其之五 渇望の空

 熹平きへい三(一七四)年も秋十月を迎えた。事態は好転したようで、暗転もしていた。

 孫堅そんけんたちが江賊こうぞくや海賊、山越といった反乱勢力のよろいを一枚ずつがし取っている間、揚州刺吏・臧旻ぞうびんが率いる討伐軍主力は依然、許昭きょしょうの賊軍と川を挟んでのにらみ合いを続けていた。臧旻は渡河する構えを見せることで許昭の軍勢を牽制し続け、その間に山陰の囲みを解き、賊軍と山越族との連携を分断した。山陰が解放されたことで対岸に陣取る許昭は後退するかと思われたが、今のところその様子はない。

 それは妖術はあれど将才はない、許昭という男の個人能力の限界を示すものだった。

「妖術に頼り切って戦局が見えぬ男のようだな。おかげで討伐の時間を短縮できる」

「はい」

 臧旻の話し相手は呉郡太守の李粛りしゅくではなく、丹陽太守の陳夤ちんいんに変わっている。

 山越討伐の必要がなくなった丹陽太守・陳夤は山越族の鎮静化を見届けた後、郡兵を率いて臧旻の討伐軍本隊に合流した。これで討伐軍は一万余と言われる賊軍とも数的には互角に戦えるだけの戦力が整った。

 ほぼ思い描いた通りの展開になっても、臧旻に油断はない。

「これまでの功績第一はまさしく孫堅だな」

 臧旻は自身の心象を映し出したかのような暗い空を見つめながら言ってはみたものの、やはり、厳しい表情が和らぐことはない。討伐作戦は順調に進展している。

 本来ならもう少し喜びたいところだったが、ともに喜ぶべき相手が足りない。

 孫堅を薦めてくれた男がいないのでは、笑みも消える。会稽太守・尹端いんたんの姿もない。

「二年前に許生・許昭を討ち果たしていれば、こんな事態は起きなかった……」

 自責に過ぎる臧旻を陳夤はただただ慰めるしかなかった。

「挟撃体制は整いつつあります。勝利は目前、勝報が全てを解決してくれるでしょう。あまりご自分を責められませんよう……」

 臧旻は許昭の目を引き付けながら、孫堅が拓いた海上ルートを使って、密かに兵と物資をピストン輸送させていた。許昭の背後にあたる山陰の兵力を増強し、挟撃体制を整えるためである。凶事が起きたのはその最中だった。

 ちょうど孫堅たちが山越族を説得するために奔走していた頃に呉郡太守・李粛が、そして、つい先日、会稽太守・尹端が罪に問われ、中央に召還されるという事態が起きた。

 反乱鎮圧に功なし――――それが罪状だったが、それが濁流派の陰謀であることは明らかだった。鎮圧における不手際を理由にするならば、討伐軍司令の自分がまず罪に問われてしかりだからだ。本当の理由は党人隠匿いんとくの疑いであろう。

 一般的な郡であれば、郡吏の数は五、六百人程度の規模である。どこからか党人を庇護していた事実が漏れ、それを密告されたのだ。だが、党人隠匿というのなら、自分にも罪はある。臧旻も清流人だ。刺史という監察官の職にある臧旻は州内に留まっている党人・袁忠えんちゅうの存在を知っても、それに気付かないふりをして中央へ報告しなかった。しかし、その罪が二人の太守へ及んでしまった。

 二人の更迭こうてつという結果を生み、その名目を濁流派に与える隙を作ってしまったのは自分である――――臧旻の心痛を察し、陳夤はもう一度万全の策を口にして勇気付けた。

「許昭が対岸に陣取り続けるのは、山越が離反したことにまだ気付いていない証左です。天は我等に味方しています。別動隊が到着するのも間もなくでしょう。後背こうはいを会稽軍にふさがせれば、逃げ場はありません。今度こそ許昭を討ち取れます」

 官軍にとって一番困るのは、許昭が形勢不利を悟って行方をくらますことだったが、それは避けられそうである。一気に決着をつけるには、都合が良い。

 しかし、もはや一刻の猶予もない。今度の戦いで絶対に決着をつけなければならない。戦いに勝利しながらも、許昭・許生きょせいを取り逃がした二年前の再現は許されない。臧旻が気を取り直して言った。

