其之六 遅すぎた勝利

 会稽山かいけいざん周昕しゅうきんが予想した通り、許昭きょしょう許生きょせいの妖術にとって要の地であった。

 多雨と残暑が続く気候が霧の発生を助長して、すっぽりと山を包み込んでいる。

 その霧は白く霞むのではなく、黒く淀んでいる。特に山頂付近は不気味な黒い霧がドーナツ状に覆っていて、その中央に黒と朱色の道着に身を包んだ妖術の元凶親子がいた。

「何だ?」

 不穏な空気と異変に気付いたのは、せ細った白髪の老人。この反乱の首謀者・許生。

「官軍が突入してきやした! 祠を次々に倒して突破してきていやす!」

「防ぐのじゃ!」

 しゃがれた声で厳命した許生は脳裏に山陰包囲を破った若武者を思い出していた。

 あの男は普通の人間なら恐れ縮こまる邪祠じゃしの妖術の中をまっすぐに立ち向かってきた。畏怖いふする様子は微塵も見せず、その若武者の強さに率いられるように官軍が押し寄せた。許生はその圧力に押されて、あっさりと山陰の包囲を諦め、会稽山に退いたのであった。

「もしや、あやつか?」

 許生の思考が再びその無名の若武者の勢いに押された。動悸どうきが高まり、胸が苦しくなる。湧き上がる不安に駆られて、かたわらで念じる息子を見やった。

 その息子の手には宝物がある。それが呪術師としてはまだ半人前の息子の能力を補って余りある巨大な力を与えている。

「親父、もう限界だ。休ませてくれ」

 許昭が疲弊した声で術の一時中断を訴えた。まだ半人前と言われる証だ。豪気ではあるが、呪術には欠かせない集中力が持続しない。許昭が官軍に渡河をあっさり許してしまったのも、火の鳥を発現させ、銭唐嘯せんとうしょうを発生させる時を逸したのも、油断に起因する集中力の欠如が大きな原因だった。

「たわけ、官軍がそこまで来ておるのじゃぞ!」

「官軍は火の鳥に十分肝を冷やしたはずだぜ。突入してきた奴らは親父の術と俺たちの兵で蹴散らせばいい」

「そんなことでは……!」

 長年の研鑽けんさんの末に手に入れた呪術をいとも簡単に破られる恐怖が、今まさに自分の老骨を忍び上がってくるのを認めたくなかった。

「貸せ、わしがやる!」

 息子が手にしていた銅鏡を奪い取ろうとして、骨と皮だけの腕を伸ばしたが、

「もう親父には無理だろ」

 許昭はその銅鏡を素直に渡そうとはしない。父の体を気遣ってのことか、自分の力の元を奪われるのを嫌ったためか。肝心な時に親子の確執がほころびを生む。

「つべこべ言わずによこせ!」

 強引に許生は銅鏡を奪い取った。妖術こそあるものの、許生は所詮しょせんシャーマンである。用兵に関しては素人、自ら剣を振るって敵を打ち倒した経験もない。つまり、勇敢さという要素が欠けていた。

『これさえあれば、三度みたび再起できよう。新たな術を身につければよいのじゃ』

 手に取った銅鏡を見て、許生が思わず思ってしまったことだ。戦場におけるその弱気が敵に付け入る隙を与える。そして、それが敗北を呼んだ。

 ぎゃっという悲鳴とともに、斬り倒された賊徒が黒霧のカーテンの向こうから転がり出て、続いて許生が恐れた若武者が現れた。孫堅そんけん文台ぶんだい

 反乱の首謀者を斬ることしか頭になかった孫堅は賊徒を斬り伏せながら、兵の先頭に立って、ひたすら山頂を目指したのだ。

「お前が許生か!」

 剣先を挙動不審な男に向け、鋭い気迫で詰問した。息が詰まるほどに驚いた許生は動悸が一段と激しくなって、手にした銅鏡を地に落としてしまった。


 今からおよそ六百数十年前の春秋時代。呉越の抗争で、呉王・闔閭こうりょは越に敗れて死んだ。闔閭は死の間際に子の夫差ふさかたきを取るように言い残し、夫差もそれを約束した。

 王位を継承した夫差は伍子胥ごししょの補佐を受けて国を建て直し、ついに越王・勾践こうせんを会稽山に敗走させた。追い詰められた勾践は参謀の范蠡はんれいにどうすべきかを問うた。

