其之一 立志堅剛

 現代中国では、長江を〝揚子江ようすこう〟と呼ぶことがある。元々、長江下流の別称として使われたのだが、この〝揚〟の字は、かつての揚州から来ている。

 後漢は全土を十三州に分けた。その中の一つ、東南部に位置する揚州の領土はとてつもなく広大で、江水こうすい(長江)を挟んで江北と江南に分かれる。

 江南地域は土地こそ広いのであるが、中原ちゅうげんから遠く、人口が少ないために後漢の時代でも田舎、開発途上のフロンティア地帯という認識が強かった。

 江水の最下流域は〝江東〟という呼称が用いられることがあり、郡と会稽かいけい郡の一部には人が集まって、江東の中心地域となっていた。春秋戦国時代にはそれぞれ〝呉〟と〝越〟という国が存在して栄え、その名残なごりである。呉郡と会稽郡を隔てるのが銭唐江せんとうこうである。

 その銭唐江の北岸が呉郡に、南岸が会稽郡に属す。会稽郡の治所は山陰さんいん県(現在の紹興)に置かれている。この辺りは会稽山麓から流れ出る河川と多くの沼沢が大地を潤す水郷すいごう地帯で、山陰もまた古くから栄えてきた江東の中心都市の一つであった。

 山陰は海に近く、快晴の日には郊外の山頂から大海の水平線を遠望できた。

 だが、曇天どんてんの空の下、城閣から今見ることができるのは、城下を埋め尽くすおびただしい数の賊徒の群れだけだ。

 二年前、熹平きへい元(一七二)年に許昭きょしょうという男が句章くしょう県で起こした反乱は、みるみるうちに規模を拡大し、郡内の数県を席巻せっけんした。数万に膨れ上がった賊徒の勢いは強大で、会稽の官軍は成すすべなく打ち破られる有様で、今や山陰の県城はその賊徒たちに取り囲まれ、完全に孤立していた。

 この反乱の余波で、西や南の山岳地帯では〝山越さんえつ〟と呼ばれる異民族が、東の沿岸部では海賊が許昭に同調するように暴れ回った。会稽郡の北に隣接する呉郡でも海賊や江賊の被害が目立つようになってきていて、郡の仮尉かい(警察長官代理)を務めていた孫堅そんけんは、その摘発に追われていた。

 時に熹平三(一七四)年、孫堅文台ぶんだい、十九歳の夏のことである。

 今、孫堅は故郷である呉郡富春ふしゅん県の実家にいた。

「随分と久しぶりだな、堅」

 座るなり、そう切り出したのは兄の孫羌そんきょうあざな聖台せいだいである。無骨ぶこつで豪気な孫堅と比べると、穏やかそうな印象が際立つ。声音こわねも柔らかい。そんな兄と接すると、自然と孫堅の態度も謙虚な弟の姿に戻る。

「はい。御無沙汰しておりました」

 窓越しに小さな庭園を臨める客間に落ち着いて、兄弟が語り始める。

「郡の役人とはそんなに忙しいものなのか?」

「私の場合は特別です。兄上も御存知の通り、許昭の反乱に乗じて海賊や盗賊共が暴れ回っているので、郡尉である私は休むいとまもありません。実はこの度も郡の仮司馬かしばとして討伐軍に参加することになった次第を知らせに戻ったのです」

 司馬とは軍務の副官のことである。仮なので、見習いということになる。

「いよいよ事態は切迫しているのだな」

 孫羌の穏やかな表情が崩れて、険しいものになった。

「はい。討伐軍が起こされてすでに二年が経ちますが、未だ許昭の討伐は果たされていません。それどころか賊徒の勢いは増すばかり、この富春の近くにまで迫っていると聞きます。とてもじっとしてはいられません。私は民衆の苦しみを除くため、賊徒を討ち滅ぼす手助けをしたいと思い、討伐軍への参加を志願したのです」

「自ら志願したのか」

 孫羌は聞いても驚きはしなかった。正義感が強く、熱血漢の弟なら、それも当然かと思ったまでだ。

「確かにこのまま賊の勢いに任せていたら、すぐにこの富春も呑み込まれてしまうかもしれないな。先日、銭唐の付近でまた江賊が出没したようだ」

 江賊とは江水や銭唐江など江南の大河を縄張りとした盗賊のことをいった。

 小型の快速船を駆使くしして、物資を輸送する商船を襲い、河沿いの街に上陸して略奪行為を働く。彼らもまた、許昭の反乱による州郡の動揺に付け込むようにして、暴れ回っているのだ。