「もちろんだ。これで全てを終わらせるのだ。会稽山へ全軍を進めるぞ」

「はい」

 臧旻の強い意志に、陳夤はただ相槌あいづちを打って同意する。陳夤も沈痛な面持おももちを崩さない。二人で作戦の最終確認をすることになってしまったのは遺憾だが、その事実はもう変えられない。だから、必勝を期して時を待つ。

 陶謙とうけん朱治しゅちの別働隊がそのチャンスをもたらすはずだ。今は彼らの一刻も早い到着を信じて待つしかない。


 会稽郡の郡兵二千は朱儁しゅしゅんに率いられて、山陰郊外の会稽山麓さんろくに設陣していた。

 太守の尹端はいない。そのせいで、朱儁の表情も同様に固く険しい。

 山陰を包囲していた賊軍は官軍の反撃を受けて、一度は散り散りになって敗走した。許生と一部の賊軍が会稽山に逃げ込んだのを知った会稽の郡兵は山麓に布陣したが、攻めるには手勢が少なく、妖術の罠を警戒して今は様子を見るしかできない。

「官軍の包囲網は完成間近です。勝利は間違いありません。この勝利を尹太守のものとして奏上すれば、府君の名誉も保たれ、罪も消え去ることでしょう」

 言ったのは、凛々りりしいおもてながら、まだ二十代前半の駱俊らくしゅんという青年官吏である。

 駱俊はあざな孝遠こうえん。会稽烏傷うしょうの人で、文武の才があるという評判を聞いた尹端が朱儁の補佐にと採用したばかりの新任の郡吏であった。

「当然だ。何としてでも、ここで許生親子の首を挙げなければ……」

 それでも朱儁は冷静だった。会稽山を覆う深い緑のその奥に許生はいる。

 許生は山中に逃げ込んだきり出て来ない。それでも構わない。間もなく官軍の総攻撃が始まる。許昭がこちらに敗走してくれば、この手でそれを討つ。のどから手が出るほどに欲する勝利は目前にある。そして、朱儁に見えるのは勝利の後に待つかすかな希望だ。それを見失わないよう、森の奥に潜む許生を探すように目をらす。

 

 一方、陸康りくこうは兵士と物資の会稽への輸送の指揮を執った後、江賊らの襲撃に備えて、銭唐江せんとうこうの河口で防備についていた。江賊海賊と許昭の組織的連動の可能性は薄いとはいっても、呉郡が許昭の討伐に兵力を注げば、郡内の防備が手薄になる。江賊や海賊がそのどさくさに紛れて活動することは十分に考えられた。陸康は少数の軍勢で沿岸警備に従事していたが、心そこに有らずだった。

『果たして間に合うだろうか?』

 焦燥しょうそうの波が繰り返し陸康の心をあおって苦悶くもんさせる。この不安の荒波を鎮める唯一の方法は反乱鎮圧の報告をたずさえて、一刻も早く都へ急行することだ。

 それは時間との勝負であるということがはっきり分かっているだけに、ただ待つことしかできない状況に胸をがす。太守・李粛の遺命。その任務を放り出してこの場を離れるわけにはいかない。忠正で実直な性分が無為に自身をこの場に縛り付ける。

 このままでは間に合わないのではないか――――再び浮かんできた不吉な予感を押し殺して、陸康は心の波風とは対照的にいで久しい江上を睨んだ。

 

 その銭唐江の上流。富春水ふしゅんすいのほとりに孫堅はいた。

 皆の思いが託された陶謙・朱治の丹陽軍であるが、あたかも自身が嚮導きょうどう(道案内)するように孫堅が先頭に立って、故郷である富春の対岸に到達した。そこで斥候せっこうを出し、その先にいるはずの賊軍の様子を調べさせた。すべて孫堅の提案だ。

