25 ひとはシぬ
前田の家に、深町と咲子が辿り着いたとき、扉は開け放たれていた。ついさっき、前田の家に深町は寄ったばかりだった。明かりはついているものの、チャイムに応答はなかった。ドアの隙間に「田島のお札をちゃんとつけてください」と置き手紙を挟んでいた。手紙はなくなっていた。
「幸次! 前田!」
深町は玄関口で叫ぶ。意を決してなかに入ろうとしたとき、奥から人がでてきた。
「ババア?」
咲子は唖然とした。
「なにしにきた」
初めて見る険しさだ。
「なにしにって……」
「まあいい、ショック死起こさないでよ、面倒だから」
ババアが家に招き入れる。腐った匂いが充満している。他人の家の匂い、とだけでは形容しがたい。それは、咲子たちが嗅いだこともない匂いだった。空気が濁っている。
「前田は無事か」
額を手で抑えながら深町がいった。
「本当に知りたいなら、自分の目で見て確認しな」
深町は階段を登る。そうだ、前田が学校へ通学できていたとき、ゲームをしに家にあがったことがある。前田の部屋にはテレビがあり、スーファミもプレステもゲームキューブも、ドリームキャストだってあった! 『シェンムー』をプレイしたくて頼み込み、数日間通ったことがある。前田は母親と二人暮らしだった。前田の母はいつもケーキを出してくれた。カルピスだって、実家で出されるものよりずっと濃かった
躊躇してはいけない。部屋のドアをあけた。部屋は昔と同じだった。ベッドと机の位置が同じで懐かしかった。だが、そんな感慨に耽ることはできなかった。前田が机に突っ伏していた。床にはディスクが散らばっている。机に置かれたラジオセットは血塗れだった。靴下が湿った。きっと、前田の血だ。なにいえなかった。なんの言葉も湧いてこなかった。
これを、幸次がしたのか?
幸次は、かっとなると正気を失う。衝動に抗えないタイプではある。危なっかしい。しかし、だからといってこれは……。
階下から悲鳴が聞こえた。
慌てて下に降りると、咲子がババアに抱きついている。
「なんだよこれ」
台所に、死体があった。顔と腹を何度も何度も刺したのだろう。この死んでしまった者がいったい誰なのか、見る影もない。
「あのバカ……」
ババアは咲子を抱きしめながらいった。
「深町、あんた正気だね?」
「ああ」
「本当に正気だね?」
気が狂っちまえれば、どんだけ楽なことか! この家の匂いと淀みの正体は、この二体の死骸ということか。深町はまったく事態が飲み込めない。幸次が二人とも?
「違うよ。母親は前田がやった」
ババアがいった。
「なんで」
俺の考えてることがわかるんだ?
「ああ、わたしのほうが少々正気じゃなかった。それはまだしゃべってなかったんだね」
ババアが咲子を深町に預けた。
「どうやら前田がやったらしい。口論でもしたんだね。トーキョーにいくだのなんだの。母さんのほうは止めた。自分を捨てるのかなんとかっていったんだろう。引きこもりを養っているように見えて、その餓鬼に依存していたってわけだ。くだらない。まあ、十年以上同じことを続けていたら、解決なんてもうしなくていいって結論に達していたんだろうね。上を見ただろ。幸次は刃物なんて姑息なものは使わない」
なんでそんな細かいことを知ってるんだ? 深町はただ黙ってババアの話を聞くだけだった。前田の母親はいつだって優しかった。そんなこと……。
「ていうか、気配がまだあるよ」
ババアには見えていた。二人とも、自分が死んだことに気付いていない。いま前田の母は台所で料理の支度をしている。今日もいつもと同じように、息子の好きなものを作ってやろうとしているのだろう。自分の亡骸を「見て見ぬふり」している。
前田の気配もまだある。前田はここから出ていくために準備をしている。結局、前田がなにをしたかったのか。ラジオのディスクジョッキーになろうとでもしたんだろう。前田の変化のきっかけはなんだったのか。秋幸の死、そして……さっきからこの部屋に微かに残っている香りがある。深町たちは気づかないらしい。人間ならば当たり前か。エルメス。千絵がいたらしい。
「でも二人とも、死んだことを理解できずにきょとんとしてる。そして、自分の体のことを無視して、なにもなかったようにこの家で暮らしている」
ババアは二人に、いった。なんの慰めにもならないだろうが。
「ちょっと……怖いこといわないでよ……」
咲子が深町の胸に顔を押し付けながら、呻くようにいった。
「電話しなくちゃ……。警察に……」
深町はいった。
「両さん?」
咲子がいう。
「そうだね」
ババアは頷く。村の駐在。あいつはまずい。能無しで愛嬌だけが取り柄の男。だが、つまらない人間は、緊急時、最も愚かなことをする。今問題なのは、目の前の死、だけではない。
しばらく誰もそこから動くことができなかった。
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