其之四 氷解の道

 かつて山陰は〝越〟という国の都であった。春秋時代後期、越は銭唐江せんとうこうを挟んで呉の国と抗争を繰り返し、〝会稽の恥〟や〝臥薪嘗胆がしんしょうたん〟などの故事を残した。

 越が滅びたのは、約五百年前のことである。郷里を追われた越の王族は海路を南下し、〝びん〟と呼ばれる武夷ぶい山脈の南の地域へ逃れた。やがて、王族を追った越人たちがその地に流入し、原地少数民族と融合して新たな越、〝閩越びんえつ〟が建国された。

 そして、天然の要害である武夷山脈に守られ、南方に一大勢力を築くに至った。

 閩越が隆盛を極めたのは、ちょうど秦の始皇帝の時代から前漢前期にかけてである。無諸むしょという名の王のもと、秦の支配に抵抗して、劉邦りゅうほうを支援し、漢の建国に貢献した。

 それから時代は下って、前漢の武帝の時代に征服されて滅亡したのだった。

 越族の多くは管理しやすい淮南や江南の内地に強制移民・分散管理され、また、越の地には漢族の入植が進められた。そのような三百年にわたる漢族との融合政策の結果、時代の流れとともに越族のアイデンティティーは著しく薄れつつあった。

 それに加え、民族差別と政治腐敗が温床となって越族の中に長年積もった鬱憤うっぷんは、たびたび暴動反乱という形で発散された。中でも漢族との融和を嫌い、山岳地帯に潜む越族系の山越族は反漢的姿勢が強く、この度の許昭きょしょうという男の呼びかけに積極的に呼応したのも山越族であった。

「――――漢が閩越を征して幾百年。本当にまだ越王が存在するのでしょうか」

 道中、そんな会稽の歴史と文化背景を語った周昕しゅうきんが疑問を呈した。

「――――私が聞いた噂の真偽は分からない。しかし、孫堅そんけん殿が孫武そんぶの子孫であるように、王の系譜は保たれているに違いない。それを探し出す」

 偶然出会った地元の川漁師が越王の所在を知っているということだったので、そのいかだに同乗させてもらい、武夷山脈から流れ出る清流に乗った。穏やかな清流の両岸には奇岩・奇山が多く林立していて、特に中原ちゅうげん出身の袁忠えんちゅうの目を楽しませた。

「隠遁するなら、こういうところがいいですね」

「ここは健全な大地の気が集まっています。濁流の魔手も寄せ付けないでしょう」

 周昕が風水的な見解で、武夷の環境を称賛した。信頼の置けるボディー・ガードに守られ、周昕は清談・政論どちらもよしという良い話し相手だ。袁忠は濁流派の魔手が及ばないのどかなこの地に、心からリラックスしているようだった。

 党錮を経験した袁忠にとっては、越族は異民族といえど、濁流派の連中よりははるかに話が通じる相手であろうことは確かだった。

 緩やかな川の流れに揺られつつ、一行は歩き通しの体を休めた。渓流の柔らかな水のは耳に心地よく、水面みなもを滑る涼やかな風は肌に心地よく、孫堅もようやく警戒を緩めることができて、ずっと気になっていたことを聞いてみた。

「袁忠様、先日私が清流に触れたと仰いましたが、あれはどういう意味なのでしょうか?」

 曹娥そうが碑での現象のことだ。孫堅は幻聴を聞き、幻影を見た。いや、幻というには余りにもリアルすぎる体験。

「孫堅殿は曹娥碑が誰によって建てられたかご存知ですか?」

「いえ。許生きょせいの名があったそうですが……」

「はい。確かに許生をはじめ、数名が石碑建立こんりゅうに携わっていますが、建立を決めたのは当時の上虞じょうぐ県長の度尚どしょう殿、碑文を作ったのは県吏の魏朗ぎろう殿と度尚殿の弟子の邯鄲淳かんたんじゅんで、度君も魏君もいずれも清流の名高き人物です」