 この辺りは孫堅の地元である。ある程度賊軍の様子も分かっている。

 朱治が孫堅に軍の先導を委ねたのは、孫堅の方が事情に通じているからという理由もあるが、朱治が孫堅に従うようにしているのは、実は朱治自身がそう望んだためだった。

 斥候が戻ってきて、この先に賊軍が陣を張っているものの、こちらに気付いている様子はないと報告した。それを聞いて孫堅は即断した。

「すぐに攻めよう」

「後続を待ってからにしませんか。五百では戦力が少なすぎます」

「それでは勝機を逃すことになりかねん。賊軍の隙を突くのだから、この兵力でも十分だ」

「では、孫堅殿。どうか私に代わって軍を指揮していただけませんか?」

 朱治が唐突に言った。

「私は呉の司馬だ。丹陽の兵を指揮するわけにはいかない」

「それは忘れてください。我等は国賊を討つという共通の目的のために軍を動かしています。所属の違いは関係ありません。それに孫堅殿が一時的に丹陽の兵を率いたところで、陳太守は気にも留めないでしょう。私が下手な指揮を執って、兵を無駄に死なせるよりずっといい。御同行の方には十分な護衛をお付けします」

 それは袁忠のことだ。朱治には袁忠の素性すじょうは伏せてある。孫堅は朱治の言い分はもっともだと思った。そこまで言われれば、孫堅も了承するのに抵抗はなかった。

「では、貴殿と一緒に指揮を執ろう」

 そう遠慮して言ったつもりだったが、

「皆の者、この孫文台殿は敵の妖術を打ち破り、賊軍を蹴散らした英雄だ! 文台殿がいる限り、我等の勝利は間違いないぞ! 皆、文台殿に従い、功を立てよ!」

 朱治が兵たちにそうげきを飛ばしたものだから、あたかも孫堅が主将のように祭り上げられてしまった。命を預けられる理由、勝利を信じられる理由があれば、それを提示する。兵士は命を拾うためにはどんな縁起をもかつぐものだし、すがりもするからだ。それが孫堅という勇者の存在なのである。いつも間近に陳夤を見てきたからか、朱治も人心の掌握しょうあくけているのかもしれない。

 丹陽兵も勇猛で名を知られる。兵士たちの士気が一気に高揚して、機が熟した。

 孫堅の号令が響き、兵士たちが剣を抜いて駆け出した。


 不意を突いた奇襲の効果はすぐに賊軍の混乱という形で表れた。

 政治に対する強い不満が反乱のパワーになっているので、攻めには強い。だが、所詮しょせんは寄せ集めの集団に過ぎないために、組織力は脆弱ぜいじゃくで受けには弱い。特に予想外の展開には臨機応変に対応できない。もともと軍事訓練された官軍と多くが土民の賊軍では統率力でも戦闘力でも比較にならない。賊軍の主力には勇猛な越人も参加している。しかし、彼らがいかに屈強でも、それは個人での話で、組織での話になるとその差は歴然となる。

 それを補う許昭親子の妖術であるが、目の前の賊軍陣地に妖術のほこらが設営されている様子はなかった。

 孫堅は二年前の江賊退治の経験を生かし、朱治に存在しない後軍を指揮させた。

「三千の兵は背後に回り込め、賊を一網打尽にするぞ!」

 もちろん指揮するふりである。実際は百に満たない偽兵だ。朱治は賊徒に聞こえるように大声で叫ぶと、剣を振って、ありもしない軍を指揮した。孫堅が陣頭に立って猛攻し、朱治の偽軍に翻弄ほんろうされ、丹陽軍は油断していた賊軍を追い立てる。

「なに、戦いが始まっているだと?」

 丹陽の後軍を率いていた陶謙はその報告を聞くと、慌てて兵士に行軍を急がせた。

 そして、孫堅・朱治の五百の先軍がちょうど攻め疲れてきたところに陶謙が率いる二千弱の正真正銘の後軍が到着、加勢して、さらに賊軍を追い立てた。

「くそ、官軍が渡河した報告はなかったぞ。見張りは何やってたんだ!」

 警戒が薄かった西の防御が切り崩され、突如味方の敗走を知らされた。許昭が率いる賊軍主力にその混乱が波及する。自身も油断の境地にあった許昭は着崩した道士服姿の身を飛び起こして、慌てて卓上に放置してあった銅鏡を掴み取った。そして、

