其之二 妖術の罠

 副司馬として陸康りくこうが付いている。陸康は震沢しんたく太湖たいこ)のほとり、呉郡呉県出身で、あざな季寧きねいという。恰幅かっぷくの良い四十代の男で、孫堅そんけんよりもずっと年長である。

 孫堅よりもずっと長く生きている分、思慮深く落ち着いている。

 呉郡の陸氏は学識ある江南の名族として知られ、陸康の伯父おじちゅうほうはともに郡太守となった。陸康も例に漏れずに学識があり、長年郡に忠実に仕えて郡内のことで知らないことはない――――そんなところに太守・李粛りしゅくは大きな信頼を置いていた。その陸康を軍略にも通じているからと、李粛が孫堅の補佐役として陸康を任命したのは、臧旻ぞうびんの意向があったのは間違いない。自分が武勇を頼んで軽率な行動を起こさないように手綱たづなを締める役目も任されているのだろう。いわば、お目付役だ。

 孫堅はそう感じていた。ただ自分の命を配慮してのことでもあろうから、それはそれで有り難いことでもあった。

 銭唐江せんとうこう河口に海賊たちが新たなアジトを構えているという情報をもたらしたのは、他ならぬその陸康だった。孫堅はその情報に基づき部隊を急行させた。

 率いるのは歩兵五百。郡兵からりすぐった精鋭たちである。加えて、海賊退治は孫堅にとってはお手のもの。陸に上がって気が緩んでいたところを強襲して、あっさりと三隻の船を奪うことに成功した。海賊たちは官軍の急襲に残った船に我先に乗り込むと、さすがに海賊らしく海上に逃亡した。孫堅はそれを追跡はせずに、計画どおりに奪った海賊船に兵を分乗させると、大きく湾状に広がった銭唐江の河口を横断した。あの銭唐しょうが起こる場所だ。

 孫堅は甲板かんぱんに立ち、水面をにらむ。空には暗雲が立ちこめ、沖からの強い風が船の帆をいっぱいに膨らませている。本当にあの時の逆波が伍子胥ごししょ怨念おんねんによるものなのか、許昭きょしょうの妖術の仕業しわざなのかは分からないままだったが、幸い今度は銭唐嘯を目撃することはなく、無事に対岸へと上陸を果たした。

 海から吹き付ける強い浜風が海岸沿いに広がる一面の葦原あしはらなびかせる。そこは会稽かいけい上虞じょうぐ県の西。ついに郡境を越えたのだ。

 孫堅は上陸した途端、十数名の兵士たちに何やら命令を下して先に行かせ、自らは上陸地点付近を百名ほどの兵士とともに警戒した。辺りに賊の気配がないことが分かると、少し離れた河岸へ向かった。段丘だんきゅうが途切れるその先に人の背丈せたけほどの石碑が二つ、強風にさらされ、ぽつんと寂しそうに立っていて、先にやった兵士たちがその石碑の側で一人の男を捕らえていた。

「ご命令どおり捕らえました。武器は持っておりませんでした。現在もう一名の行方ゆくえを追っております」

「わかった」

 孫堅は兵士の報告に答え、腕と肩を取られてひざまずかされた中年の男に視線を落とした。接岸しようと船を岸に近付けている時、孫堅は遠くの石碑の影からこちらの様子をうかがう二人の男の存在に気付いたのだった。今、このがけからは後続の船から上陸する兵士たちの姿が見えている。