 范蠡は恥を忍んで降伏し、後の勝利に繋げるように進言した。夫差を補佐していた伍子胥は勾践の降伏受け入れに猛反対したが、結局は勾践が全ての宝を譲り、夫差の臣下となるという条件で命を繋いだ。この故事が〝会稽の恥〟である。

 以降数年間、勾践は召使いのような扱いを耐え忍び、後年ようやく越に戻ることができた。帰国した勾践は部屋にきもるして日々その苦汁をめて過ごし、屈辱を忘れないようにした。そして十年後、油断した夫差を破って雪辱せつじょくを果たすのである。

『史記』には、この〝嘗胆しょうたん〟の記述があるが、たきぎの上に寝て痛みを体に刻み付け、復讐ふくしゅうを誓う〝臥薪がしん〟の逸話は見られない。

 後漢初期に、地元・会稽山陰の人、趙曄ちょうようという人物によってあらわされた『呉越春秋』では、勾践が臥薪嘗胆したとなっており、後年の『十八史略』では、夫差が臥薪し、勾践が嘗胆したとなっている。

「この二年、許昭親子を討ち果たせずにいたのは、まさに会稽の恥を味わった心地でした。それも今日で終わりです」

「はい。この度の尹端いんたん李粛りしゅく殿両名の件は中央の濁流派の思惑が働いているとみて間違いございません。政道を正す意味でも、その悪企みは阻止しなければなりません」

 臧旻ぞうびんが漏らしたいつわらざる心境に応えたのは、袁忠えんちゅうである。幕舎の外で風角計をかざしてその動きを見ていた周昕が異変を察知してつぶやく。

「気が弱まっている……」

 風角計の回転がだんだん緩まっているのだ。

「孫堅がすでに山中に入って数刻、何か動きがあっていい頃……むっ?」

 陳夤ちんいんが目をらす先、会稽山の周りを巡回して官軍を遠ざけていた火の鳥の様子が急変した。偶然にも雨が降り始め、風が吹き始め、火の鳥がその勢いを失う。熱波が収まり、やがて、火の鳥自体が命を燃やし尽くしたようだった。まるで火の鳥が山上に落下してくすぶったかのように、白煙が立ち昇ったのである。

狼煙のろしが上がっただと?」

 報告に官軍中が色めき立った。臧旻はそれが孫堅の挙げた合図だと勘違いした。

 だが、孫堅が賊軍を混乱させ、味方の兵士に多大な勇気を与えたのは紛れもない事実である。士気の問題は解決した。臧旻は満を持して全軍総攻撃の指令を出した。


 総攻撃の指令はすぐに丹陽軍にも伝わった。

「さすが孫堅殿だ」

 朱治しゅちは有言実行の孫堅に感心せずにはいられなかった。将としての格の違いをまざまざと見せつけられた朱治だったが、一時の間だけでも孫堅とともに行動できたことは貴重な経験だった。孫堅は将来、救国の英雄としていにしえの名将たちと肩を並べるほどの男になるかもしれない。口には出さないが、そんな予想も朱治には決して絵空事ではないように思える。

「ふん」

 耳ざとく朱治の呟きを聞き取った陶謙とうけんはそれを鼻で受け流した。陶謙の感想は違う。

「呉の若造め、手柄を一人占めさせてなるものか。戦功第一は我等われら丹陽勢がいただく。皆、思う存分、手柄を立てるのだ!」

 勝手にライバル心を深める陶謙が内心焦りながら、麾下きかの兵をあおって会稽山に突進させた。

 

 朱儁しゅしゅん率いる会稽軍のこの戦いに賭ける意気込みはひとしおだった。

 その理由が朱儁の口から語られる。

「この二年、我等は塗炭とたんの苦しみを味わってきた!」

 朱儁が兵士たち一人一人の心に、そして、自らの心に訴えた。苦い記憶を発奮材料に変える。

「……土地は蹂躙じゅうりんされ、財産は奪われ、家族と平穏な暮らしを失った!」

 士気の高さは勝敗を左右する重要な要素だ。会稽の民はこの戦乱被害の当事者だから、兵士たちは武器を握りしめ、朱儁のアピールに心を傾け、耳を澄ます。

「それも今日で終わりだ。臥薪嘗胆、この一戦で会稽に平穏を取り戻すのだ! 全軍突撃!」

「おおーっ!」

 朱儁の命令と同時に、朱儁と志を同じくした兵士たちが喚声を上げて走り出した。

 会稽山にこもる賊軍の数は不明だったが、戦力は逆転したはずだ。その上、錬度の高い越人で構成された会稽の軍勢は強く、妖術という絶対的な力を失った賊軍を一方的に蹴散らした。さらに、陳夤・陶謙が率いる丹陽軍と臧旻が率いる主力の揚州軍に突き崩されて、賊軍はまたもや総崩れになった。