「ええ、呉家で聞きました」

 銭唐には身重の妻が里帰りしている。妻の実家は呉氏で、孫堅はそこの娘を妻としたばかりだった。孫堅は銭唐の呉家に立ち寄った後で、富春の実家に戻ってきていた。

 富春県城の南を富春水ふしゅんすいという川が流れていて、その下流は川幅が大きく広がって大河となり、銭唐という地名をとって銭唐江と呼ばれる。また、曲がりくねった川筋から浙江せっこうと言うこともある。その対岸は会稽郡である。つまり、富春水・銭唐江は呉郡と会稽郡を分ける郡境であり、同時に、呉郡にとっては賊の侵入を防ぐ絶対防衛線でもある。

 そんな事情もあって、討伐軍を率いる揚州刺史しし臧旻ぞうびんは富春水のほとり、呉山の麓に本陣を敷いて、そこを橋頭堡きょうとうほとして討伐作戦を指揮しているのだ。

 そこからおよそ百里(四十キロメートル)東南に孫堅の故郷、富春県があった。

「お前のことだ。決意は堅いのだろう?」

「はい」

「立派なこころざしだ。止めはしないが、無茶はするなよ」

「はい。家のことは万事、兄上にお任せいたします」

「任せておけ。……そうだ、これを持ってゆけ」

 孫羌は自らが帯びていた細身の剣を弟に差し出した。

「我が孫家に代々伝わる古錠刀こていとうだ。成人した時に父から譲られたものだが、私が持っていても宝の持ち腐れだ。これは武芸の達者なお前が持つに相応しい。これで武勲を立ててくれ」

「ありがとうございます、兄上」

 孫堅は丁重ていちょうにその餞別せんべつを受け取った。軽い。しなやかな薄刃うすばの刀身。名刀の誉れ高いことは一瞬で感じ取れる。剣の側面には〝兵者国之大事〟の六字が刻印されている。『孫子兵法』の序文、〝兵とは国の大事なり〟の一文だ。

 さかのぼれば、孫堅の一族は戦国時代の著名な兵法家・孫武そんぶ末裔まつえいであるという。それは孫堅の誇りだった。

「この剣で必ず民の苦しみを断ち切ってみせます」

 孫堅はそう宣言して、早速その伝家の宝刀を帯びた。募る使命感。一刻も早く軍務に戻らねば。

「では、兄上。今日は報告に上がっただけですので、私はもう行きます」

「そうか。父は留守だが、母には会ってゆけよ」

「はい、もちろんです」

 兄に言われた通り、孫堅は厨房にいた母に帰任の挨拶をした。母は久しぶりに帰郷した息子に富春水で捕れた魚を仕入れてきて、手料理を振る舞おうと、せわしく動いていた。

「堅や、もう行ってしまうのかい? せっかく食事の用意もしているのに……」

「申し訳ありません、母上。すぐにお役目に戻らなければならないのです」

「お役目に熱心なのはいいけれど、お前は昔から気がはやるのが玉にきずです。くれぐれも無茶はしないでおくれよ」

「分かっていますよ。しばらく戻れませんが、母上、お元気で」

 凛々りりしい息子の顔。息子の成長は嬉しくもあるが寂しくもある。それは親なら、誰もが感じることなのだろう。しかし……。

 母はかすかな溜め息とともに黙ってうなずくしかなかった。


 碧水へきすいを満々とたたえた富春水は美しく、その両岸にはやはり碧山へきざんが連なっている。

 かつて後漢を開いた光武帝こうぶていの学友・厳光げんこうあざな子陵しりょうはこの碧水碧山の景観を大層気に入って、この地に移って隠れ住み、のんびりと釣り糸を垂れたという。

 そのように、この辺りは人々の心を捉える絶好の景勝地であるのだが、幼少の頃からこの景色を見慣れている孫堅にとっては、何ら特別なものではない。ただ、息を殺して暗黒の富春水に揺られるのは初めての経験で、神経をぎ澄まして闇に目をらし、周囲に耳を澄ます。