「こんなところで何をしていた?」

「何も。ただこの碑を見ていただけでございます」

 薄汚れた服をまとった男は、孫堅の尋問に意外なほど冷静に返した。

「嘘をつくな。見ていたのは我等われらの様子であろう」

 孫堅が恫喝どうかつした。剣を抜く。古錠刀こていとうがヒュンと風を切って、男の喉元のどもとに突き付けられる。

「痛い思いをする前に吐いた方が身のためだぞ。お前は我等の動きを探りに来た賊徒の密偵だろう?」

「違います、私は決して賊の仲間ではありません」

 男はきっぱりと否定した。落ち着き払った声。全くうろたえぬ態度。どちらも苦境に直面した者のものとは思えない。余程きものすわった者なのか。

 孫堅の一瞬の迷いに付け入るように、今度は男の方が尋ねてきた。

「もしや、あなた様は官軍の将軍でございますか?」

 白々しいと思いながらも、孫堅は堂々と答えた。

「そうだ」

「そうでしたか。それを聞いて安心致しました。私はてっきり海賊の一団かと疑ってしまいました」

 男のそんな吐露とろに孫堅は黙って突き付けていた剣を戻した。乗船した海賊船には官軍の旗はかかげていない。途中、賊徒に船を目撃されることがあっても、海賊と思わせるための偽装である。陸康の提案による細工さいくだ。男に指摘されるまで意識しなかったが、それが逆に民間人にも海賊と疑わせただろうこともうなずける。

 だが、孫堅はまだこの男に対する疑いの目を弱めたわけではない。

「本当に賊の一味でないのだな?」

まことでございます。なぜ、そこまでお疑いになるのですか?」

「この辺り一帯は久しく賊徒が跳梁ちょうりょうし、民は皆それを恐れて昼も夜も家に隠れていると聞いた。そんな中、平気で外にいられる者がいるとしたら、それは賊に加担する者だけだ」

 疑うには疑うなりの理由があった。大体周辺に賊が蔓延はびこっているというのに、呑気のんきに石碑を眺めていたというのが怪し過ぎる。

「ご明察ではございますが、一つ間違っておられる。私は平気で外にいるのではなく、近隣の城邑しろが全て賊軍に襲われてしまい、帰るに帰れず外にいるのです。仕方なく外を彷徨さまよっているに過ぎません。それでもお疑いならば、会稽太守のもとへお連れください。私は以前、太守のお世話になっていて、面識がございます。おのずと誤解も解けましょう」

 男は理路整然と水が流れるように受け答える。官軍の将と知っても動じることなく。

「……放してやれ」

 孫堅は男を拘束している兵士に命令した。

『真実を言っているのか。それとも、嘘八百か……』

 孫堅は男に厳しい視線を送り付けた。会稽太守と認識があるというのが真実なら、それなりの人物かもしれないが……。

「名は?」

楊謇諤ようけんがくと申します」

「ふ……」

 めているのか。皮肉の笑いがこぼれそうになった。思わず、男を睨みつける。

〝謇諤〟とは正直に言うことを意味する。

『尋問ではボロは出なかった。ならば、道中、その態度を見極めてやる』

 孫堅がこれ程までに怪しむのは、全ては任務を果たそうとする義務感からである。

 率いる兵が少ないため、敵にこちらの動きが漏れてしまえば、壊滅のき目を見るのは確実だ。もう一人の行方はまだつかめない。その男が賊軍に通報すれば、作戦は頓挫とんざする。 

 与えられた任務をまっとうできないことこそ、若き孫堅が最も恐れることだった。

 石碑が立つ崖からはようやく最後の船から兵士が上陸を始めるのが見えた。

 それを指揮する陸康の姿もある。

『陸康殿なら、どう思うだろうか?』

 水にかった体を重そうに運ぶ陸康の姿を認めて、孫堅は思った。

 陸康の部隊が集結するまで少し時間があった。孫堅は楊謇諤と名乗る男が見ていたという石碑に近付き、それを調べようとした。

 そして、何気なく手を触れた時だった――――。


 冷たく澄んだ水が体中を包み込み、押し流すようだった。水の中ではキラキラと光が氾濫はんらんし、たゆたう光の流動が視界をおぼろげにさせていく。石碑が揺らめき、その向こうの海が震えた。これも妖術の成すわざなのか。銭唐嘯に呑み込まれた時のことを思い出した。だが、今回は本当に水中に没したわけではない。あの時とは明らかに違う。現実感がないというのか……けれども、今、自分の身に起きているのは?