 会稽山山頂でも決着が付こうとしていた。

「何だ、てめぇは!」

 孫堅は許昭の罵声ばせいを無視して、容赦なく斬りつけた。

「うわっ!」

 許昭は慌てて身をかわした。地に落ちた銅鏡を素早く拾い上げるのと許生の老体が音もなく崩れ落ちるのは、ほぼ同時だった。

「親父!」

 その時はもう許生はこと切れていた。孫堅の気迫が許生を斬ったのだ。

 孫堅は男が拾い上げたものを認めて、その男が許昭で、傍らのむくろが許生だと確信した。

「それが朱雀鏡すざくきょうか?」

 孫堅が再び剣先を突き付けて聞いた。

「どこでぎつけたか知らねぇが、こいつは渡せねぇ」

 許昭はじりじりと後退しながら、銅鏡をふところに抱え込んだ。

「構わん。お前を殺して奪うまでよ」

「それができるとは思えねぇな」

 許昭は孫堅に対して強がりながら、さらに後退する。孫堅は許昭の考えが分かっていた。奴には逃げるしか手はない。だが、隙を見せた瞬間、古錠刀こていとうの一閃が許昭を捕らえるだろう。背後の黒霧に紛れる前に。

「試してみるか?」

 ヒュン! 

 鋭く跳躍ちょうやくした孫堅が許昭の首目掛けて剣を払う。許昭の首が飛ぶ。が、飛んだと思った許昭の首が石柱の前で霧のように散って消えた。黒霧に包まれた許昭の体がしゃべった。

「だから、できねぇんだよ」

 孫堅は気付いた。許昭の体が巨大な石造りの門をくぐっていたことを。

 ほこらをくぐった生物を霧の衣で巨大化させる許生の術を強化させたもの。祠を門へと大型化し、人の生身をくぐらせる。よこしまな思考が妖術の霧と反応し、本人以上の力を与える。

「親父の形見の術であだを討ちゃ、親父も納得するだろうぜ」

 霧が黒い鎧のように許昭の身を包み、手には黒光りする鉄の剣。逆に孫堅に歩み寄る。

「賊め、くたばれ!」

 ギィン! 

 剣と剣とが弾きあう高い音がこだまして、吹き飛ばされたのは孫堅の方だった。

「無礼者め、我は陽明ようめい皇帝なるぞ!」

 許昭は自称する帝号を名乗ると、尊大に官軍の一将校を見下した。それは孫堅の怒りに火を注いだ。

「ただの賊が天子を詐称さしょうするな!」

 立ち上がった孫堅がさらに鋭い連撃を見舞ったが、許昭はその全てを受け流し、また反撃の一撃を孫堅に叩きこむ。孫堅もそれを辛うじて受け止めたが、重い斬撃に体がぎしぎしときしんだ。

『……強い。これも妖術の力か?』

 もともとの許昭には武芸にひいでているそんな感じはなかった。それが突然、孫堅をも圧倒する力を持った。ヒントは許昭自らの口からこぼれ出た。

「これが西楚覇王せいそはおう項羽こううの力か。まさに無敵だぜ」

「項羽だと?」

 袁忠が言っていた。かつて会稽山には項羽が隠れ住んでいたと……。その力を妖術として許昭が手に入れたというのか。……だとしても、運命は変わらない。

「……確かに項羽かもな。状況は四面楚歌しめんそかだ。お前が死ぬ運命は変わらない」

 孫堅は許昭の妖術にひるむ様子もなく、自信を持って自らの勝利を告げる。

 楚国出身の項羽は天下無双の英雄だったが、多くの敵兵に囲まれて衆寡しゅうか敵せず、最後の戦いに敗れた。その際、敵兵が楚国の歌を歌ったために、楚出身でずっと項羽に付き従ってきた味方の兵士たちのほとんどが故郷を懐かしんで戦意を失い、脱走や投降が相次いで、最後は孤立無援になったという。これが〝四面楚歌〟という言葉の由来だ。