 魏朗はあざな少英しょうえいといい、会稽上虞の人で、性は慎み深く威厳に満ち、誰もだらけている姿を見たことがなかったという。太学に学び、李膺りようと親交を結んだ。彭城ほうじょう令となって宦官の子弟の非法を劾奏し、九真きゅうしん都尉といとなって賊を鎮め、河内かだい太守となって治績を挙げた。その評判はどんどんと高まっていき、やがて、李膺とともに清流派の「八俊はっしゅん」に数えられ、〝天下忠平魏少英〟と称えられた。

 将来を期待された魏朗は陳蕃ちんばんに招かれて中央政界入りしたが、党錮事件の際に陳蕃一味として逮捕され、洛陽へ護送される道中で川に身を投げて自殺してしまった。

 まるで曹娥のような死に様であった。父は腐敗した政治の濁流に呑み込まれて消えた。子の魏翺ぎこうは俗世を捨て去り、方士となって山野に消えた。魏翺のあざな伯陽はくようである。

 度尚はあざな博平はくへいという。清流派「八厨はっちゅう」の一人で、朱儁しゅしゅんを見出した人物である。上虞県長となった度尚は、地元の少女・曹娥が川に呑まれた父の後を追って、投身自殺したその行為をあわれみ、その孝心を称えて慰安碑を建てることを決めた。

 邯鄲淳はあざな子礼しれいという。潁川えいせん郡の人で、古文学や文字に通じた学者であり、篆書てんしょに秀でた能書家である。この時、邯鄲淳はまだ十三でしかなかったが、度尚が碑文を考えさせたところ、見事な文章を書き上げた。魏朗も碑文を考えたが、邯鄲淳のものには遠く及ばないと言って、その草稿を捨ててしまったという。

「石碑やほこらといったたぐいは民の思いや願いが集まって建てられるもの。人の意思が形作ったものと言っていいでしょう。許生が各地に祠を造り、邪念を封じて妖術に利用しているのも、そういう特性があるからです」

 袁忠は片手を伸ばして渓流の澄みきった水をすくった。水は指の間をすり抜けてこぼれていったが、濡れた指をピンと弾くと、残っていた水が涓滴けんてきとなって孫堅の胸を打った。

「つまりはこういうことです。度君が建立した曹娥碑には強く清らかな情念が残っていて、それが孫堅殿の心に反応し、当時の情景が幻想となって見えた……。清流は時を越えて人の心の中を流れています。その清流に触れることのできた孫堅殿こそ私が探し求めていた人物かもしれない。あの時、私はそんな期待を持ちました。そして、あなたの名を聞いた時に、それは確信に変わったのです」

 袁忠の心は未だ范滂はんぼうとも繋がっている。清き流れは過去と今とを繋ぐのだ。

「袁忠様が探し求めていた人物が……私?」

 突然の告白に驚く孫堅に袁忠は深くうなずく。

「党錮が起きて身を隠さなければならなくなった時、私は朱雀すざく鏡の捜索を引き受けたのですが、同時に神器を護るべき人物も探さなければならないと思いました。先日お話したように濁流派も神器を狙っています。私が朱雀鏡を探し当てたところで、それが濁流派に奪われては何にもなりません。……ある伝説によりますと、特に義行にあつく品行に優れた者が神器の守護者に選ばれ、〝地護令ちごれい〟として神器の護衛を務めたとあり、それに相応ふさわしい人物を探し出すことが急務でした。私は信頼できる易者に地をまつる宿命を持つ者の所在を占ってもらったところ、ある導きを得ました。その者が言うには、地を祀る者は東南の若者にして、〝土〟をその名に抱くと……」

〝当たるも八卦はっけ、当たらぬも八卦〟という言葉があるが、八卦とは陰陽二種の棒を三つ組み合わせた占卜せんぼく法のことである。全部で八通りの形(卦)ができるので、そう言う。しかし、八卦だけでは単純で、複雑な事柄を占うことはできない。そこで、その八卦を二つ組み合わせた六十四卦ができた。