 声は聞こえてこない。自分が聾人ろうじんにでもなったのか、一切の音がない。静寂の世界。ただ見えている映像に引き込まれた。と、突然、目の前に華奢きゃしゃな体をくの字に折り曲げた少女がゆっくりと降ってきた。仰向けで眠るのは十代前半とおぼしき少女。その小さな体を包んでいた衣服がゆらりとたなびく。袖先そでさきから泡が零れ出た。

 それを合図にするようにして、少女の全身から噴き出すように泡があふれ、大小いくつもの泡の群れが揺れながら天に昇る。

 やがて、少女の体は全て泡となって消え失せ、いつの間にか石碑を民衆が取り囲んでいる光景に変わった。今度は荒れる川面かわもを前に泣き叫ぶ少女がいた。先程の少女と同じかどうかは分からない。狂ったように地を叩いている。かたわらには石碑の前で地に伏して祈る祈祷師きとうし。うずくまっていた少女は、よろよろと力なく立ち上がり、天に細い両手をかざした。

 祈祷師の後ろで祈りを捧げる人々。それを見守る官僚らしき出で立ちの男。少女はそれら人々の間を水のようにすり抜けた。また少女の体が泡となって分解を始める。

 そして、幾多いくた泡沫ほうまつを道連れに、荒ぶる河に身を投げた――――。


「ああ、待て!」

 伸ばした手がむなしく虚空こくうを摑む。幻影はそこで途切れた。

「何だ、今のは……?」

 孫堅は自分の手を見、石碑を見、周りを見渡した。岸辺の兵士たちは淡々と上陸作業を続けている。周辺警戒の兵士たちも何事もなかったように任務にあたっている。

「……どうやら、清流に触れたようですな」

 孫堅の様子を見て言ったのは、尋問から解放された楊謇諤だった。

「……清流?」

「この石碑は曹娥そうが碑といい、川でおぼれ死んだ父を悲しんで、自らも川に身を投げた曹娥という名の少女の魂をまつったものです。あなたは、その情景を見たのでしょう」

「過去の幻想を見たとでも言うのか?」

 孫堅は信じられないという表情で楊謇諤を見た。その楊謇諤は、

「ご説明差し上げてもよいのですが、まだ賊の一味だと疑われている以上、下手なことは申しますまい。山陰にて疑いが晴れた後に、お望みとあらば、説明致しましょう」

 泰然として言った。顔に柔和にゅうわな笑みを浮かべながら。若き孫堅はどうも軽くあしらわれているようで気に入らない。

佞言ねいげんを吐きおって……』

 確信はない。だが、許昭は妖術を使うという。その一味にも同じような者がいても不思議ではない。怪しげなことを言うこの男に孫堅は一層警戒心を強めた。

 

 楊謇諤を先頭に引き立て、孫堅はその後ろに付いた。山陰への道案内をさせつつ、自ら監視の目を注ぎつつ。陸康には後続部隊を任せてある。

 空には相変わらず厚い暗雲が立ちこめ、辺りは濃い霧に覆われている。

 河岸からは葦原の湿地帯が続く。数日降り続いた雨のせいで、道はいつも以上にぬかるんでいた。河口近くの低地は銭唐嘯のせいで、水浸しになる。塩害もあって、耕作には適さないので、開発が進む山陰でも放置されたままの場所であった。

 孫堅の部隊は視界が効かず、泥に足を取られながらも、一日がかりの行軍で山陰の城郭が臨める地点まで辿り着いた。それは道中、一人の賊徒にも出会わず、順調な行軍だったことが大きい。もう一人の男の行方は分からないままだったが、待ち伏せがなかったということは敵がこちらの動きを察知していないということになる。