 無言。暗黙。静まり返った空間にが水を切る音だけがやけに響いた。

 まだ未明の内から富春水に漕ぎ出す小舟の一団があった。地元の川漁師たちのものだ。その舟一そうに四、五人の兵士が乗っている。総勢五十名。率いるのは、孫堅。

 富春水を熟知し、目をつぶってでも自在に舟を操れるというベテランの川漁師を船頭にして、対岸を目指す。明後日にも行われる討伐軍の渡河作戦を前に対岸の賊軍の情報を入手しておく――――孫堅が故郷の富春に戻ったのは、この任務のためだった。

 富春から対岸に渡れば、賊軍に包囲されているという山陰の背後をうかがえる。

 富春が孫堅の地元だということもあって、郡守から孫堅に直々じきじきの要請があり、孫堅は自ら富春出身の者をりすぐって偵察に出たのだった。

 川を半分ほど横切ったあたりで、うっすらと夜が白み始めた。小舟は静かに朝靄あさもやの富春水を渡って行く。

 ドドドドド……!

 ふと、静寂を破り、馬群が大地を蹴るような音が聞こえてきた。どういうことだ?

「……何の音だ?」

 孫堅は自ら沈黙を破って、隣の舟に乗っていた徐真じょしんに聞いた。

 徐真も富春の人で、少年時代から気心知れた孫堅の友人であり、後に孫堅の妹をめとることになる人物である。

「対岸に賊軍が潜んでいるのでは?」

 徐真は声を潜めて答えた。だが、対岸は山である。まさかその向こう、千里の彼方かなたから賊の大軍が押し寄せる音が静寂の空気を震わせているのか?

 地鳴りのような音は確実に大きくなってくる。近付く馬群は千、いや、それ以上を想像させる。正体不明の不気味なその音に舟上でうろたえる兵士たち。

『何だ……目の前は山、ここは川の上だぞ……!』

 事態を把握しようとして辺りを見回し、答えを探そうとするが、濃い朝靄がそれをはばむ。水面が震えた。

「まさか……!」

 あり得ないと思った。だが、視線は川の下流へ向けられていた。そして、孫堅の双眸そうぼうがそのあり得ないものを捉えた。轟音ごうおんとともに迫り来る波濤はとう。それは、巨龍のように首をもたげて、あっという間に人と小舟とを呑み込んだ。

『……水は大地に出で、集まりて河となり、大地を流れる』

 暗黒の世界、暗い水中に放り込まれて、孫堅は声を聞いた。

『……水とは人の根幹、河は人の営み、大地は人のもといなり』

 荒れ狂う激流にまれながら、それは孫堅の心に直接染み入るかのように聞こえていた。静かで、穏やかで、とても澄んだ声だった。

『……水とは五行ごぎょうはじめ。逆流は人君の恩、下に及ばずにして起こる。……今は正しきことが行われず、世の流れは暗く濁っている』

 それは夢か幻のようで、非現実な感覚でもあり、死中を漂うかのような臨死体験のようでもあり、もしかしたら、これで死ぬのか、と思った。

なんじ、強き志操を貫き、これを正せ。清き魂をもって、大地をまつるのだ……』

 しかし、その声は生きるべき指標を示すように孫堅の心を押した。

 激流にひとしきり蹂躙じゅうりんされた後、孫堅が漂着したのは始まりの場所。富春の岸辺だった。


 揚州刺史・臧旻が呉山の麓に設陣して数日が経った頃、呉の郡兵が陣に合流した。

 呉山は銭唐江に突き出た小高い山で、その北に入り江のようになった浅い湖があった。その湖は銭唐江と細い水路で繋がっていて、臧旻はその湖に渡河用の小船を集めていた。しかし、それからしばらく戦況は膠着こうちゃく状態に陥って久しい。

 その理由は……。

「許昭の主力は富春水対岸に集結、こちらを渡河させぬ構えです。また、許生きょせいが率いる賊軍が依然、山陰を包囲しています。会稽太守の尹端いんたん殿はかつてきょう族の反乱鎮圧に貢献した方です。五千程度の賊軍相手なら、守り抜いてくれるでしょう」

 何ら味気ない情報と気休めの意見を述べたのは、呉郡太守の李粛りしゅく。呉郡に仕える孫堅の上官に当たる。

「……いや、今や会稽の郡兵は敗れ疲れ、兵力差も歴然としている。私も尹端の力量は疑わぬが、此度こたびの賊軍は何か計り切れぬ。すぐにでも救援軍を差し向けるべきだと思う」