 袁忠が占ってもらった時に示された卦は〝しょう〟。升は地を象徴する卦の一つで、それが表す方角は東南、そして、堅実な成長を意味した。

「私がこの呉越の地を訪れたのは、一つは難を避けるため、一つは朱雀鏡を探すため、そして、もう一つは神器の守護者を見つけるため……」

 都・洛陽から見れば、呉郡会稽郡は東南端にあたる。袁忠は地元の予州から探索の歩みを東南に向けた。揚州に入り、長江を渡って江南へ、最終的に呉越の地に入った。

「あなたの名は〝堅〟。土の字をその中に抱き、その字義を解釈すると、〝国土を護る股肱ここうの臣〟と読み解けます。まさに孫堅殿、あなたのことです」

「私が……」

「四神器の守り手です」

 孫堅は突然与えられた役目の大きさ、告げられた宿命の重さに言葉を失った。

 ただ、心は大きく打ち震えていた。感動があの銭唐嘯せんとうしょうのようにうねりながら、押し寄せてくる。袁忠はそれ以上の言葉をかけず、清流人の希望を乗せた筏は静かに、いくらか激しくなってきた流れに揺られながらも、着実に進んで行った。


 閩越時代に築かれた巨大な王城は四つの城門と広大な宮殿区を有し、その規模は当時の中国南方地域最大であったという。閩越が滅びた後、漢朝の役所が置かれた。

 王城を離れた閩越の王族には漢朝から新たな屋敷と食邑しょくゆうが与えられたが、それは漢朝による懐柔と監視でもあった。しかし、それからすでに三百年近い時が流れ、閩越という王朝が過去の歴史に埋もれるにつれて、懐柔と監視の必要性は失われ、漢朝の閩越に対する態度は無関心へと変わっていった。今では監視はおろか閩越の正統な王が誰で、どこにいるのかということさえおざなりになっている。逆に土着民の方が事情に詳しく、出会った川漁師が越王が住まうという渓流のほとりでいかだを止めた。

 漁師が指さすその先、武夷の山間に王宮と呼ぶには質素過ぎる建物がひっそりと隠れていた。森の中にひっとりと佇むそれはただの寂れた邸宅のようで、門番らしき老人に越王への面会を希望するとあっさり許可されて、孫堅らは中に入った。

 邸内では召使いを一人見ただけで、虎の毛皮が飾られた小さな応接間に通された。

 そこには粗末な麻の衣装を着たおきなが腰を曲げて椅子に腰かけていた。

「漢の客人よ、よく来た。ま、座られよ」

 老衰のためか、あまり精気のない声で老人が言葉を発した。

 姿格好もそうだが、寂しい暮らしぶりといい、孫堅には目の前の威厳の欠片も感じられない老人が王であることがにわかには信じられなかった。漢朝による監視がなくなった反面、財政面の恩恵も失われ、王族といえ、かなり困窮した生活を送っているのだ。召使いも門番も、実はすべて王族であった。会稽事情に詳しい周昕もその辺の事情までは知らない。

「越王閣下かっか、此度の拝謁、恐悦至極にございます」 

 孫堅たちは袁忠にならって、慌てて拝謁した。

「名ばかりの王だ。堅苦しいのは慣れていない」

 言いながら、手で遠慮せず座るように促した。三人が腰を下ろす。

「用件の察しはつくが、話を聞こう」

 その言葉を得て、袁忠は一連の事情を話した。漢朝にはもともと山越族の討伐意思はなく、あくまでも許昭の反乱鎮圧のための軍派遣であることを強調して。

「会稽での騒動は聞き知っている。だが、反乱を起こしている越衆と我等とは無関係だ。私はそれに加担するよう指示したことはない。その権力もない」

「存じております。しかし、山越の民が丹陽郡で決起しているのは事実で、あたかも許昭と連携しているように見えるのは、これは全ての越族にとって良いことを招きません」

 武夷山脈が北方からの全ての流入を防ぐ防壁の役割をするということは、正確な情報も妨げられているということでもある。人気の少ない山間の、一般人と同じ生活を送る老人が事態を正確に把握しているとは考えにくかった。