 山陰の北には、いつもより水かさを増した湿地帯。その向こうは海。この地形条件が敵の油断を誘っているのか、北側に陣取っている賊徒の数は少ない。

 大分霧が晴れてきてはいたが、敵は背後に迫った官軍に気付いていない様子である。

『見たところ、千もいない。こちらと大差ないな』

 孫堅は葦原の茂みから顔を出して、視界に映った敵の数を推察した。道案内の役目を終えた楊謇諤を連れて行かせるのと入れ替わりに陸康が来て、聞いた。

「今のは?」

「上陸する我等の様子を窺っていた者です。山陰への道案内をさせました」

「賊の一味ですか?」

 陸康は主将の孫堅の顔を立てて、丁寧な口調くちょうで話してくる。孫堅も年長者に敬意を表して、丁寧に応じる。

「まだ何とも言えません。後ではっきりさせるつもりです。それより……」

 孫堅は目の前に展開する情勢から、一気の突撃を提案した。いかにも勇猛果敢な孫堅らしい作戦ではあるが、この時ばかりは陸康も賛成した。

「いいでしょう。悪天候が続いたせいか、城を囲んでいる敵兵力が薄い。敵は明らかに油断しています。この機を逃す手はありません」

 陸康も兵力差を考えて奇襲しかないと考えている。条件が整わなければ賛成しないところだが、幸運にもそのチャンスが到来している。

 兵たちに作戦を伝え、心の準備をさせる。絶対に勝てると言い聞かす。そして、合図。孫堅の率いる五百の精鋭たちが喚声をあげて突貫とっかんした。孫堅が剣を抜いて先頭を走る。それだけで十分だった。籠城ろうじょうして出て来ない官軍を相手にすっかり戦意を低下させていた賊軍は背後からいきなり襲われて余程驚いたのだろう、全く抵抗を見せずに逃げ去った。

 統率がまるで執れていなかったのを見て取った陸康は、

「あれは勢いある賊軍に従っただけの土民たちでしょう。許生の主力が来る前に城に入りましょう」

 冷静に言った。孫堅は頷いて城門へと駆けた。楊謇諤が孫堅の後ろを付いてきている。逃げる素振り、賊軍に応じる素振りは見えなかった。

 孫堅たちが北門のそばに着いた。堅く閉ざされた門扉もんぴ。城郭を巡る堀に架けられた橋は巻き上げられていて、このままでは城内に入ることはできない。

「開門、開門!」

「我等、揚州刺史・臧旻ぞうびん様の命にて援軍に駆け付けた。橋を下ろせ!」

 兵士たちが叫ぶ横で、孫堅は門前に石造りにほこらを認めた。祠からは黒い霧がゆっくりと流れ出ていて、辺りを暗くにじませていた。

『何だ? どうして祠がこんなところに?』

 新たな疑問を感じながら、孫堅はその祠に近付いてみた。

「その祠に近付いてはいけません!」

 楊謇諤がまた怪しげなことを言った。

「文台殿!」

 同時に陸康が叫んだ。兵たちがきもを潰して悲鳴を上げる。騒然とする中、背後に殺気を感じた。振り返ると、そこに化け物がいた。人ほどの大きさがあるあり

「なに……?」

 それがギロリと頭を向けて、漆黒に染まった目に孫堅の姿を映した。普通の人間なら、驚愕きょうがくと恐怖で体が動かなかっただろう。孫堅は違う。巨大蟻のあごが孫堅を食らおうとしたが、咄嗟とっさに古錠刀でそれを防いだ。が、圧力に押されて後方へ跳ね飛ばされた。地面に背中をしたたかに打ちつける。痛みを感じるより先に立ち上がり、剣を構える。ここは戦場だ。全身にみなぎる緊張感と内から沸き上がる勇気がそうさせた。

 死なないための極意。ただし、相手は人間ではない。蟻の化け物。ただし、孫堅文台。武勇絶倫の若武者。勇敢なはずの兵士たちが思わず後ずさりする中、孫堅は剣を構え、化け物を凝視ぎょうしして放さない。