 揚州刺史の臧旻は言ってみたものの、歯切れが悪い。河岸に陣取れば、敵の侵入を防ぐには良かったが、対岸まで進出した敵にとっても同じことだからだ。

 刺史とは州の長官をいう。しかし、通常、刺史の任務は州内の監察であるので、軍権はない。州内で一郡を越えるような大規模な反乱などがあった場合にのみ、朝廷から臨時で軍権を付与されて、郡県の兵を統率下におき、その鎮圧にあたるのである。

 今は刺史の臧旻のもとで各軍が統率されているが、これはまさしく非常事態を意味していた。そこにさらなる非常事態が届く。

「申し上げます。只今、丹陽たんようからの使者が到着致しました」

 取り次ぎの兵からの報告を受けて、

「すぐに通せ」

 臧旻は一端、許昭の賊軍のことを頭の隅に追いやって、もう一つの難題に向き合わなければならなかった。そして、それを知らせるべく、鎧を着込んだ若い兵士が通されて、ひざまずいて報告した。

「丹陽太守・陳夤ちんいんの書簡を持参致しました」

「これへ」

 李粛がその兵士から書簡を受け取って、臧旻に手渡した。

 無言で書簡に目を通す臧旻の表情がこわばる。良くない知らせだというのは明らかだった。

「……了解した。陳夤には鎮圧次第、合流するように伝えよ」

「ハッ!」

 若い兵士はよどんだ雰囲気に配慮することなく、明朗な返事を残して去って行った。

「許昭め、妖術で山越をたぶらかしでもしたか?」

 臧旻が顔をゆがめて、独り言のように呟いた。丹陽郡は呉郡の西に隣接しており、その山間部には山越賊という異民族が隠れ住んでいて、漢朝の支配に従わず、度々反乱を起こしてきた歴史があった。

 丹陽太守・陳夤からの書簡の内容は、その山越族の反乱が大規模かつゲリラ的で、鎮圧には時間を要す。すぐには合流できない――――というものだった。

 このところ、凶報ばかりが伝えられる。山越、海賊、江賊、許昭、妖術……。

「臧使君しくんは許昭の妖術を信じておいでなのですか?」

 孫堅は臧旻と李粛のやり取りを黙って聞いていた。李粛は孫堅の能力を高く買っていたので、自分の副官としてこの軍議にも参加させていたのだった。

 孫堅も妖術という言葉を聞くのは初めてではない。ちまたで騒がれているのだ。許昭は妖術を使うと……。

「この目で見たわけではない。みだりに信じはせぬが、これだけ騒ぎが大きくなっていることを考えれば、何かしらのまやかしを使うのであろう。油断はできぬ」

 許昭の反乱は二年前から続いている。首謀者の許昭は〝陽明ようめい皇帝〟と称し、父の許生を越王に立て、仰々ぎょうぎょうしい反乱であった。その時は臧旻が州郡の兵を動員して容易に打ち破り、臧旻自身も単なる土着民の反乱としか感じなかった。しかし、いくら敗走した許昭の行方を追えど、一向に捕らえることはできず、こうして再び勢力を集めて暴れている。

 何か奇妙な力で打ちはぐらかされたような感覚が強く残っている。妖術という言葉を意識し過ぎるあまりの錯覚かもしれないが……。

「これが許昭の妖術が成す技だったのかは定かではないのですが……」

 李粛はこのタイミングで孫堅が体験した事変を報告した。

「昨夜富春水を渡河しようとした我が部下の偵察部隊が突然の逆波さかなみに呑み込まれました」

「逆波?」

「はい。銭唐江では時々〝銭唐嘯せんとうしょう〟と呼ばれる川の逆流現象が起こるのだそうです。しかし、昨夜のような大波が富春まで遡ってきたことは、未だかつてなかったと聞きました」

 李粛は孫堅から聞いた銭唐嘯の話をそのまま臧旻に伝えた。都・洛陽らくようにほど近い予州潁川えいせん郡の出身である李粛は、南方の地理風俗にはうとかった。

「聞いたことがある。伍公ごこう怨念おんねんだとか言っていたな」

 一方、臧旻の方はいくらか風土に通じていた。江水(長江)を挟んで北に隣接する徐州広陵こうりょう郡出身の臧旻は、実は以前呉郡太守を務めたことがある。此度はその頃の経験が買われての揚州刺史就任であり、土地勘を生かして呉山への設陣であった。

