其之六 遅すぎた勝利
多雨と残暑が続く気候が霧の発生を助長して、すっぽりと山を包み込んでいる。
その霧は白く霞むのではなく、黒く淀んでいる。特に山頂付近は不気味な黒い霧がドーナツ状に覆っていて、その中央に黒と朱色の道着に身を包んだ妖術の元凶親子がいた。
「何だ?」
不穏な空気と異変に気付いたのは、
「官軍が突入してきやした! 祠を次々に倒して突破してきていやす!」
「防ぐのじゃ!」
しゃがれた声で厳命した許生は脳裏に山陰包囲を破った若武者を思い出していた。
あの男は普通の人間なら恐れ縮こまる
「もしや、あやつか?」
許生の思考が再びその無名の若武者の勢いに押された。
その息子の手には宝物がある。それが呪術師としてはまだ半人前の息子の能力を補って余りある巨大な力を与えている。
「親父、もう限界だ。休ませてくれ」
許昭が疲弊した声で術の一時中断を訴えた。まだ半人前と言われる証だ。豪気ではあるが、呪術には欠かせない集中力が持続しない。許昭が官軍に渡河をあっさり許してしまったのも、火の鳥を発現させ、
「たわけ、官軍がそこまで来ておるのじゃぞ!」
「官軍は火の鳥に十分肝を冷やしたはずだぜ。突入してきた奴らは親父の術と俺たちの兵で蹴散らせばいい」
「そんなことでは……!」
長年の
「貸せ、
息子が手にしていた銅鏡を奪い取ろうとして、骨と皮だけの腕を伸ばしたが、
「もう親父には無理だろ」
許昭はその銅鏡を素直に渡そうとはしない。父の体を気遣ってのことか、自分の力の元を奪われるのを嫌ったためか。肝心な時に親子の確執が
「つべこべ言わずによこせ!」
強引に許生は銅鏡を奪い取った。妖術こそあるものの、許生は
『これさえあれば、
手に取った銅鏡を見て、許生が思わず思ってしまったことだ。戦場におけるその弱気が敵に付け入る隙を与える。そして、それが敗北を呼んだ。
ぎゃっという悲鳴とともに、斬り倒された賊徒が黒霧のカーテンの向こうから転がり出て、続いて許生が恐れた若武者が現れた。
反乱の首謀者を斬ることしか頭になかった孫堅は賊徒を斬り伏せながら、兵の先頭に立って、ひたすら山頂を目指したのだ。
「お前が許生か!」
剣先を挙動不審な男に向け、鋭い気迫で詰問した。息が詰まるほどに驚いた許生は動悸が一段と激しくなって、手にした銅鏡を地に落としてしまった。
今からおよそ六百数十年前の春秋時代。呉越の抗争で、呉王・
王位を継承した夫差は
范蠡は恥を忍んで降伏し、後の勝利に繋げるように進言した。夫差を補佐していた伍子胥は勾践の降伏受け入れに猛反対したが、結局は勾践が全ての宝を譲り、夫差の臣下となるという条件で命を繋いだ。この故事が〝会稽の恥〟である。
以降数年間、勾践は召使いのような扱いを耐え忍び、後年ようやく越に戻ることができた。帰国した勾践は部屋に
『史記』には、この〝
後漢初期に、地元・会稽山陰の人、
「この二年、許昭親子を討ち果たせずにいたのは、まさに会稽の恥を味わった心地でした。それも今日で終わりです」
「はい。この度の
「気が弱まっている……」
風角計の回転がだんだん緩まっているのだ。
「孫堅がすでに山中に入って数刻、何か動きがあっていい頃……むっ?」
「
報告に官軍中が色めき立った。臧旻はそれが孫堅の挙げた合図だと勘違いした。
だが、孫堅が賊軍を混乱させ、味方の兵士に多大な勇気を与えたのは紛れもない事実である。士気の問題は解決した。臧旻は満を持して全軍総攻撃の指令を出した。
総攻撃の指令はすぐに丹陽軍にも伝わった。
「さすが孫堅殿だ」
「ふん」
耳ざとく朱治の呟きを聞き取った