「文台殿!」

 また陸康が叫んだ。化け物が孫堅に襲いかかった。孫堅はみ砕かれる寸前で横に跳んで、すれ違い様に巨大蟻の胴体を斬り払った。巨大蟻の化け物はその一閃いっせんで二つに分断され、黒い霧となって拡散した。それを見た兵士たちが喚声をあげ、落ち着きを取り戻したのも束の間、また兵士たちがおびえた。祠から流れ出す霧の中で、二匹、三匹と同じ蟻の化け物が現れたのだ。

「早く城門を開けてくれ!」

 兵士が悲鳴に似た声で城内の仲間へ叫んだ。異形いぎょうの化け物が勇敢な精兵たちを一瞬にして畏懦いだな弱兵へと変える。

「これが妖術かっ……!」

 この妖術の罠を仕掛けていたために、賊軍の兵力が薄かったのかもしれない。

 蟻の化け物は三匹が群れになって、祠に一番近い場所にいた孫堅を狙った。

 孫堅は一匹を斬り倒し、二匹目、三匹目の攻撃を身をひるがえしてかわす。

「祠を壊すのです!」

 楊謇諤が何とか沈着を保っている陸康に言って、石造りの祠を指し示した。

 言われたままに駆け出した陸康が祠を蹴り倒すのと新たな化け物が出現するのは、ほぼ同時だった。

「くっ……!」

 剣を構えようとして陸康はうなった。剣を握った陸康の腕は麻痺まひしたように動かない。突発的な出来事に体が反応しきれなかったのか、いざ化け物を前にして体がすくんだのか。

「胆が凍りついたか、この老体め……!」

 陸康は不甲斐ないおのれの身を呪った。化け物がその顎で陸康を噛み砕こうとした時、城楼から飛んできた矢が化け物の頭を貫通した。それで陸康は命を拾い、化け物は霧散むさんする。

「橋を下ろせ、城門を開け!」

 矢を放った男が城内にこもる兵士たちに命令して、ようやく城門が開いた。

 兵士たちは我先にと城内へ雪崩なだれ込む。打ち壊された祠からはもはや黒い霧が流れ出ることはなく、それ以上、蟻の化け物を生み出すこともなかった。

 安堵あんどしてようやく体の呪縛も解けたようだ。陸康が孫堅に目をやる。

 孫堅の方は残り二匹の化け物蟻の間をすり抜け、二度剣を振って、決着をつけていた。


 無事入城を果たした孫堅たちはすぐさま会稽太守・尹端いんたんにまみえた。

 援軍の指揮官として丁重ていちょうに迎えられた孫堅と陸康が太守の執務室に通された。

 尹端は老齢ではあったが、鎧を着込んで剣を帯び、臨戦態勢ので立ちだった。

「尹太守、援軍の指揮官をお連れしました。こちらが呉郡司馬の孫文台殿、そして、こちらが副司馬の陸季寧殿です」

 顎髭あごひげを蓄えた壮年の武官が尹端に二人を紹介した。その武官は先程見事な弓の腕前を披露して、陸康の危機を救った人物で、名を朱儁しゅしゅんあざな公偉こういといった。

 朱儁は孫堅たちが上陸した会稽郡上虞県の出身の苦労人である。母子家庭に育ち、貧しい生活を送りながらも母に対する孝養と郷里への人々への義行を当時の上虞県長・度尚どしょうに認められ、時の太守・韋毅いきによって取り立てられて郡吏となった。

 度尚はあざな博平はくへいという。兗州えんしゅう山陽さんよう湖陸こりく県の貧賎ひんせんの出で、若い時には後に清流派の張倹ちょうけんたちと政争を繰り広げることになる濁流派宦官・侯覧こうらんの荘園を見回る仕事をしたこともあり、苦労を重ねた。やがて、その善良な人柄が郡に認められて、県令・郡太守に昇進すると、厳正なまつりごとに務めて当地に安寧をもたらした。