「伍公の怨念の話も許昭の妖術の噂も、この土地の迷信深さが根底にある。それを 許昭に利用されて、大衆が妄動もうどうしているのだ」

 実際、迷信深い地元父老たちの間では、伍子胥ごししょの怨念が逆流を起こしているのだと言って、銭唐嘯を不吉なものとして捉えていた者も多かった。

 此度の許昭の反乱についても、伍子胥の怨念が呉を滅ぼそうとしているのだという呪詛じゅそ説が信憑性しんぴょうせいを帯びて広がったせいで、呉郡各地の伍子胥の祠廟しびょうで祭祀とそなえ物が絶えない。

 伍子胥とは春秋時代末期の呉の名臣・伍員ごいんあざな子胥のことで、地元民なら誰もが知っている古代の英雄である。彼は孫堅の遠い祖先で、『孫子兵法』の著者である孫武と共に呉を強国に導いた功臣であったが、晩年呉王・夫差ふさにいわれなきとがを受け、自害を命じられてしまう。失意といきどおりで胸を満たした伍子胥は呉が滅ぶことを予言すると、夫差を呪って自害した。怒った夫差はその遺体を川に投げ捨てたという。

 しかし、伍子胥の死後、時を経ずして呉は滅び、夫差も死ぬ。

 伍子胥がそんな悲劇的な末路を辿ったからか、彼の荒ぶる魂がこの地に舞い戻

ってきた時、逆流となって現れる――――いつの頃からかそんな迷信が語り継がれ、それを信じる父老たちは伍子胥の霊廟を祀って、鎮魂を祈った。

 一方、無垢むくな子供たちは川の逆流現象などに意味も吉凶も求めはしない。好奇心旺盛な子供たちはただ歓声をあげて、そのスペクタクルに満ちた自然現象を夢中で追いかけるだけだった。

 地元の人間である孫堅も十五の頃に友人たちと銭唐嘯を見学するために遠出をしたことがある。それが昨夜、突如として孫堅たちに牙をいたのだ。

 十五の時に見た逆波よりももっと巨大で荒々しい波が彼らを呑み込んだ。泳ぎの達者な者を集めていたにもかかわらず、半数以上が行方知れずになってしまった。

「その逆波も偶然とは言い切れぬということか……」

 臧旻は眉間みけんに寄せたしわまむようにして言った。悩みの種は増えるばかりである。

「それが許昭の仕業しわざであれ何であれ、何としても軍勢を渡河させねばならぬ。ここでこのまま足踏みしていては討伐どころの話ではない。これでは会稽を救えぬぞ」

「しかし、もしや許昭が噂通り妖術を使い、逆波を操れるとしたら、下手に渡河するのは危険ではないでしょうか?」

 李粛は銭唐嘯と許昭の妖術を結び付けて、不安げな顔で言った。こういう議論こそ許昭の妖術に翻弄ほんろうされていることになる。臧旻はそう感じて、

「将とは泰然たいぜん自若じじゃくに構えるものだ。余り妖術のことは言うな。兵が動揺してしまうぞ」

「は……」

 李粛はそうたしなめられて、頭を下げた。

 時と命をいっせずに、どうやって渡河し、いかに会稽の軍民を救うか。

 臧旻はずっと卓上に広げられた地図をにらんでいたが、ようやく、逆の発想に気付いた。

「山陰を囲む許生を打ち破って会稽の郡兵を救うことができたら、許昭を挟撃できる態勢が整う。対岸に陣取った許昭も退かざるを得まい。そうすれば、我らも無事渡河できよう」

「なるほど。一石二鳥というやつですな。ただ、援軍を送るにしても、どうしても渡河させる必要がありますが……」

「うむ」

 予定は大きく狂っていた。勇猛と名高い丹陽の郡兵が山越族の反乱鎮圧のため、合流できなくなった。海賊や江賊の襲撃に備えるため、呉郡の郡兵投入にも限度がある。会稽の郡兵は賊に包囲され、身動きが取れない。三郡の兵を結集し、主力の揚州軍と併せて一気に賊軍を殲滅せんめつするつもりであった臧旻の目論見もくろみは大きく崩れている。今に始まったことではない。二年前、許昭という災禍さいかを完全に排除することができなかった時から始まったことなのだ。