「呉の若造め、手柄を一人占めさせてなるものか。戦功第一は
勝手にライバル心を深める陶謙が内心焦りながら、
その理由が朱儁の口から語られる。
「この二年、我等は
朱儁が兵士たち一人一人の心に、そして、自らの心に訴えた。苦い記憶を発奮材料に変える。
「……土地は
士気の高さは勝敗を左右する重要な要素だ。会稽の民はこの戦乱被害の当事者だから、兵士たちは武器を握りしめ、朱儁のアピールに心を傾け、耳を澄ます。
「それも今日で終わりだ。臥薪嘗胆、この一戦で会稽に平穏を取り戻すのだ! 全軍突撃!」
「おおーっ!」
朱儁の命令と同時に、朱儁と志を同じくした兵士たちが喚声を上げて走り出した。
会稽山に
会稽山山頂でも決着が付こうとしていた。
「何だ、てめぇは!」
孫堅は許昭の
「うわっ!」
許昭は慌てて身をかわした。地に落ちた銅鏡を素早く拾い上げるのと許生の老体が音もなく崩れ落ちるのは、ほぼ同時だった。
「親父!」
その時はもう許生はこと切れていた。孫堅の気迫が許生を斬ったのだ。
孫堅は男が拾い上げたものを認めて、その男が許昭で、傍らの
「それが
孫堅が再び剣先を突き付けて聞いた。
「どこで
許昭はじりじりと後退しながら、銅鏡を
「構わん。お前を殺して奪うまでよ」
「それができるとは思えねぇな」
許昭は孫堅に対して強がりながら、さらに後退する。孫堅は許昭の考えが分かっていた。奴には逃げるしか手はない。だが、隙を見せた瞬間、
「試してみるか?」
ヒュン!
鋭く
「だから、できねぇんだよ」
孫堅は気付いた。許昭の体が巨大な石造りの門をくぐっていたことを。
「親父の形見の術で
霧が黒い鎧のように許昭の身を包み、手には黒光りする鉄の剣。逆に孫堅に歩み寄る。
「賊め、くたばれ!」
ギィン!
剣と剣とが弾きあう高い音がこだまして、吹き飛ばされたのは孫堅の方だった。
「無礼者め、我は
許昭は自称する帝号を名乗ると、尊大に官軍の一将校を見下した。それは孫堅の怒りに火を注いだ。
「ただの賊が天子を
立ち上がった孫堅がさらに鋭い連撃を見舞ったが、許昭はその全てを受け流し、また反撃の一撃を孫堅に叩きこむ。孫堅もそれを辛うじて受け止めたが、重い斬撃に体がぎしぎしときしんだ。
『……強い。これも妖術の力か?』
もともとの許昭には武芸に
「これが
「項羽だと?」
袁忠が言っていた。かつて会稽山には項羽が隠れ住んでいたと……。その力を妖術として許昭が手に入れたというのか。……だとしても、運命は変わらない。
「……確かに項羽かもな。状況は
孫堅は許昭の妖術に
楚国出身の項羽は天下無双の英雄だったが、多くの敵兵に囲まれて
今、状況はほぼ同じである。官軍が山を包囲し、その猛攻に賊軍は戦意を失って崩壊しているのだ。この山頂にも官軍の兵士たちが現れ、許昭を取り囲み始めた。
「チッ、てめぇは後で殺してやる!」
許昭はそれを見て孫堅との決着を
「逃がさん!」
孫堅は兵士たちに指示を出し、自らは俊敏に許昭を追った。
今度は山中を駆け下りながら、孫堅は幾度も斬り、払い、突いた。
「逃げられると思うのか!」
しかし、妖術を帯びた許昭はその攻撃をかわし、受け止め、反撃してきた。
「この力がありゃ、何も怖くねぇぜ!」
許昭の剣は孫堅が身を隠した太い木の幹も容易に
「化け物め!」
それでも孫堅は一向に怯まず、素早い身のこなしで沢を越え、木々の間をすり抜けながら、剣を振った。そのいくつかが許昭を捕らえたが、どれも霧の鎧にガードされて、致命傷は与えられなかった。それでも孫堅は諦めない。岩を飛び越えて
ギィンン!