 今、状況はほぼ同じである。官軍が山を包囲し、その猛攻に賊軍は戦意を失って崩壊しているのだ。この山頂にも官軍の兵士たちが現れ、許昭を取り囲み始めた。

「チッ、てめぇは後で殺してやる!」

 許昭はそれを見て孫堅との決着をあきらめ、逃走を図った。立ちふさがる兵士たちを斬り倒す。

「逃がさん!」

 孫堅は兵士たちに指示を出し、自らは俊敏に許昭を追った。


 今度は山中を駆け下りながら、孫堅は幾度も斬り、払い、突いた。

「逃げられると思うのか!」

 しかし、妖術を帯びた許昭はその攻撃をかわし、受け止め、反撃してきた。

「この力がありゃ、何も怖くねぇぜ!」

 許昭の剣は孫堅が身を隠した太い木の幹も容易にぎ払った。剣先は孫堅のかぶとを裂き、辛うじてその下の頭巾が死を防いだ。

「化け物め!」

 それでも孫堅は一向に怯まず、素早い身のこなしで沢を越え、木々の間をすり抜けながら、剣を振った。そのいくつかが許昭を捕らえたが、どれも霧の鎧にガードされて、致命傷は与えられなかった。それでも孫堅は諦めない。岩を飛び越えて渾身こんしんの一撃を振り下ろす。

 ギィンン! 

 またも金属同士がこすれる音が響き、許昭と孫堅の二人は剣を交えたまま、深い落葉の絨毯じゅうたんの上を勢いよく滑り落ちた。

「そんなに死にてぇんなら、今やってやる」

 立ち上がった二人の手には剣がない。転がった瞬間に落としてしまったのだ。

 だが、許昭はまとった霧の鎧の一部をちぎり取って、新たな剣を作ろうとした。

 ところが、

「そいつが許昭か!」

 強い欲望が強運を引き寄せたのか、そんな場面に偶然現れたのが陶謙だった。

「手柄はもらった!」

 陶謙が丸腰の許昭に斬りかかった。

「陶謙殿!」

 孫堅が許昭の妖術を知らない陶謙を制止しようとしたが、もう遅かった。

 許昭の剣が陶謙の体を斬り払った。……が、それは霧の帯が陶謙の体をすり抜けただけで、陶謙には何のダメージもなく、逆に陶謙の剣は許昭の鎧を貫通して、深々と突き刺さっていた。

「ばかな……」

 許昭がうめいて、よろめく。絶対だと思っていた無敵の力が霧となって散っていった。許昭が倒れ落ちる。その際、持っていた銅鏡が懐から滑り落ちて、岩に当たって砕けた。

「間に合ったか……」

 孫堅が安堵の息をついた。

 兵士たちに石造りの門を壊すように命じていた。それが今、命運を分けたのだ。


 足かけ三年続いた反乱はついに鎮圧された。首謀者の許生・許昭親子もちゅうされた。臧旻はそれを「会稽の恥がそそがれた」と評した。

 反乱の鎮圧はまさに喜ぶべき吉事であったが、そう感じているのは平穏を取り戻した民と兵士たちで、諸将の中では許昭を討って戦功第一となった陶謙以外、誰一人それを実感している者はなかった。

「我が不才のせいで代償は高くついてしまった……」

「いえ、今こうして反乱を鎮めたのです。まだ間に合います」

 戦いが終わり、臧旻は改めて己の責任を痛感していた。悔悟かいごする臧旻を陳夤が慰める。代償――――多くの犠牲。時間の浪費。そして、呉越二人の太守の更迭こうてつ

「都に反乱鎮圧の報がもたらされれば、更迭された二人の罪も許されることでしょう」

「甘いぞ。濁流派は手段を選ばぬ。一つ罪状がなくなったとしても、また新たな罪状をでっちあげる。党人隠匿いんとくを問責理由にするなら、審議もろくに行わずに極刑を下しかねない」

 過去自らも濁流派との抗争に身を投じ、中央の実態を把握している臧旻と長年地方官として出向し、中央の実情にうとい陳夤。呉越両太守の安否を気遣う心は同じでも、そこには温度差があった。

「できるだけ多くの筋に嘆願書を送ってはみたが、功を奏すかどうか……」

 討伐軍を解散し、それぞれ任地への帰り支度じたく調ととのえる臧旻・陳夤の心は晴れないままだ。心に痛みを抱いているのは、孫堅も陸康りくこうも、朱儁も周昕も変わりない。