「たとえそうであっても、山越衆を止める力は私にはない。山越衆が望むものを私は与えることができない」

 かつての閩越の王族は今も閩に命脈を保っているものの、実権は既にない。

 だが、各地に散らばる越族に対する影響力は全く皆無というわけではないはずだ。

 王としての威厳を取り戻して命じたなら、効果はあるのではないだろうか。

「王としてできることはございます。許生が勝手に越王を名乗っていますが、真の越王はあなた様でございます。たぶらかされた山越の民を迷いの道から救い出す最良の方法は、威厳を持って停戦命令をお出しになることです。私どもも丹陽太守に掛けあって、必ず官軍を退かせます」

 山越族が望むもの――――それは分かっている。差別の撤廃と穏やかな生活の保障だ。許生が越王を名乗って越国の復興を喧伝けんでんしているが、その方便を全面的に支持して同調しているわけではないのだ。局地的なゲリラ戦を続けて、滅びて久しい亡国を復興させるという大それた野望を本気で為そうというのはナンセンスだということは山越族も十分に分かっているはずだ。そんなことは越王自身も望んでいない。越王も越の民も、生まれた時にはすでに国はなく、漢族と同じ文化の中で同じ時間を生きてきたのだ。

「私は争いを好まない。それで抑えることができるのならそうするが、山越衆がそれを望まなければ、無意味であろう」

 差別の撤廃も穏やかな生活の保障も袁忠一人が与えられるものではない。

 しかし、それとは別に袁忠の努力次第で与えられそうなものがある。

「私は中央政府につてがありますので、越王閣下の待遇を改善するよう強く訴えるとお約束します。閣下を礼遇することは、全ての越族を礼遇するのと同じ。それは山越の民が望むところでもありましょう」

 山越族が純朴であることは、会稽各地を歩くうちに分かった。純朴ゆえに信じやすく、純朴ゆえに騙されやすい。一端方向を誤れば、そのまま短絡的に突っ走ってしまう。もともと越族の男は勇猛・好戦的として知られ、兵士として有能だった反面、海賊や山賊となって暴れることも多く、何か施政に不満を持つと、急に越人の血をたぎらせて団結し、反乱を起こすことで力任せのアピールをすることがしばしばだった。

 許昭・許生親子が起こしたこの反乱も、越の復国運動として越人の気質を呑み込んで急速に拡大したのである。まさに越人の血に起因する騒動と言ってよかった。

「私は老い先短い身だ。この生活でも不満はない」

「越族全体のことを考えてのことでございます。これ以上血を流さずにほこを収められるのであれば、まさに最良の方法でございましょう。漢・越どちらにとっても、悪いことではございません」

「そうか。それならば、言うとおりにしよう」

 越王は袁忠の言に真実を感じたようだ。袁忠の言葉を信じて、同意した。

 孫堅の予想は当たった。袁忠の清い言流は人の心を洗う。

「では、友誼の証に茶を献じよう。この地の茶はかんばしく、すばらしい味だ」

 召使いがやってきて越王と孫堅らに入れたての茶を差し出した。茶が飲用されるようになったのは前漢の時代、紀元前一世紀頃といわれている。それから三国時代にかけて民間にまで広がった。武夷の茶は苦みと甘みが入り混じった大人の味だった。

 漢越同舟。漢族と越族が手を交わした和平の味が孫堅の中に穏やかに染み入っていった。


 越王の盟約を取り付けた孫堅たちは、今度は北上して丹陽郡へ入った。

 越王が地理に詳しい越族のガイドを付けてくれたおかげで、道に迷うことなく、時間を無駄にすることなく、順調に丹陽入りすることができた。そして、丹陽に入って間もなく作戦行動中の官軍に遭遇した。山中の谷沿いを行軍していたのは丹陽郡の郡兵で、暴動を起こしている山越族の討伐のために派遣された部隊だった。