「ちっ、今に見てやがれ。こいつの力で官軍の弱卒なんか返り討ちにしてやるぜ」

 銅鏡を両手に持ったまま、ちらりと空の暗雲に視線をやると、おもむろに目を閉じて、その鏡面に意識を集中させた。

 世界は陽気と陰気に満ちている。この両気を受けて、すべてのものが存在している。陽のものがあれば、その対極には陰のものがあり、この世が陽の世界なら、あの世は陰の世界だ。朱雀鏡は陰陽両界を繋ぐ特別な力を秘めた霊宝アイテム。その鏡面に映し出された世界は霊獣が住まう太陰界の光景。何やら呪文のような文言を発し、足は奇妙なステップを踏み、念を送って、それを召喚する。

 鏡の向こうの世界で赤いオーラをまとった気が生まれた。それが膨張して、鏡面からあふれ出ようとした時だった。

 ピシピシ……バリッ!

 突然、硬い銅鏡にひびが入り、真っ二つに割れてしまった。

「ちっ、親父め。出来損ないを掴ませやがったな!」

 官軍を押し返すすべは失われた。許昭は割れた銅鏡を乱暴に投げ捨てて、

「大将、官軍が大挙して舟で渡ってきたぜ。どうするんだ?」

「逃げるに決まってんだろ。陣に火を放て!」

 山賊上がりの部下に怒鳴りつけるように言って、銭唐江沿岸の陣営を捨てることにした。


 対岸の異変を察知した臧旻はその機を逃さず全軍に渡河を命令、大量の舟が一斉に銭唐江を渡り、揚州軍の一万が正面から賊軍に雪崩なだれ込んだ。側面からの奇襲で大きく統制が乱れた上、そこに主力の突撃を受けて賊軍はあっけなく瓦解した。賊軍は散り散りになって潰走を始め、それを機敏に追撃したのが陶謙の軍だった。

「追え追え、賊の頭領を捕えるのだ!」

 陶謙が欲しいのは第一の勲功だ。率いる軍勢に檄を飛ばし、主力の揚州軍に合流することなく追撃に移った。孫堅たちはそれにならわず主力を出迎え、臧旻と陳夤も称賛で戦功いちじるしい孫堅を迎えた。そして、臧旻の主力は山陰の西方、鏡湖きょうこのほとりまで敵を追撃した。

 鏡湖は順帝時代の永和えいわ五(一四〇)年に、当時の会稽太守であった馬臻ばしんが川の中流に三十六もの支流を集め、湖のように水をたたえさせた水利施設である。

 馬臻はあざな叔荐しゅくそん右扶風ゆうふふう茂陵ぼうりょうの人で、後漢初期の名将・馬援ばえんや大儒・馬融ばゆう、後に曹操と争う馬騰ばとう馬超ばちょう親子らを輩出する扶風馬氏に連なる。

 鏡湖は二百平方キロメートル以上の大きさがあり、飲料水や灌漑かんがい用水として利用されるだけでなく、銭唐嘯せんとうしょう逆波さかなみの勢いを減衰させる防波施設としても効果があった。銭唐嘯が起こった場合、それは銭唐江だけでなく、湾に注ぐ会稽の各河川にも及んだ。大きな銭唐嘯の場合、波の高さは数メートルにもなり、それは近辺の低湿地帯をも呑み込んだ。それによって、この辺りでも逆波に呑み込まれて命を落とす者は少なくなかったのである。

 鏡湖のみならず、河川沼沢しょうたくの多いこの地では、軍の展開次第で賊の逃亡経路は決まってくる。会稽山系の丘陵が広がる南へ退路をとった賊軍は、待ち受けていた朱儁の会稽軍に打ち破られ、散々のていで山中に逃げ込んだ。