 その後、荊州けいしゅうで起きた反乱討伐にも活躍し、ついには清流派の〝八厨はっちゅう(八人の清義せいぎを養う者)〟の一人に数えられるまでになった人物である。人々は彼を〝海内かいだい清平せいへい度博平〟という七言評で称えた。

 度尚は自分の若き頃と重なる朱儁を認めて感じるものがあったのだろう。

 清流派名士に認められた朱儁は後に赴任してきた尹端にも認められ、尹端のもとで主簿しゅぼという文書係を務めていた。

 許昭の反乱が起こった時、太守の尹端は討伐に乗り出したが、敗北をきっして戦傷を負い、追撃を受けた。太守の危機を知ると、朱儁は文官の身でありながら、鎧をまとい、馬にまたがり、自ら守備兵を統率して城から撃って出た。そして、敗走してきた兵士たちをまとめながら、太守を無事城へと帰還させたのだった。お陰でこの時の被害は最小限にとどめることができた。

 尹端は自ら軍務が長かった経験から朱儁の活躍を高く評価し、その軍才を見抜いて、戦死してしまった会稽郡の司馬に代わり、朱儁に軍務を代行させている。

「お二方、本当によく来て下さった。礼を言いますぞ」

 尹端が立ち上がって二人を迎えた。孫堅は謙遜して返礼した。

「海を渡って来ましたので、わずか五百の兵ではありますが……」

「いやいや、それでも実に有り難い。我が軍は久しく孤立して士気も落ちるばかりでしてな。援軍の到着は兵士たちの心に活力を与えてくれるでしょう。それに賊軍の妖術を見事に打ち破ったと朱儁から聞きました。それは本当に心強い」

 尹端は世辞ではなく、本心からそう思っているようだった。実際、尹端は兵士の士気が原因で敗れたようなものだった。許昭の陣に突っ込んだはいいが、化け物を見て肝を潰した兵士たちは途端に戦意を喪失して逃げ惑うだけだったのだ。

 兵が臆病では勝てるはずがない。そして、今や城へと押し込められ、不安と恐怖にさいなまれる兵たちを何とか鼓舞して、籠城して持ちこたえるのが精一杯の状況だったのだ。

「私も長年戦地を駆け回ったが、あのような術は初めて見た。兵が怯えるのも無理はないと思うが、有効な手立ても考え出せず、今まで兵の心を立て直せずにいたのですよ」

 尹端は曇った顔で、そう心中を告白した。

「しかし、それを変えられるかもしれん。妖術を打ち破れることを教えられましたからな」

 朱儁から一切を聞いたのだろう。尹端が揚々と言った。尹端のその一言を聞き、孫堅は祠を壊せと忠言した謎の中年男のことを思い出した。

「尹太守、実は会っていただきたい者がいるのですが……」

 あの男が陸康に祠を壊すよう忠告したのを孫堅も聞いていた。一体、あの男が何者なのか、この場ではっきりさせたい。

「どなたですかな?」

「行軍の途中で捕えた者です。態度が怪しく、賊の一味かもしれませんが、尹太守に以前世話になっていたというので、確かめていただきたいのです。楊謇諤と名乗っております」