 特に袁忠は自分のために恩人が災禍さいかこうむることになり、贖罪しょくざいの気持ちでいっぱいだった。心の中でひたすらびるしかない。濁流派の非道を一番よく知っているのは党錮とうこを体験した袁忠自身である。

「陸康殿と朱儁殿が救済に向かっています。きっと良い知らせがもたらされます」

 孫堅が袁忠の心中を察して言った。袁忠が無言でうなずき、呟く。

「一念天に通じればよいですが……」

〝一念天に通ず〟とは、どんなことでも一心に念じて努力を続ければ、必ず成就じょうじゅするという意味で、袁忠の友、魏伯陽ぎはくようが著した『周易しゅうえき参同契さんどうけい』からの出典である。


 呉郡の陸康、会稽郡の朱儁はそれぞれ太守が罪に問われ、更迭されたのを反乱鎮圧の報告でもって取り消そうと、戦勝の余韻よいんひたる間も惜しんで都・洛陽へ急行した。

 孫堅は二人が両太守を救い出すことを信じている。自分も二人を信じよう。そう決めて、袁忠は頭を切り替える。

『今、自分には為すべき清流の務めがある』

 きっと清流に連なる両太守もそれを勧めることだろう。

 袁忠は全ての祠が壊されて、すっかり霧の晴れた会稽山の検分をするために山頂に足を運んだ。真の朱雀鏡の手掛かりを探して。そこで魏伯陽と再会した。

 袁忠が連れているかさみのという出で立ちの人物を見て、孫堅が尋ねた。

「この方は?」

「ああ、方士の魏伯陽です」

 魏翺ぎこうあざな伯陽はくよう。清流派名士だった父・魏朗ぎろうの死後、方士だった彼もまた党人扱いされ、山野に身を隠した。魏翺は主に会稽山を修練の場としていたのである。

「先日、袁忠様と共に曹娥そうが碑を見ていたという方ですか? 賊軍だらけのこの山で何を?」

「仙薬の材料を探しておりました。霊山では霊気を含んだ良い薬草が採れるものですから」

「魏伯陽は煉丹れんたん術に通じ、仙薬の研究をしているのです。それで、何か良い物は見つかったか?」

「百年ものの霊芝れいしが採れました。それに会稽山の陰気を含ませて、一つ貴重な仙薬を作りました。名付けて回生丹かいせいたん。生き返りの薬です」

 魏翺が蓑の下からささの葉にくるんだ小さな黒い仁丹を示してみせた。

 煉丹術とは、不老不死など様々な霊薬を作る仙術をいう。彼の著作『周易参同契』では、煉丹術に用いる材料や精製法を記しながら、煉丹術の理論について説明している。

「それは見事ではないか。試してみたのか?」

 袁忠がその黒い粒をまじまじと見つめながら、聞いた。

「ええ、この自分の体で。私が仙薬研究に没頭したのは父をよみがえらせたい一心からでしたが、父の肉体はすでに土に還り、もうありません。肉体がなければ、これも無用の長物。この薬を完成させて、私の気も済みました。あなたは乱れた世を正そうとする英雄だと聞きました。よろしければ、これをお役立てください。こんはくが分かれる前、つまり、心の臓が止まってから四十九日の間であれば、効果があります」

 魏翺が初対面の孫堅にそれを差し出した。

にわかには信じられない話です」

 半信半疑の孫堅が仁丹を指でつまみながら言った。

「人知が及ばない仙界の代物です。無理もありません。ですが、許昭親子の妖術を目の当たりにしてきたではないですか。朱雀鏡もまた仙界で作られた霊宝です」

 そう言われれば、確かにそうだ。孫堅もそれ以上疑念を抱くことなく、

「では、有難く」

 仁丹をまた笹の葉で包んで懐へ入れた。袁忠が孫堅に向き直って伝える。

「伯陽によると、この会稽山に朱雀鏡はないようです」

「どういうことですか?」

 実は許昭が所持していた銅鏡は神器ではなかった。正確に言えば、偽物、模造品、精巧なレプリカである。

「許昭親子が持っていたのは偽物です。文献で得た情報によれば、本物は両眼から羽の先まで、朱雀の彫刻全体が紅玉こうぎょくでできているといいます」

 真贋しんがんを見分けたポイントを袁忠が解説した。唯一の相違点は朱雀の両眼にだけにしか紅玉(ルビー)があしらわれていないことだ。

 磨き上げられた鏡面と翼を広げた朱雀が鮮やかに彫刻された背面、周囲には緻密ちみつ鳥文ちょうもんが彫り込まれている。鳥文とは鳳凰ほうおうをデザインした紋様だ。銅鏡自体の大きさ、形状に至るまで、それ以外はほぼ文献にあった記事と一致する。