 袁忠は越族のガイドの男に越王の命令書を持たせて山越族が行動している山中へ行かせ、自分たちは官軍の部隊長に面会を求めて経緯を説明したまではよかったが、

「山越を信じろというのか? ふざけたことを言うな」

 停戦は陶謙とうけんという、いかにも剛直そうな部隊長に一蹴されてしまった。

 陶謙はあざな恭祖きょうそ、地元丹陽郡出身の壮年の武官である。

 そんな陶謙であるが、若き頃は学問を修めて孝廉に推挙され、尚書郎から廬江ろこう郡の郡治であるじょ県の県令を務めるなど、最初は文官畑の道を歩んだ。

 時の廬江太守は同じ丹陽郡の出身の張磐ちょうばんという人物だった。張磐はあざな子石しせきといい、清流派「八厨はっちゅう」の度尚が荊州刺史として反乱討伐に活躍した時には交州刺史を務めていた。

 張磐は陶謙の亡父の友人ということもあり、部下となった陶謙に親心であれこれと指導した。ところが、人に指図を受けるのが嫌いな陶謙である。余計な世話を焼く張磐との関係がうまくいかなくなり、間もなく県令を辞めてしまった。

 もともと陶謙は少年時代から地元では知らない者がないという無頼漢ぶらいかんだった。丹陽が山越族の反乱が絶えない土地柄だったことが幸いして、地元でくすぶっていたところ、その武勇を買われて臨時の武官を拝命したのである。

 いくらよわいを重ねても、利己的で血の気が多い性分は変わらない――――陶謙とは、そんな人物だった。

「進軍開始!」

 袁忠の忠告を無視して、陶謙が兵に号令した。それを止めるべく袁忠が陶謙の前に回り込んで、手で制して言う。

「お待ちあれ。一時様子を見るだけで結構なのです。山越族は攻撃を止めるはずです」

 王直々じきじきの命令と山越の性分だ。山越を鎮撫する効果はあるだろう。が、ここで官軍が兵を退かずに討伐行動を続行すれば、袁忠の計らいが無駄になるだけではなく、裏切られたと勘違いした山越側は憎しみと怒りをさらに爆発させて徹底抗戦を挑んでくるに違いない。一端そうなったら、再度の説得は通じまい。そんな事態になれば、本命の許昭討伐にも大きな支障をきたす。

「太守からの命令でもないのに、勝手に軍を退けるか。退くのは奴らを一掃してからだ」

 だが、いくら討伐の不利益を説いても、陶謙はあくまでも討伐を続ける構えを崩さない。陶謙が言う理由はもっともだった。軍人は通常、正式な命令を受けて軍務を遂行する。

「陳太守の命は届いていないのですか?」

「そんなものは知らん!」

 陶謙が乱暴に袁忠を押しやった。袁忠が尻餅しりもちをつく。周昕が駆け寄る。

「この方を誰だと思っている!」

 思わず叫んで、孫堅が不遜の陶謙をにらみつけた。だが、その先の言葉は口にできなかった。孫堅の視線の先で袁忠を助け起こした周昕が口を押さえる仕草をしている。

 党人ゆえに身分を明らかにできない袁忠と周昕。それに呉郡司馬を名乗る青年。

 孫堅はもどかしさに顔を歪め、舌打ちした。孫堅は軍を率いる司馬といっても、見習いの仮司馬であり、正式な印綬を帯びていないし、軍勢を引き連れてもいない。

 そんな身分も素性も怪しい三人が口をそろえて何を言おうが、相手にされないのは仕方がないのである。

 山越族は深い山中を拠点にしている。会稽の山中は銅や鉄を産出するので、武器・鎧を自給し、気力も盛んで、戦いを好んだ。山間部での戦いに精通していて、剣阻けんそな谷を駆け、藪中そうちゅうを走り抜け、茂みから隙を窺っては略奪を働き、鳥のように四散して山中に逃げ隠れる。よって、山越族の討伐行動は困難を極めた。挑発されては山中に逃げ込まれる。深追いすると手痛い反撃を食らう。そんなフラストレーションの溜まる戦いを強いられてきた。鬱憤を晴らさずにおけるものか。

