其之一 立志堅剛
現代中国では、長江を〝
後漢は全土を十三州に分けた。その中の一つ、東南部に位置する揚州の領土はとてつもなく広大で、
江南地域は土地こそ広いのであるが、
江水の最下流域は〝江東〟という呼称が用いられることがあり、
その銭唐江の北岸が呉郡に、南岸が会稽郡に属す。会稽郡の治所は
山陰は海に近く、快晴の日には郊外の山頂から大海の水平線を遠望できた。
だが、
二年前、
この反乱の余波で、西や南の山岳地帯では〝
時に熹平三(一七四)年、孫堅
今、孫堅は故郷である呉郡
「随分と久しぶりだな、堅」
座るなり、そう切り出したのは兄の
「はい。御無沙汰しておりました」
窓越しに小さな庭園を臨める客間に落ち着いて、兄弟が語り始める。
「郡の役人とはそんなに忙しいものなのか?」
「私の場合は特別です。兄上も御存知の通り、許昭の反乱に乗じて海賊や盗賊共が暴れ回っているので、郡尉である私は休む
司馬とは軍務の副官のことである。仮なので、見習いということになる。
「いよいよ事態は切迫しているのだな」
孫羌の穏やかな表情が崩れて、険しいものになった。
「はい。討伐軍が起こされてすでに二年が経ちますが、未だ許昭の討伐は果たされていません。それどころか賊徒の勢いは増すばかり、この富春の近くにまで迫っていると聞きます。とてもじっとしてはいられません。私は民衆の苦しみを除くため、賊徒を討ち滅ぼす手助けをしたいと思い、討伐軍への参加を志願したのです」
「自ら志願したのか」
孫羌は聞いても驚きはしなかった。正義感が強く、熱血漢の弟なら、それも当然かと思ったまでだ。
「確かにこのまま賊の勢いに任せていたら、すぐにこの富春も呑み込まれてしまうかもしれないな。先日、銭唐の付近でまた江賊が出没したようだ」
江賊とは江水や銭唐江など江南の大河を縄張りとした盗賊のことをいった。
小型の快速船を
「ええ、呉家で聞きました」
銭唐には身重の妻が里帰りしている。妻の実家は呉氏で、孫堅はそこの娘を妻としたばかりだった。孫堅は銭唐の呉家に立ち寄った後で、富春の実家に戻ってきていた。
富春県城の南を
そんな事情もあって、討伐軍を率いる揚州
そこからおよそ百里(四十キロメートル)東南に孫堅の故郷、富春県があった。
「お前のことだ。決意は堅いのだろう?」
「はい」
「立派な
「はい。家のことは万事、兄上にお任せいたします」
「任せておけ。……そうだ、これを持ってゆけ」
孫羌は自らが帯びていた細身の剣を弟に差し出した。
「我が孫家に代々伝わる
「ありがとうございます、兄上」
孫堅は
「この剣で必ず民の苦しみを断ち切ってみせます」
孫堅はそう宣言して、早速その伝家の宝刀を帯びた。募る使命感。一刻も早く軍務に戻らねば。
「では、兄上。今日は報告に上がっただけですので、私はもう行きます」
「そうか。父は留守だが、母には会ってゆけよ」
「はい、もちろんです」
兄に言われた通り、孫堅は厨房にいた母に帰任の挨拶をした。母は久しぶりに帰郷した息子に富春水で捕れた魚を仕入れてきて、手料理を振る舞おうと、せわしく動いていた。
「堅や、もう行ってしまうのかい? せっかく食事の用意もしているのに……」
「申し訳ありません、母上。すぐにお役目に戻らなければならないのです」
「お役目に熱心なのはいいけれど、お前は昔から気が
「分かっていますよ。しばらく戻れませんが、母上、お元気で」
母は
かつて後漢を開いた
そのように、この辺りは人々の心を捉える絶好の景勝地であるのだが、幼少の頃からこの景色を見慣れている孫堅にとっては、何ら特別なものではない。ただ、息を殺して暗黒の富春水に揺られるのは初めての経験で、神経を
無言。暗黙。静まり返った空間に
まだ未明の内から富春水に漕ぎ出す小舟の一団があった。地元の川漁師たちのものだ。その舟一
富春水を熟知し、目を
富春から対岸に渡れば、賊軍に包囲されているという山陰の背後を
富春が孫堅の地元だということもあって、郡守から孫堅に
川を半分ほど横切ったあたりで、うっすらと夜が白み始めた。小舟は静かに
ドドドドド……!
ふと、静寂を破り、馬群が大地を蹴るような音が聞こえてきた。どういうことだ?