「偽物ではありますが、実に精巧に製造されています。本物と見紛うほどの出来です。これを作った者はきっと本物を手に取ったことがあるに違いありません」

 袁忠が割れた銅鏡を合わせながら、推測した。

 どこでこのレプリカを手に入れたのか。誰がレプリカを作ったのか。まだ謎は残っている。今となっては、許昭親子を殺してしまったのが悔やまれる。だが、その二人が果てた以上、真相を語る者はない。袁忠自身は会稽の地に留まって、さらなる調査を続けるつもりだ。孫堅も周昕もそれを引き続き手助けするつもりでいる。

 真の朱雀鏡の行方が確かでない以上、この清流の務めを放り出すわけにはいかないのである。


 揚州刺史・臧旻により、孫堅・朱儁・陶謙らの戦功が上申された。また、陸康が茂才もさいに推挙された。茂才はもともと〝秀才〟と呼ばれた官吏登用制度である。その名のとおり、州府が優秀な者を選んで中央に推薦する。

 後漢以降、後漢の光武帝こうぶてい劉秀りゅうしゅうの名を避けて、改称された。

「――――呉越の新たな志士を将来に送り出すことで、せめてもの罪滅ぼしになればいい」

 臧旻はそう語った。

 前会稽太守・尹端は命拾いした。賊軍が交通を遮断していたお陰で、移送が遅れたのが逆にさいわいした。後を追い、都へ昼夜兼行した朱儁がギリギリで間に合って、その筋に賄賂わいろを贈ったのである。汚い手段であるのは百も承知だったが、いくら正論を述べても、相手が濁流派なのではそれが通じないのは明らか、通じるのは金の力だった。一刻を争う事態で太守を救い出すには仕方のない処置だったのだ。しかし、賄賂によって命を救われたと知れば、尹端は自分を恥じるだろう。朱儁は尹端に顔を合わせず、すぐに都を去った。

 前呉郡太守の李粛は命を落とした。陸康も昼夜兼行で洛陽に急いだものの、時すでに遅し。臧旻が危惧した通り、洛陽に連行されてすぐに刑を執行されたのである。

 呉郡の方が会稽郡より数日だけ都に近い地理条件がわざわいした。李粛の方がその分だけ早く濁流に呑み込まれたのだ。陸康は遺体を李粛の故郷である潁川えいせん郡へ送り届けて、李粛のために喪に服した。

 その凶報を聞いた孫堅は今こそ回生丹を使う時だと思い立ったが、斬首のように肉体が激しく損壊した場合は回生丹でも生き返らせることはできないと言われていたのも思い出し、静かに李粛の死をいたむしかできなかった。

 孫堅が喪に服す中、李粛の後任の呉郡太守に曹鼎そうていという人物が送られてきた。

 曹鼎はあざな景節けいせつといい、予州はいしょう県の人である。沛国譙県の曹氏といえば、曹操そうそうの一族に他ならない。曹氏と袁氏は共に清流にも濁流にもくみする混流派大家として密接な関係があり、曹鼎は、

「――――尚書台に少し銅臭どうしゅうをかがせてやりました。袁公をお守りするための代償と考えれば、お安いものです」

 赴任挨拶で臧旻と対面した時、そう語った。尚書台は公文書発布や政務や人事を総括する部局のことで、そこに賄賂を贈って、呉郡太守に任じられたということだ。清流派の袁忠を保護するために濁流的手段を駆使したのであって、まさに混流派の真骨頂だった。

 混流派袁氏の清流が袁忠であるならば、混流派曹氏の清流は曹鸞そうらんである。曹鸞はすでに八十をとうに超えた老父であるが、清流派古老として未だ現役であった。その子が曹鼎なのである。

 なお、会稽太守の後任は徐珪じょけいという人物、その謁者えっしゃには曹胤そういんが派遣されてきた。

 謁者は秘書官のような役割で、曹胤は曹鸞の甥である。


 年が明け、熹平きへい四(一七五)年。

 孫堅には徐州広陵こうりょう塩瀆えんとく県のじょうに任ずるという沙汰が下り、袁忠のもとを離れることになった。広陵郡は長江を挟んで呉郡の北に位置し、臧旻の出身地でもある。