「ここで渡河できぬなら、別の場所を選べばよいのだ」

 臧旻が卓上の地図、銭唐と富春の辺りを指でトントンと叩いた。

「何か良い策はございますか?」

「あるが、それには一人の勇将がいる」

「是非、その策をお聞かせください」

 李粛は身を乗り出すように言った。臧旻が地図を指し示しながら、説明を始める。

「恐らく山越の反乱も海賊の横行も許昭が扇動したものだろう。まず、その連携を分断する。軍から少数精鋭を選んで海賊を討ち、その船で海を渡らせるのだ。ここから遠く離れた海ならば、許昭の手も及ぶまい。そして、そのまま山陰への援軍と為す。大軍を動かせば、許昭も気付いて警戒するだろう。警戒をさせないためには、せいぜい海賊を追い払う程度だと思わせるぐらいの兵力でなければならん」

 臧旻の指が地図上を動く。その指は西の富春から迂回うかいして渡河する従来の作戦とは反対に、東の海上を迂回して山陰の北に上陸するルートだ。

「海賊船を奪っても、乗り込める人数は限られるであろうからな。さらに、会稽へ渡っても、山陰を囲む数千の賊徒を相手にすることになる。下手をすれば、全滅もあり得る。だからこそ、それを恐れずに作戦を全うできる勇将が必要になるのだ。もちろん、それに従う勇兵もだ」

「ここにその勇将がおりますぞ」

 李粛がここぞとばかり、かたわらの孫堅を紹介した。赤い頭巾がまぶしい体格の良い若武者だ。臧旻の視線と李粛の意を受け、孫堅が臧旻に向かってうやうやしく拱手きょうしゅする。

「呉の仮司馬、孫堅文台でございます」

「孫堅……?」

「お聞き及びございませんか? 二年前、たった一人で海賊を追い払った富春の孫文台でございます」

「……思い出した! 弱冠十七にして勇名をせた、あの孫堅か!」

 今度は臧旻が身を乗り出すようにして立ち上がった。

「はい。賊徒討伐に役立つと思い、郡司馬として連れて参りました。まさに此度の任務にうってつけの人物と言えましょう」

 李粛が自信満々に孫堅を推薦した。

 二年前、孫堅は父と銭唐で用を済ませた帰路で、略奪を働き終え、休息中の江賊の一団と遭遇した。河岸で得物えものを広げ、悪気もなく自らの武勇談に花を咲かせ、誘拐した娘をたぶらかそうとしているところだった。人一倍正義感の強かった孫堅はその傍若無人ぼうじゃくぶじんぶりに激怒し、父の制止を振り切ると、迷うことなく単身その中に飛び込んで、あっという間に江賊数人を斬り払い、あたかも官軍を指揮するかのごとく大声をあげ、剣を振った。江賊たちもまさか自分たちを襲った相手が若者一人だけとは想像がつかず、孫堅の芝居にすっかりだまされて、略奪した得物を全部放り出し、あわてて遁走とんそうしたのだった。

 この時に助けた娘が妻の呉氏だ。一人の若者が賊徒を追い払ったという胸のすくような英雄譚はあっという間に民衆の間に広まった。それは当時、許昭討伐の指揮を執っていた臧旻の耳にも届いた。そして、その功績により、孫堅は呉郡の仮尉(警察署長見習い)に取り立てられ、以来、李粛の信頼も厚い。

「おお、凶報ばかりかと思っていたが、こればかりは吉報だ。孫文台ならば、適任だ。この任、引き受けてくれるか?」

 固く拱手を結んだままの孫堅は、すでにその任務を拝受する心構えができている。

「もちろんでございます。民衆の憂いをはらうためなら、命もいといません」

 孫堅は力強く答えた。兄や母との約定やくじょうはすっかり頭にない。いや、例えそれがあったとしても、孫堅の熱い正義感がそれをがえんんじないだろう。

「その心意気は嬉しいが、命を軽んじるでないぞ。君のような義にあつい若者はこれからの時代、必ず必要になってくる」

 臧旻にそう言われて、ようやく兄や母と交わした会話を思い出した。

我等われらはここで渡河すると見せかけて、許昭の目を釘付けにする。会稽に渡っても、許生の囲みを突破できないようなら、攪乱かくらんに専念するのだ。会稽太守の尹端は軍の扱いに長じておる。その動きを読んで、巧く呼応してくれよう」

 臧旻はその正義感ゆえ血気に逸りがちな若者にさとすように言った。

「心得ました」

 孫堅はかしこまって答えた。こうして、趨勢すうせいを左右しかねない大事が一人の若武者に託された。



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