 会稽山とは山陰から十数里南に位置する山並みのことで、多くの河川がここから発する。許昭が会稽山に逃げ込んだとの知らせを受けた臧旻は、

「親子で合流したか」

「会稽軍が退路を断ったのでしょう。一連の攻撃で賊軍にかなりの打撃を与えました。許生の兵力と合わせても、一気に殲滅せんめつできましょう。作戦通りです」

 陳夤が言って、作戦が最終段階に入ったことを告げた。

「よし。会稽山に軍を進める」

 臧旻が全軍に進軍を命じた。許昭と許生を討ち取らなければ、この戦いは終わらない。戦局が圧倒的優勢にあることは確かだ。誰もが勝利に近付いていると感じていた。

「会稽山……」

 ただ、決戦の舞台が会稽山だと知って、唯一周昕しゅうきんだけが一抹の不安を抱いていた。


 会稽山は山陰南郊にある。標高は約八百余メートル、峰の形状も独特なものではなく、一見するところ至って平凡な山のようである。しかし、そこは確かに特別な地なのだ。

 周昕曰く、大地を巡る気が交わり溢れ出る場所――――だそうで、一種のパワー・スポットなのである。会稽山に近付くにつれて、周昕の持っていた風角計がぐるぐると回り始めた。霊気を受けて育ったという大木を原材料にして作られた風力計のようなものだが、これは風ではなく、気を受けて回る。それを見た周昕が説明した。

「会稽山は妖術を操る強い霊力を得られる場所と言ってもいいでしょう」

「確かに何か特別な力がある場所なのかもしれませんな。禹王うおうほうむられた地であり、始皇帝が巡礼に訪れた場所であり、項羽こううが隠れ住んだというところですから」

 周昕の風水学的見解に袁忠が伝説と歴史的事実を付け足した。

 禹は古代王朝「」を創設したという伝説の名君だ。その遺骸いがいは会稽山の洞穴に納められたといい、その聖なる洞穴は〝禹穴うけつ〟と呼ばれる。会稽山の麓には禹を祀った禹陵うりょうがあり、代々の会稽太守によって祭事が取り行われてきた。

 始皇帝は言うまでもなく、史上初めて中国を統一し、秦王朝を開いたファースト・エンペラーであり、項羽はその秦を滅亡に追いやった天下無双の英雄だ。

「許昭がなぜずっと銭唐江で防衛にあたっていたのか。討伐軍の渡河を阻止しようという目的があったのも確かでしょうが、大河には大きな気が流れています。銭唐江に流れる気を妖術の元とするのに都合がよかったのかもしれません。また、その裏には会稽山を確保する意図があったのではないでしょうか。賊が大軍を動員して山陰を囲んだのも、城を陥落させるよりも官軍の封じ込めを狙ったもので、やはり、会稽山の確保のためであったような気がするのです」

 周昕が敵の軍略を真に看破したかどうかは分からなかったが、袁忠は至極納得した様子で、暗雲の下の会稽山を睨んだ。

「風水と歴史と地理的要素を合わせて考えれば、確かに……」

 敬意する袁忠のそんな言葉を聞いたものだから、孫堅も不吉な予感を感じざるを得ない。だが、何が出て来ようとすべて打破してみせる。孫堅の覇気は今や何事にも動じない。


 木々や岩、土といった物質は元来、陰気を含んでいる。大樹や古木、大岩であれば、それはより多く、霊山である会稽山のものであれば、より濃い。

 会稽山の山中で許生は道沿いに見つけたありの巣の上に石造りの祠を作らせていた。

 地中に住まう蟻や木の葉の下に隠れる虫は陰気の影響を受けやすく、許生の妖術と相性が良い。陰気を集めた祠をくぐったそれらは巨大化して近付く者に襲いかかる。

 黒地に朱色の太極図が描かれた道士服を纏った老人がせ細った腕を伸ばして出来上がった祠に呪符じゅふを貼り付け、祠の内側に太陰界から吸い上げた陰気を満たす。その周りの木々の幹にも呪符が貼り付けられていて、森が生み出す霧に陰気を滲ませ、黒く変色させていた。