 丞とは県の副知事にあたる。戦功が認められての昇進ではあったが、管理職のような仕事は孫堅には退屈だった。勅令ゆえに有り難く拝命したものの、司馬として軍を率いる方がずっと向いていたと思う。幸い赴任した塩瀆県は平穏そのもので、軍人としての孫堅の出番はなかった。

 塩瀆は海に近く、平穏な日々に逆にストレスを溜めていた孫堅は暇を見つけては海まで馬を飛ばした。ゆったりした広い海原を見ていると心がえるのだ。

 孫堅は誰もいない浜辺に腰を下ろして、楊謇諤ようけんがくこと袁忠からの書簡を開いた。

 袁忠は現在、びんの地に身を隠しているらしい。どうやら、あの言葉を有言実行したようだ。書簡には越王の待遇が改善されたことも記されていた。

 実は袁忠が約した越王の待遇改善は臧旻からの上奏という形に変えられて、司徒の職にあり、袁一族の長老である袁隗えんかいに届けられた。それが山越族の反乱抑制に効果があると朝議で認められ、越王は武夷宮ぶいきゅうという宮殿に移ることになった。

 武夷宮はかつて武帝が閩越の地を征服した時に武夷山の神々を祀るために建てられた祠堂しどうである。越王には武夷祭酒さいしゅという特別な官職が贈られ、今後、会稽太守が越族たちのあがめる無諸むしょ王をまつる祭祀を執り行うことも伝えられた。

 さらに、朱雀鏡のレプリカについての調査報告も記されていた。それによると、あの銅鏡は昔から青銅鏡の鋳造ちゅうぞうが盛んな山陰で作られたものであるらしく、約二十年前に製造された。当時、濁流派の大将軍・梁冀りょうきが洛陽で専横を極めており、会稽太守にその一族である梁旻りょうびんという男が就いていた。そして、梁旻が朱雀鏡製造を指示したことが、銅鏡作りを担当した当事者の証言で判明したという。

 梁旻が更迭された後、許生が会稽山の禹穴に収められていたそのレプリカの朱雀鏡を手に入れた。レプリカの朱雀鏡は彫刻された朱雀の両眼部分にしか紅玉ルビーが使われていないということだったが、長い年月を経て地下深くで生成された鉱物には少なからず陰気、つまり、霊力の源が封じ込められている。紅玉ルビーはパワー・ストーンの一種で、それに強力なパワー・スポットである会稽山の霊力を蓄えたことで、本物に近い霊力を持ち得たのではないか――――。

 朱雀鏡のレプリカを作ろうとした人物は判明した。ただ、本物の朱雀鏡の行方は未だ知れず、袁忠はしばらくしてから隣の予章郡を探るということだ。

 孫堅はふと遠くを見た。できるだけ遠い過去を思い出してみる。

 二十年前といえば、自分が生まれた時だ。その頃からこの事件は蠢動しゅんどうしていたことになる。

 今度は未来を想像してみる。二十年後はどうだ? 来月にも子供が生まれる。その子が二十歳になる頃はどうなっている?

 これから各地で戦乱が起こるかもしれないが、あなたは清きこころざしを忘れずに国と民のために尽くしてほしい――――袁忠は書状の最後を、孫堅の将来を嘱望しょくぼうする言葉で締めくくってあった。

 寄せては返す波の音を聞いていると、銭唐嘯に呑みこまれた時に聞いた声が脳裏に甦ってくる気がした。あれは本当に伍子胥の声なのだろうか?

 神器の守り手――――袁忠に告げられた宿命。

 自分はとてつもなく巨大な運命の荒波に呑みこまれたのかもしれない。

 孫堅は茫洋ぼうようたる海原うなばらを見つめながら、これから何をすべきか考えた。ただ、肝心の袁忠と離れてしまって、今は何をすればいいのか分からない。

 どうやって、どこへ向かって宿命の荒波の中を泳いでいけばいいのだろう? 

 何も答えを見出せないまま、ただ時間だけが過ぎて行った。

 とりあえず、間もなく生まれてくる子供の名前を考えておこうと思った。

 子は男だろうか、女だろうか?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

三国夢幻演義 清濁抗争篇 第二章 呉越動衆 光月ユリシ @ulysse

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