「……何の音だ?」
孫堅は自ら沈黙を破って、隣の舟に乗っていた
徐真も富春の人で、少年時代から気心知れた孫堅の友人であり、後に孫堅の妹を
「対岸に賊軍が潜んでいるのでは?」
徐真は声を潜めて答えた。だが、対岸は山である。まさかその向こう、千里の
地鳴りのような音は確実に大きくなってくる。近付く馬群は千、いや、それ以上を想像させる。正体不明の不気味なその音に舟上でうろたえる兵士たち。
『何だ……目の前は山、ここは川の上だぞ……!』
事態を把握しようとして辺りを見回し、答えを探そうとするが、濃い朝靄がそれを
「まさか……!」
あり得ないと思った。だが、視線は川の下流へ向けられていた。そして、孫堅の
『……水は大地に出で、集まりて河となり、
暗黒の世界、暗い水中に放り込まれて、孫堅は声を聞いた。
『……水とは人の根幹、河は人の営み、大地は人の
荒れ狂う激流に
『……水とは
それは夢か幻のようで、非現実な感覚でもあり、死中を漂うかのような臨死体験のようでもあり、もしかしたら、これで死ぬのか、と思った。
『
しかし、その声は生きるべき指標を示すように孫堅の心を押した。
激流にひとしきり
揚州刺史・臧旻が呉山の麓に設陣して数日が経った頃、呉の郡兵が陣に合流した。
呉山は銭唐江に突き出た小高い山で、その北に入り江のようになった浅い湖があった。その湖は銭唐江と細い水路で繋がっていて、臧旻はその湖に渡河用の小船を集めていた。しかし、それからしばらく戦況は
その理由は……。
「許昭の主力は富春水対岸に集結、こちらを渡河させぬ構えです。また、
何ら味気ない情報と気休めの意見を述べたのは、呉郡太守の
「……いや、今や会稽の郡兵は敗れ疲れ、兵力差も歴然としている。私も尹端の力量は疑わぬが、
揚州刺史の臧旻は言ってみたものの、歯切れが悪い。河岸に陣取れば、敵の侵入を防ぐには良かったが、対岸まで進出した敵にとっても同じことだからだ。
刺史とは州の長官をいう。しかし、通常、刺史の任務は州内の監察であるので、軍権はない。州内で一郡を越えるような大規模な反乱などがあった場合にのみ、朝廷から臨時で軍権を付与されて、郡県の兵を統率下におき、その鎮圧にあたるのである。
今は刺史の臧旻のもとで各軍が統率されているが、これはまさしく非常事態を意味していた。そこにさらなる非常事態が届く。
「申し上げます。只今、
取り次ぎの兵からの報告を受けて、
「すぐに通せ」
臧旻は一端、許昭の賊軍のことを頭の隅に追いやって、もう一つの難題に向き合わなければならなかった。そして、それを知らせるべく、鎧を着込んだ若い兵士が通されて、
「丹陽太守・
「これへ」
李粛がその兵士から書簡を受け取って、臧旻に手渡した。
無言で書簡に目を通す臧旻の表情が
「……了解した。陳夤には鎮圧次第、合流するように伝えよ」
「ハッ!」
若い兵士は
「許昭め、妖術で山越を
臧旻が顔を
丹陽太守・陳夤からの書簡の内容は、その山越族の反乱が大規模かつゲリラ的で、鎮圧には時間を要す。すぐには合流できない――――というものだった。
このところ、凶報ばかりが伝えられる。山越、海賊、江賊、許昭、妖術……。
「臧
孫堅は臧旻と李粛のやり取りを黙って聞いていた。李粛は孫堅の能力を高く買っていたので、自分の副官としてこの軍議にも参加させていたのだった。
孫堅も妖術という言葉を聞くのは初めてではない。
「この目で見たわけではない。
許昭の反乱は二年前から続いている。首謀者の許昭は〝
何か奇妙な力で打ちはぐらかされたような感覚が強く残っている。妖術という言葉を意識し過ぎるあまりの錯覚かもしれないが……。
「これが許昭の妖術が成す技だったのかは定かではないのですが……」
李粛はこのタイミングで孫堅が体験した事変を報告した。
「昨夜富春水を渡河しようとした我が部下の偵察部隊が突然の
「逆波?」
「はい。銭唐江では時々〝
李粛は孫堅から聞いた銭唐嘯の話をそのまま臧旻に伝えた。都・
「聞いたことがある。
一方、臧旻の方はいくらか風土に通じていた。江水(長江)を挟んで北に隣接する徐州
「伍公の怨念の話も許昭の妖術の噂も、この土地の迷信深さが根底にある。それを 許昭に利用されて、大衆が
実際、迷信深い地元父老たちの間では、
此度の許昭の反乱についても、伍子胥の怨念が呉を滅ぼそうとしているのだという
伍子胥とは春秋時代末期の呉の名臣・
しかし、伍子胥の死後、時を経ずして呉は滅び、夫差も死ぬ。