「親父!」

 会稽山に逃れてきた許昭が罠の設置に忙しい許生を見つけ、問い詰めるように言う。

「何だよ、あの粗悪品は。もっとましなのをくれ!」

「あれは随分ましな方じゃったぞ。負けた言い訳にするな」

「どこがだ。鏡さえ壊れなかったら、俺は負けてねぇ! それより、ちゃんと山越の奴らに話つけてんだろうな?」

「どういう意味じゃ?」

「いつまで経っても官軍が退かねぇのはどういうわけだ。山越を味方につけて、官軍の目をそっちに向けるって言ったのは親父だぞ」

「話はついておる。山越頭領の厳白虎げんはくこは越の復国に大いに乗り気じゃったし、実際、山越は動いているはずじゃぞ。負けた言い訳にするな」

「ちっ……とにかく越王の命令でこっちに援軍を送るよう言ってくれ」

「使者を派遣するにも、官軍の包囲網を抜けなければならんじゃろ」

「なら、一番いい銅鏡をくれ。俺が官軍を追い払ってやる」

 その言葉に許生は自身が持っていた銅鏡を差し出しながら、息子に忠告する。

「禹穴で見つけた最後の一枚じゃ。くれぐれも壊すでないぞ」

「それはこの鏡の出来次第だな」

 許昭は手渡された銅鏡を手に取って、その仕上がり具合をまじまじと確かめながら、そんな捨て台詞ぜりふを吐くと、さっさと山頂へ向かった。


 先史時代、夏王朝を開いた古代の聖王・禹は治水の名人であった。禹は治水事業のために全国を行脚あんぎゃしたといい、ついには足を引きずって歩いたと伝わる。

 その禹が足を引きずった動きをしたものが〝禹歩うほ〟と呼ばれる動作で、方術や呪術を行う際にその効果を高めるために用いられた。一種のまじないである。

 左足と右足を交互に踏み出し、左足を引きずって右足に引き付ける。右、左

と足を出して、今度は右足を引きずって左足に引き付ける……許昭の足が禹歩のステップを踏む。手には銅鏡。口は呪文を唱え、銅鏡に念を送り込む。それを何度か繰り返すと、銅鏡の鏡面から赤い気が溢れ出た。それが銅鏡全体を包み込んで、ゆっくりと裏面に彫刻された霊獣の形をかたどっていく。

 朱雀すざく。それが召喚者・許昭の意を受けて、上空に飛び立つ。会稽山の濃く強大な霊気を帯びた朱雀は赤い気を全身に纏って、自らの体を燃やし始めた。


 暗雲立ちこめる会稽山に迫り、孫堅たちが許昭を追ったはずの陶謙の部隊に追いついた時、彼らは逆に敗走していた。それが人の逆波となって討伐軍主力を構成する兵士たちの間に突入してきて、あわや同士討ちを演じるところだった。

「落ち着け! 何があった?」

 逃げてきた兵士の一人を捕まえて、孫堅が問うた。

「よ、妖術です! 火の鳥がっ……!」

 他の兵士たちも口々に同じような証言を繰り返した。不吉な予感が当たったらしい。それを裏付けるように、今にも泣き出しそうな暗雲に覆われ、暗く落ち込んだ空間が一瞬明るくなって、背後から照りつけた明かりが孫堅自身の影を目の前の地面に投影させた。孫堅が振り返ると、分厚い暗雲と会稽山の山稜さんりょうの間に鮮やかな光源があった。それは赤くうごめく太陽のように、会稽山の山頂を周って、辺りを茜色あかねいろに染め上げていた。

 その下では、炎に包まれて崩れ落ちる兵士たちの姿があった。上空から落ちてくる火の粉が兵たちの上に降り注いでいる。それに恐怖して逃げ惑う兵士たちの群れを何とか収拾したものの、それは官軍全体に波及して、臧旻は進軍を停止せざるを得なかった。士気はみるみる下がり、ここに臧旻は新たに対策を講じなければならなくなった。臧旻自身も妖術をの当たりにして、微かな動揺がある。