「謇諤といえば、確か……」

 朱儁が反応を示して、尹端と目を合わせる。

「おお、すぐに連れてきてくれ」

 しばらくして、汚れた衣服の楊謇諤が連れられてきた。

「やはり、あなたでしたか。この一年、音沙汰も途絶え、心配しておりましたぞ」

「お久ぶりでございます、尹太守」

 安堵の表情で駆け寄る尹端に楊謇諤は丁寧に拱手を返した。

 この場で見るその拝礼には優美さが漂い、尹端は楊謇諤のその手を取って無事を喜んだ。孫堅はそれを見て、自分のあやまちに気が付いた。

「今までどこにおられたのですか……あー、謇諤殿」

「そう用心しなくとも、この二方は安心です」

 楊謇諤は尹端が孫堅にちらりと目をやって言葉尻を怪しくしたのを察して、隠す必要はないと教える。

「まぁ、そうでしょうな。それにしても、またお会いできるとは喜ばしい」

 楊謇諤にも尹端・朱儁にも笑顔があったが、孫堅にはどうにもならない気まずさだけが残って、表情はこわばったままだ。朱儁がそんな孫堅に気付いて真実を教えてやった。

「貴殿の勇敢さ、戦いぶりは実に見事だったが、とんだへまもしたものだ。この方は決して賊の仲間ではないぞ。朝廷の腐敗勢力に立ち向かった清流派名士、袁正甫えんせいほ様であらせられる。今は濁流派の魔手から逃れるために、この南方に難を避けてきておられる」

「そ、それはっ……!」

 聞くや否や、孫堅は平伏して、

「そうとは知らず、数々の非礼お許しください!」

 素直にびた。民衆が尊敬する高名な士大夫を賊扱いし、侮辱ぶじょくした挙句、剣まで突き付けたのだ。この時代、それは死罪になってもおかしくない大罪だった。

「私もお詫び致します」

 陸康は戦闘前になって孫堅が男を捕えていたことを知ったのだが、やはり、責任を感じて、孫堅にならって平伏した。

「お二方、お立ちください。あなた方に何の罪もない。あるのは、偽名を使い真実を隠さねばならなかった私の方です。さぁ……」

 楊謇諤こと袁忠えんちゅうが二人を助け起こしながら、言葉を続けた。

「それに、お二方と出会わなければ、私はここには戻れなかったでしょう。賊に間違われたとはいえ、こうして山陰に連れ戻していただいたのですから……」

「……恐れ入ります。私は性がそそっかしいとよく言われますが、この度は痛切にそれを思い知らされました。よりによって、清流派の名士様を賊の一味と疑ってしまうとは……。自分の見る目のなさを恥じるばかりです」

 若い孫堅は正義感の強さを自負するだけに、今回の失敗はこたえるものがあった。

 頭を上げた孫堅はまだばつが悪そうにしている。陸康も同様らしい。李粛からの信頼厚い陸康は袁忠という人物のことを聞かされていたが、

「呉の李太守から袁忠様のことを密かに聞いてはおりましたが、まさか、あなた様がそうだとは考えも及びませんでした」

「これは世を忍ぶ仮の姿。追手に見つからぬよう、わざわざこのような姿でいるのです。気付かれぬようにしているのですから、気付かぬのが当然。謝る必要はありません。それに、私はこちらの尹太守にお世話になる前は李太守のお世話になっていました。陸康殿も孫堅殿も呉の人間。私の方こそ礼を言わねばなりません」

 ボロをまとっていても中身はにしき。袁忠が清廉誠実、紛れもなく真の清流派人士であるのはその言葉でもって窺い知れる。

「貴殿の心は清流に触れることができました。それはあなたの志が清く、正義を貫く強さを持っているからです。そこまで私を疑ったことを恥じるのならば、これから私が成すべきことにご助力ください。そうすることで、その恥をすすいでいただきたい」

「それは……?」

 孫堅が聞いた。にわかに城下が騒がしくなった。喚声が聞こえてきて、空気が殺気を帯び始めた。賊軍が攻勢をかけてきたと報告が入った。

「……それは、まず、この賊軍を除くことから始めましょう」

 袁忠が答えた。その言葉に孫堅が力強く頷く。

「このまま籠城してもらちが明きません。北門の祠は壊されました。こちらも攻勢に転じてみてはいかがですか?」

「うむ。援軍も得た。士気も高まっている。妖術も破れると知ったことだし、我等も意地を見せなければな」

 朱儁の進言。尹端の決意。連れてきたのは五百の兵。しかし、運んできたのは勇気と希望。それをもたらしたのは妖術も恐れぬ若き勇者。

 孫堅の活躍は沈んでいた尹端の心も立て直そうとしていた。

 


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る