伍子胥がそんな悲劇的な末路を辿ったからか、彼の荒ぶる魂がこの地に舞い戻
ってきた時、逆流となって現れる――――いつの頃からかそんな迷信が語り継がれ、それを信じる父老たちは伍子胥の霊廟を祀って、鎮魂を祈った。
一方、
地元の人間である孫堅も十五の頃に友人たちと銭唐嘯を見学するために遠出をしたことがある。それが昨夜、突如として孫堅たちに牙を
十五の時に見た逆波よりももっと巨大で荒々しい波が彼らを呑み込んだ。泳ぎの達者な者を集めていたにもかかわらず、半数以上が行方知れずになってしまった。
「その逆波も偶然とは言い切れぬということか……」
臧旻は
「それが許昭の
「しかし、もしや許昭が噂通り妖術を使い、逆波を操れるとしたら、下手に渡河するのは危険ではないでしょうか?」
李粛は銭唐嘯と許昭の妖術を結び付けて、不安げな顔で言った。こういう議論こそ許昭の妖術に
「将とは
「は……」
李粛はそうたしなめられて、頭を下げた。
時と命を
臧旻はずっと卓上に広げられた地図を
「山陰を囲む許生を打ち破って会稽の郡兵を救うことができたら、許昭を挟撃できる態勢が整う。対岸に陣取った許昭も退かざるを得まい。そうすれば、我らも無事渡河できよう」
「なるほど。一石二鳥というやつですな。ただ、援軍を送るにしても、どうしても渡河させる必要がありますが……」
「うむ」
予定は大きく狂っていた。勇猛と名高い丹陽の郡兵が山越族の反乱鎮圧のため、合流できなくなった。海賊や江賊の襲撃に備えるため、呉郡の郡兵投入にも限度がある。会稽の郡兵は賊に包囲され、身動きが取れない。三郡の兵を結集し、主力の揚州軍と併せて一気に賊軍を
「ここで渡河できぬなら、別の場所を選べばよいのだ」
臧旻が卓上の地図、銭唐と富春の辺りを指でトントンと叩いた。
「何か良い策はございますか?」
「あるが、それには一人の勇将がいる」
「是非、その策をお聞かせください」
李粛は身を乗り出すように言った。臧旻が地図を指し示しながら、説明を始める。
「恐らく山越の反乱も海賊の横行も許昭が扇動したものだろう。まず、その連携を分断する。軍から少数精鋭を選んで海賊を討ち、その船で海を渡らせるのだ。ここから遠く離れた海ならば、許昭の手も及ぶまい。そして、そのまま山陰への援軍と為す。大軍を動かせば、許昭も気付いて警戒するだろう。警戒をさせないためには、せいぜい海賊を追い払う程度だと思わせるぐらいの兵力でなければならん」
臧旻の指が地図上を動く。その指は西の富春から
「海賊船を奪っても、乗り込める人数は限られるであろうからな。さらに、会稽へ渡っても、山陰を囲む数千の賊徒を相手にすることになる。下手をすれば、全滅もあり得る。だからこそ、それを恐れずに作戦を全うできる勇将が必要になるのだ。もちろん、それに従う勇兵もだ」
「ここにその勇将がおりますぞ」
李粛がここぞとばかり、
「呉の仮司馬、孫堅文台でございます」
「孫堅……?」
「お聞き及びございませんか? 二年前、たった一人で海賊を追い払った富春の孫文台でございます」
「……思い出した! 弱冠十七にして勇名を
今度は臧旻が身を乗り出すようにして立ち上がった。
「はい。賊徒討伐に役立つと思い、郡司馬として連れて参りました。まさに此度の任務にうってつけの人物と言えましょう」
李粛が自信満々に孫堅を推薦した。
二年前、孫堅は父と銭唐で用を済ませた帰路で、略奪を働き終え、休息中の江賊の一団と遭遇した。河岸で
この時に助けた娘が妻の呉氏だ。一人の若者が賊徒を追い払ったという胸のすくような英雄譚はあっという間に民衆の間に広まった。それは当時、許昭討伐の指揮を執っていた臧旻の耳にも届いた。そして、その功績により、孫堅は呉郡の仮尉(警察署長見習い)に取り立てられ、以来、李粛の信頼も厚い。
「おお、凶報ばかりかと思っていたが、こればかりは吉報だ。孫文台ならば、適任だ。この任、引き受けてくれるか?」
固く拱手を結んだままの孫堅は、すでにその任務を拝受する心構えができている。
「もちろんでございます。民衆の憂いを
孫堅は力強く答えた。兄や母との
「その心意気は嬉しいが、命を軽んじるでないぞ。君のような義に
臧旻にそう言われて、ようやく兄や母と交わした会話を思い出した。
「
臧旻はその正義感ゆえ血気に逸りがちな若者に
「心得ました」
孫堅は
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