 それにどう対抗するか。難題を前にして、表情はえない。

「包囲は維持できているな?」

「はい。兵たちの動揺がありますので、少々遠巻きではありますが」

「会稽軍はどうしている?」

「包囲網に参加しています。伝令の報告ではよく統制がとれていて、動揺も少ないと聞いております」

「さすがに将も兵も妖術に慣れているのだな」

 臧旻は陳夤の報告に頷き、もう一人の妖術に負けぬ強さを持った若き英雄を待った。

「呉郡司馬・孫文台、只今戻りました」

「おお、待っていたぞ」

 孫堅が幕舎に入って、臧旻の勧めに従って座に就いた。そこは孫堅を採用してくれた呉郡太守・李粛が座るはずの場所だった。臧旻は先の戦功をもって、李粛の代わりに孫堅に呉の郡兵を率いさせるように手配した。

「早速だが、文台の意見を聞きたい。ひとまず包囲は完成させたが、この通り兵の動揺が激しい。これからどう攻めるのがいいと思うか?」

「聞いたところによりますと、会稽山は妖源の地であるそうです。許昭らに時を与えてはなりません。すぐに攻めるべきです」

「我等も即戦を考えてはいるが、士気の問題が出た。そこで妖術をものともしなかった君の考えを聞きたいのだ」

 孫堅は逡巡しゅんじゅんせずに言った。李粛のこともあり、気がいていた。

「では、私に先鋒をお命じください。まず私が山中に突入し、妖術の元を断ちます。その後、全軍で総攻撃するというのはいかがでしょうか?」

「よし、その通りにしよう」

 即決だった。いたずらに議論に時間をかけている暇はないし、臧旻は最初から孫堅の提案通りにするつもりだった。

 こうして孫堅は呉郡の兵士たち二千を率いて先鋒を務めることになり、会稽山に接近した。それに反応して、上空を巡っていた火の鳥が身をひるがえし、もの凄い勢いで滑降してきた。どんな鳥よりも巨大な、燃える怪鳥。それが兵士たちを丸焼きにするかの如く、激しい熱風を伴ってやってくる。

 孫堅が空を睨む。狼狽ろうばいする兵士たちを叱咤し、命令した。

「恐れるな! 伏せろ!」

 地面にいつくばるようにした兵士たちの上を火の鳥が通り過ぎて、熱風が頬をめた。伏せるのが遅れた後方の兵の何人かが炎に焼かれて倒れる。孫堅はそれを振り返らず、

「走れ!」

 今度は置き上がって走る。炎の翼を羽ばたかせた火の鳥は上空へ昇ると、また直滑降で襲ってきた。

「伏せろ!」

 また孫堅が指示を出し、兵士たちがその声に従う。すさまじい熱波が兵たちを襲い、焼けるような痛みが肌を走った。恐怖が心を震撼しんかんさせる。

「走れ、山へ逃げ込め!」

 火の鳥が過ぎ去ると置き上がって走る。襲ってくると身を伏せて耐える。その繰り返しで前進する。孫堅の命令に忠実に従いつつ、兵士たちが後に続いた。

 将が勇敢なら、兵士たちにもそれが伝染する。孫堅の行動が正の連鎖を生んで、ついに呉軍はわずかな脱落者を出しただけで山中に突入した。

 山の木々が火の鳥から兵士たちの姿を隠し、安堵したのも束の間、さらに無人の罠が待ち構えていた。山中には至るところに黒霧のカーテンが下ろされ、石造りの邪祠じゃしが築かれていて、すでに万全の防衛策が構築されていた。呉郡の兵士たちの多くが初めて邪祠の妖術を目の当たりにする。

 火の鳥の次は巨大な蟻や虫。黒い霧の中から、突然現れ出た化け物に兵士たちがきもを潰す。混乱、恐慌する兵士たちに向かって孫堅が対処法を叫ぶ。

「恐れるな、まやかしだ! 祠を壊せ! 祠を壊せば、化け物は出て来ない!」

 そして、襲いかかってきた百足むかでの化け物を一閃のもとに斬り伏せ、それが現れ出た祠を蹴り倒した。将自ら範を垂れる。それが孫堅のやり方だ。兵士たちは化け物をものともせずに打ち倒した自分たちの大将を見て、俄然勇気付けられた。

 若き勇将・孫堅に率いられた一軍が賊徒が陣取る禹陵を突破し、妖術の祠を次々と破壊しながら、会稽山を上へ上へと駆け上がる。




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