩いていた。まるでこれが、自分の制服のように感じられた。いまの自分に一番似合っているように思えた。なにひとつ、田島の家から持ってこなかった。ほんとうは、服すらも捨ててしまいたかった。街についたら、どんな服を買おうかと考えた。自分に、いまの格好よりも似合うものなどあるのだろうか。じき馴染んでいくのだろうか。
草原までやってきた。ここも見納めだ。ここから去るのは二度目だった。だからもう、つまらない感傷など持たないでいたかった。
暗い野原で、なにかが光った。蛍みたいだった。滝のあたりならともかく、こんなところで珍しい。光は奇妙な動きをした。それをじっと見ていると、奇妙なイリュージョンが浮かび上がった。
「ねえ、なにしてるのよ」
早紀の前に、早紀がいた。それは両親が生きていた頃の、幸せな少女時代の頃だった。
「練習だよ」
声がした。学生服を着た、幸一郎だった。手にマイクを持っている。
「へー、見てていい?」
早紀はいった。少女らしい媚びた物言いに、見ている早紀は苦笑した。
「ダメダメ」
「ケチぃ」
「まあ本番楽しみにしとけって」
幸次がいつのまにかいた。学生服姿だ。
「早紀ちゃんくるの?」
幸三があらわれた。彼もまた、そうだった。
「そりゃ行くよ。回覧板回ってきたもん」
田島幸一郎くんと他二名がのど自慢に出場決定! 村ではバスをチャーターして、皆で応援に出かける予定です、って。
あの頃のことがなんで、目の前で起こっているんだ。早紀は鼻をすすった。これは誰が見せているんだ。わたしなんだろうか。わたしはいまもまだ迷っているのか。そうでなくちゃ、こんな。
「あのさ、なんつーか、俺ら本気だから」
幸一郎はあまり早紀とちゃんと目を合わせようとしない。
「え、わかんないんだけど」
早紀はなんとなくわかっている。でも、絶対に、いってやらない。
「だから、まー、あれだ」
幸一郎を小突きながら、幸次がいった。
「早紀の誕生日プレゼントとして歌うんで」
幸一郎が、小声でいった。
「ええ?」
「つまり、本番お前の誕生日だろが」
幸次がフォローした。
「ああ、うん」
「だから頑張ってこう歌い切るっていうか」
幸三はにやにやしている。幸一郎の態度がおかしくてたまらないのだ。
「誕生日プレゼント感覚としてだな」
幸一郎がいった。
「いや、他にもあるけどさ、プレゼントは」
幸次が続ける。
「あ、いうんだそれ」
幸三が幸次の尻を叩いた。
「まあ期待しといて」
幸一郎はそういって、さっさと駆けていった。残りの二人も大騒ぎしながら、追いかけていった。
風が吹いた。
もう現実しかここにはなかった。早紀はやはり、いまの早紀でしかなかった。悲しくはなかったが、虚しかった。
わたしはあのとき、誰が好きなのかわからなかった。
幸次くんとは、高校のとき、寝た。
幸一郎のいないところで、幸次は、わたしを口説きつづけていた。
興味本位で、した
そして、秘密にしよう、といわれた。
みんながびっくりするし、幸一郎や三ちゃんを悲しませたくない、といわれた。
わたしは賛成した。
幸次くんとは一度きりだった。
つまり、幸次は、幸一郎の欲しいものを先に手に入れたかっただけだった。
あとはもうお払い箱だったのだろう。
なんとなく気まずい時期もあったけれど、乗り越えた。
彼らとの関係を失いたくなかった。
三ちゃんとは、幸一郎と結婚してから、何度もした。
幸一郎とどうしてもうまくできなくて、わたしのせいかな、と思って、わたしは家族がいないから、幸一郎くんが救いを差し伸べてくれただけなのかな、と思って、自暴自棄になって、誘った。
三ちゃんは、幸一郎が触ったわたし、に興奮していた。
つまり、彼らの世界は幸一郎を中心にまわっていた。
幸一郎は、いつのまにか、わたしに触れようともしなくなった。
わたしは、彼らにとってのけものだった。
なにもかも、のけものだった。
女であることを楽しむべき時代に、彼女に幸福を与える者はいなかった。
男たちは無能だった。
田島秋幸は優しかった。早紀は義父に悪い印象を持ったことはない。二人きりになると、いつも「ありがとう」といってくれた。だから、今日まであの家に、そしてあの男たちに付き合ってきたのかもしれない。そんなふうにも思える。
「さようなら」
すべてに向けて、早紀はいう。しばらくただ、景色を見ていた。時折犬の鳴き声がした。野良犬だろうか。この草原のなかに、入ってはいけない、とババアがいっていたことを思い出した。
「このなかは、果てがない。大海原と一緒だ。一度入っちまったら、戻れなくなるかもしれない。だから、果てが見えているところまでだ」
一瞬、入ってみたい衝動に駆られた。ババアのいうことが本当ならば、滝から落ちるより、簡単ではないだろうか。
「早紀ちゃん!」
声がした。
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