「これ以上邪魔をすると、ただでおかんぞ。立ち去れ!」

 大きな軍功を欲していた陶謙は気に入らない忠言にそれ以上耳を貸さず、逆に士気を乱すと孫堅らを遠ざけてしまった。

「まだ陳太守へ書簡が届いていないのでしょうか?」

 進軍を開始した官軍を横目に周昕が言った。越王との交渉は袁忠が書状にしたためて、陳夤ちんいんにも送っている。

「異民族を説得できて、同族を説得できないとは分からないものですね。……こうなれば、陳太守に一刻も早く話を通さなければなりません。私が直接行って伝えます」

 周昕が続けて言った。かたくなに討伐の意志を固める陶謙を翻意ほんいさせるにはそれしかない。

「それで間に合えばよいですが」

「陳太守は理解してくれるでしょうか?」

 孫堅は丹陽太守の陳夤が陶謙と同じように物分かりの悪い人物だった場合を危惧した。

「陳太守は臧旻ぞうびん殿の信頼厚く賢明なお方と聞いています。それより、停戦命令が届く前に突撃命令でも出さないかと、こちらの方が心配です」

「いざとなれば、私が力ずくでも止めてみせます」

 また孫堅が性急さを発揮して言った。

「いや、それは……」

 慌ててそれを制してみたものの、それに代わる妙案をひねり出せない袁忠であった。


 厄介やっかいなことに停戦の勧告は逆効果になってしまっていた。

 袁忠の嫌な予感は当たり、一夜明け、陶謙は山谷に構築された山越族のとりでを発見すると、攻略する意志をますます強固にして、直ちに攻撃準備に取りかかった。陶謙自身も鎧兜よろいかぶとに身を包み、先頭を切って撃って出そうな勢いだ。

 袁忠は再度攻撃の中止を求めたが、陶謙は全く耳を貸さず、挙句の果てには、

「しつこい奴だ。此奴こやつを拘束しておけ!」

 そう兵士に厳命して、袁忠を取り押さえさせた。

「無礼な!」

 思わず剣の柄に手をかけた孫堅に、

「孫堅殿!」

 袁忠が首を振って、それを制した。しかし、孫堅のこの行為はさらに事態をややこしくした。

「ふん。どうやらお前たちは山越の手先のようだな」

 皮肉か本気か、そう言うや、陶謙は孫堅の拘束も命じた。孫堅は歯を食いしばりながら、もどかしさを耐えるしかなかった。せっかく袁忠が越王を説得して最良の結果を得たというのに、それが一転して最悪の事態になろうとしているのだ。

「そのお方を離せ!」

 叫んだところで聞く相手ではない。話しても無駄な相手には強引な手段を取ってでもわからせたいところなのだが、袁忠に制止されてはそれもできない。

 孫堅は不服ながら、兵士に拘束されるに身を任せた。が、それで良かったのだ。

 そこに周昕とともに陳夤からの伝令が到着して、この悶着もんちゃくに終止符を打った。

 伝令の若者は二人の姿を見て、慌てて陶謙に取り次ぎ、太守からの書状を手渡した。伝令からの書状を受け取った陶謙はそれを一読すると、

「ンン……仕方ない。山越など捨ておき、我等は許昭討伐に向かうぞ」

 納得の表情で告げて二人を解放させると、足早に去っていった。

 いくら直属の上司からの命令とはいえ、孫堅には意外なほどあっさりと陶謙の溜飲りゅういんが下がったように思えた。それはひとえに陳夤の書状による。陶謙を納得させたその書上には単に山越討伐の中止を伝えるものだけではなく、山越を防いだ陶謙の労をねぎらう言葉があり、今度は許昭討伐で殊勲をあげるようにと、その功名心をくすぐる言葉が並んでいた。

 陶謙のような功名第一の人物にとっては、山越討伐は味気ない前菜を食すようなもので、反乱の首謀者である許昭・許生討伐こそが垂涎すいえん御馳走メイン・ディッシュなのである。当然そちらの方が魅力的で、そちらにあずかれるのであれば文句は出ない。