またも金属同士が
「そんなに死にてぇんなら、今やってやる」
立ち上がった二人の手には剣がない。転がった瞬間に落としてしまったのだ。
だが、許昭は
ところが、
「そいつが許昭か!」
強い欲望が強運を引き寄せたのか、そんな場面に偶然現れたのが陶謙だった。
「手柄はもらった!」
陶謙が丸腰の許昭に斬りかかった。
「陶謙殿!」
孫堅が許昭の妖術を知らない陶謙を制止しようとしたが、もう遅かった。
許昭の剣が陶謙の体を斬り払った。……が、それは霧の帯が陶謙の体をすり抜けただけで、陶謙には何のダメージもなく、逆に陶謙の剣は許昭の鎧を貫通して、深々と突き刺さっていた。
「ばかな……」
許昭が
「間に合ったか……」
孫堅が安堵の息をついた。
兵士たちに石造りの門を壊すように命じていた。それが今、命運を分けたのだ。
足かけ三年続いた反乱はついに鎮圧された。首謀者の許生・許昭親子も
反乱の鎮圧はまさに喜ぶべき吉事であったが、そう感じているのは平穏を取り戻した民と兵士たちで、諸将の中では許昭を討って戦功第一となった陶謙以外、誰一人それを実感している者はなかった。
「我が不才のせいで代償は高くついてしまった……」
「いえ、今こうして反乱を鎮めたのです。まだ間に合います」
戦いが終わり、臧旻は改めて己の責任を痛感していた。
「都に反乱鎮圧の報がもたらされれば、更迭された二人の罪も許されることでしょう」
「甘いぞ。濁流派は手段を選ばぬ。一つ罪状がなくなったとしても、また新たな罪状をでっちあげる。党人
過去自らも濁流派との抗争に身を投じ、中央の実態を把握している臧旻と長年地方官として出向し、中央の実情に
「できるだけ多くの筋に嘆願書を送ってはみたが、功を奏すかどうか……」
討伐軍を解散し、それぞれ任地への帰り
特に袁忠は自分のために恩人が
「陸康殿と朱儁殿が救済に向かっています。きっと良い知らせがもたらされます」
孫堅が袁忠の心中を察して言った。袁忠が無言で
「一念天に通じればよいですが……」
〝一念天に通ず〟とは、どんなことでも一心に念じて努力を続ければ、必ず
呉郡の陸康、会稽郡の朱儁はそれぞれ太守が罪に問われ、更迭されたのを反乱鎮圧の報告でもって取り消そうと、戦勝の
孫堅は二人が両太守を救い出すことを信じている。自分も二人を信じよう。そう決めて、袁忠は頭を切り替える。
『今、自分には為すべき清流の務めがある』
きっと清流に連なる両太守もそれを勧めることだろう。
袁忠は全ての祠が壊されて、すっかり霧の晴れた会稽山の検分をするために山頂に足を運んだ。真の朱雀鏡の手掛かりを探して。そこで魏伯陽と再会した。
袁忠が連れている
「この方は?」
「ああ、方士の魏伯陽です」
「先日、袁忠様と共に
「仙薬の材料を探しておりました。霊山では霊気を含んだ良い薬草が採れるものですから」
「魏伯陽は
「百年ものの
魏翺が蓑の下から
煉丹術とは、不老不死など様々な霊薬を作る仙術をいう。彼の著作『周易参同契』では、煉丹術に用いる材料や精製法を記しながら、煉丹術の理論について説明している。
「それは見事ではないか。試してみたのか?」
袁忠がその黒い粒をまじまじと見つめながら、聞いた。
「ええ、この自分の体で。私が仙薬研究に没頭したのは父を
魏翺が初対面の孫堅にそれを差し出した。
「
半信半疑の孫堅が仁丹を指でつまみながら言った。
「人知が及ばない仙界の代物です。無理もありません。ですが、許昭親子の妖術を目の当たりにしてきたではないですか。朱雀鏡もまた仙界で作られた霊宝です」
そう言われれば、確かにそうだ。孫堅もそれ以上疑念を抱くことなく、
「では、有難く」
仁丹をまた笹の葉で包んで懐へ入れた。袁忠が孫堅に向き直って伝える。
「伯陽によると、この会稽山に朱雀鏡はないようです」
「どういうことですか?」
実は許昭が所持していた銅鏡は神器ではなかった。正確に言えば、偽物、模造品、精巧なレプリカである。
「許昭親子が持っていたのは偽物です。文献で得た情報によれば、本物は両眼から羽の先まで、朱雀の彫刻全体が
磨き上げられた鏡面と翼を広げた朱雀が鮮やかに彫刻された背面、周囲には
「偽物ではありますが、実に精巧に製造されています。本物と見紛うほどの出来です。これを作った者はきっと本物を手に取ったことがあるに違いありません」
袁忠が割れた銅鏡を合わせながら、推測した。
どこでこのレプリカを手に入れたのか。誰がレプリカを作ったのか。まだ謎は残っている。今となっては、許昭親子を殺してしまったのが悔やまれる。だが、その二人が果てた以上、真相を語る者はない。袁忠自身は会稽の地に留まって、さらなる調査を続けるつもりだ。孫堅も周昕もそれを引き続き手助けするつもりでいる。
真の朱雀鏡の行方が確かでない以上、この清流の務めを放り出すわけにはいかないのである。
揚州刺史・臧旻により、孫堅・朱儁・陶謙らの戦功が上申された。また、陸康が
後漢以降、後漢の
「――――呉越の新たな志士を将来に送り出すことで、せめてもの罪滅ぼしになればいい」
臧旻はそう語った。
前会稽太守・尹端は命拾いした。賊軍が交通を遮断していたお陰で、移送が遅れたのが逆に
前呉郡太守の李粛は命を落とした。陸康も昼夜兼行で洛陽に急いだものの、時すでに遅し。臧旻が危惧した通り、洛陽に連行されてすぐに刑を執行されたのである。
呉郡の方が会稽郡より数日だけ都に近い地理条件が
その凶報を聞いた孫堅は今こそ回生丹を使う時だと思い立ったが、斬首のように肉体が激しく損壊した場合は回生丹でも生き返らせることはできないと言われていたのも思い出し、静かに李粛の死を
孫堅が喪に服す中、李粛の後任の呉郡太守に
曹鼎は
「――――尚書台に少し
赴任挨拶で臧旻と対面した時、そう語った。尚書台は公文書発布や政務や人事を総括する部局のことで、そこに賄賂を贈って、呉郡太守に任じられたということだ。清流派の袁忠を保護するために濁流的手段を駆使したのであって、まさに混流派の真骨頂だった。
混流派袁氏の清流が袁忠であるならば、混流派曹氏の清流は
なお、会稽太守の後任は
謁者は秘書官のような役割で、曹胤は曹鸞の甥である。
年が明け、
孫堅には徐州
丞とは県の副知事にあたる。戦功が認められての昇進ではあったが、管理職のような仕事は孫堅には退屈だった。勅令ゆえに有り難く拝命したものの、司馬として軍を率いる方がずっと向いていたと思う。幸い赴任した塩瀆県は平穏そのもので、軍人としての孫堅の出番はなかった。
塩瀆は海に近く、平穏な日々に逆にストレスを溜めていた孫堅は暇を見つけては海まで馬を飛ばした。ゆったりした広い海原を見ていると心が
孫堅は誰もいない浜辺に腰を下ろして、
袁忠は現在、
実は袁忠が約した越王の待遇改善は臧旻からの上奏という形に変えられて、司徒の職にあり、袁一族の長老である
武夷宮はかつて武帝が閩越の地を征服した時に武夷山の神々を祀るために建てられた
さらに、朱雀鏡のレプリカについての調査報告も記されていた。それによると、あの銅鏡は昔から青銅鏡の
梁旻が更迭された後、許生が会稽山の禹穴に収められていたそのレプリカの朱雀鏡を手に入れた。レプリカの朱雀鏡は彫刻された朱雀の両眼部分にしか
朱雀鏡のレプリカを作ろうとした人物は判明した。ただ、本物の朱雀鏡の行方は未だ知れず、袁忠はしばらくしてから隣の予章郡を探るということだ。
孫堅はふと遠くを見た。できるだけ遠い過去を思い出してみる。
二十年前といえば、自分が生まれた時だ。その頃からこの事件は
今度は未来を想像してみる。二十年後はどうだ? 来月にも子供が生まれる。その子が二十歳になる頃はどうなっている?
これから各地で戦乱が起こるかもしれないが、あなたは清き
寄せては返す波の音を聞いていると、銭唐嘯に呑みこまれた時に聞いた声が脳裏に甦ってくる気がした。あれは本当に伍子胥の声なのだろうか?
神器の守り手――――袁忠に告げられた宿命。
自分はとてつもなく巨大な運命の荒波に呑みこまれたのかもしれない。
孫堅は
どうやって、どこへ向かって宿命の荒波の中を泳いでいけばいいのだろう?
何も答えを見出せないまま、ただ時間だけが過ぎて行った。
とりあえず、間もなく生まれてくる子供の名前を考えておこうと思った。
子は男だろうか、女だろうか?
三国夢幻演義 清濁抗争篇 第二章 呉越動衆 光月ユリシ @ulysse
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