 この書状一つで丹陽太守・陳夤の名君ぶりが窺い知れる。伝えられた事情を適切に判断し、見事な人心掌握術しょうあくじゅつを書上に載せて、すぐさま伝令を飛ばして百里離れた部下をコントロールしたのである。

 異動が激しかったこの時代、同じ任地に留まり、長年郡太守を続ける事例は多くなかった。陳夤が何年もの間丹陽太守の地位にあるのは、統治の難しいこの地方で安定した治績を上げているのはもちろん、地元民が彼を支持し、太守が代わらないように請願せいがんしているためだった。陳夤の書状にはさらに、陶謙の部隊は遊軍として、討伐軍本隊の渡河に備える許昭の背後を突くよう指示があった。

 丹陽と会稽の郡境近くまで進出していた陶謙の部隊はそのまま富春水ふしゅんすい沿いに東進すれば、山陰方面へ出られる。地理的条件がそうだったからだが、図らずも自分が許昭を討ち取る最短距離に立っていることを知った陶謙は、

「急ぎ行軍するぞ。朱治しゅち、五百の兵を率いて先行せよ」

 そんな上司の書状に発奮して、意気揚々、伝令の若者に命令した。

「は、直ちに」

 明朗に応えた伝令の若者が孫堅のもとに走り寄ってきて、

「呉郡司馬の孫文台殿ですね。ご無礼を致しました」

 孫堅はこの伝令に見覚えがあった。以前、揚州刺史・臧旻の軍営に丹陽郡の事情を報告に訪れた若者だった。

「会稽の窮地を救ったという英雄に対してこのような粗相そそうを、申し訳ありません」

「ああ、気にするな」

「手遅れにならずに良かった」

 袁忠が安堵の笑顔を見せて言った。情報伝達の迅速じんそくさがこの危機を水際で回避させたのだ。

「こちらをってすぐ丹陽方の使者に出会いました。運が良かった。やはり、天が清流に味方してくれているのでしょう」

 周昕が言って、使者の若者・朱治を紹介した。袁忠の書状は確かに太守・陳夤に届いていたのだ。

「はい。越王が停戦に応じたという報告に陳太守はお喜びでございました」

「会稽に向かうのなら、我々も同行させてもらえないだろうか?」

 孫堅は陶謙と違って話の分かりそうな同年代のこの若者に好感を持ち、先行隊に同行を求めた。その若者・朱治は、

「もちろんです」

 こころよくそれに応じた。朱治はあざな君理くんりという。聞けば、孫堅と同い年だという。

 呉郡との郡境に近い丹陽郡故鄣こしょう県の出身で、勤勉実直な性格を県長の費鳳ひほうに認められて取り立てられたばかりだ。費鳳はあざな伯蕭はくしょう、陳夤の下で山越対策に従事していた。

 陳夤はこの時に朱治を認め、自分の伝令役として臧旻のもとへ派遣したのだ。

「丹陽郡中にも孫堅殿の武勇譚が伝わっています。そんな孫堅殿とご一緒できるとは光栄です」

 それは世辞でも何でもなく、朱治の本心だ。

「まだ十代の若武者がそんな活躍をしたものだから、陶謙殿は面白くなかったようでしたが」 

 朱治が語る内情が陶謙の行動を弁解しているようだった。壮年になってようやく芽が出始めた陶謙には焦りがあるのかもしれない。朱治は出立しゅったつの準備を始めながら、自分の中にも、困惑にも似た不安の心情が湧き立つのを自覚していた。

「私には到底孫堅殿のような真似はできません。陳太守が私にそんな期待をしなければよいのですがね……」

 朱治は伝令の役目を果たした後、陶謙の軍に加わり、彼を補佐するように言われていた。陳夤にかわいがられているのを朱治は自覚している。自分の器も承知しているつもりだ。それゆえに、孫堅と比較されて過度な期待をされるのを恐れてしまう。

 そんな朱治の吐露は孫堅には聞こえていなかったようだ。自分の活躍が陶謙の功名心に火を付け、朱治の心を幾分圧迫していることに孫堅は気付かない。

 孫堅の心はすでに許昭・許生親子と戦っていた。

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