第5話「消えた狗神先生」
翌日。
心地よい秋晴れの空の下、れむは美術館の入り口付近で双葉を待っていた。
本来ならば今日は双葉と共にプライベートでここを訪れるはずだったのだが昨日、希州よりもたらされた怪異の話で残念ながら取りやめになったのだ。
正面に続く大きな門はその怪異を受けて、警察の車両やマスコミの機材を乗せた車でぎっしり埋まり、近寄る事も出来ない。
「ふぅ……。所長、遅いな」
れむは何度も携帯端末を取り出して時間を確認してはため息を吐いた。
デートが中止になったので、今日のれむはいつもの動きやすいジーンズに長めの裾に繊細なレースをあしらったシャツを着て、その上に白いパーカーを羽織っていた。
待ち合わせは朝八時。
現在の時刻はそろそろ九時になろうとしている。
時間に厳しい印象のある双葉だが、結構ルーズな事があるのでこういう時は要注意だ。
昨日はあれからずっと双葉とれむは事務所で美術館の失踪事件を扱ったニュースを見ていた。
どうにも不可解な事件はマスコミの格好の的となり、どこを見てもこの事件が流れていた。
失踪した客たちにはそれぞれ面識がなく、何も接点はなかったという。
そして作者の画家についても失踪した原因が分からないそうだ。
「おい。春日君。何をぼーとしているんだ?」
「えっ?あれ所長。いつの間に……」
何となく昨日見ていたニュースを思い出していると、双葉が気難しい顔で隣に立っていた。
人目を引き付ける美貌に相変わらず隙のないブランドもののスーツ姿はかなり目立つ。
「ちょっ…それより所長、遅いですよ、何してたんてすか?」
遅れてきたというのに詫び一つもない双葉にれむはムッとした顔で抗議する。
しかし双葉の顔はまだ険しいままだ。
「あの…どうかしたんですか?」
「ああ。それが春日君。少々面倒な事になった」
「えっ、面倒な事ですか?」
双葉は軽く正面の門の方を一瞥すると声を潜める。
「実は朝から黒崎さんと連絡が取れないんだ」
「えっ、でも昨日の打ち合わせだと、先に黒ちゃんはここで待っているっていう話になってましたよね。きっと中にいるんですよ」
昨日希州は、先に美術館に話を通しておくため、現地集合を提案してきたのだ。
だが双葉はまだ気鬱そうな表情を崩さない。
「いや。確かに昨日の時点ではそういう話だったのたのが、一応段取りを決めておこうと黒崎さんの携帯電話に連絡を入れたんだ。だが全く応答がない。いつもならあきれるくらい反応が早い人がだ。それで妙な胸騒ぎを覚えて彼の事務所にかけてみようかと思ったところに黒崎家……本家の方から連絡が入った」
「それで何て言われたんですか?」
れむは思わず唾を飲み込む。
れむもこの事態に何か不穏なものを感じる。
「それが、黒崎さんの行方が分からなくなったそうだ」
「えっ、それってどういう事ですか?まさかその美術館で消えたお客さんたちと同じって事ですか?」
「まだ分からない。だが、黒崎さんが消えたとされる場所に一枚の絵が置いてあったそうだ」
「絵……ですか?」
「ああ。美術館の中央ロビーの隅に一枚のキャンバスが表を伏せるようにして置かれていたという話だ。それは美術館の展示物ではないそうだ。だが作者は水谷昂本人のものであるという事が確認されていて、未発表の作品らしい」
「ほぇ~。それってどんな絵だったんですか?」
好奇心に輝いた瞳でれむは双葉を見上げる。
双葉はポケットから携帯端末を取り出して手早く操作する。
「絵そのものは警察の方に引き渡されて現物はないのだが、黒崎家の術者が特別に撮影したものをこちらに転送してもらった。これだ」
「………風景画ですかね?あれ……これって」
それは美しい雪景色を描いた風景画だった。
深い藍色の星空に広い雪原。
雪を被った木々の繊細な枝ぶりまでもが緻密に描かれている。
じっと見ていると、この絵が誘う世界に魅了されそうになる。
だがれむはその雪景色の中にあるものを発見し、訝し気に眉を寄せる。
「君も気付いたか」
すると双葉もそれに気付いていたらしく、れむの反応を満足そうに見て口元を緩めた。
「はい。ここに何か黒ちゃんっぽい人が描かれていますよね」
れむが双葉の端末をのぞき込むようにして、画面の右端の辺りを示す。
そこには雪原を囲うように木々が林立しているのだが、その中でも目立つ巨木の下に黒いダウンを纏った希州によく似た若い男性が座っている様子が描かれていた。
絵なので写真のように鮮明ではないが、不思議と希州だと確信してしまう。
「ああ。これがいつ描かれたものなのかは現在分析中だが、私的な見解で絵の具の状態からかなりの年月が経過しているように思う。少なくとも最近のものではない」
「えっ、じゃあこれって単に黒ちゃんに似た人物って事なんですか」
「いや。まだ憶測の域を出ていないからな。だが画家の水谷昂は風景画しか描かないそうだ。現在まで発表された作品には一点も人物や動物等の生物を描いたものはないらしい」
「………謎ですね。じゃあ、これからどうしたらいいんですか?」
希州は一体どこへ消えたというのだろう。
れむは昨日見た希州の笑顔を思い出して悲しそうに瞳を伏せる。
「うむ。それでだ」
双葉は手に持っていた高級そうな黒革の鞄の中から一冊の本を取り出した。
背表紙に図書館のラベルが貼ってある事から、どうやらこの大幅な遅刻の原因はこの本を借りに行っていたからと想像出来た。
「何ですこれ?あっ、水谷昂先生のエッセイですね」
「ああ。今から二年ほど前に出版された彼の半生を綴った本だ。それの付箋を貼ったページを見てみろ」
本を手渡され、れむは付箋の挟まれた箇所を開いてみる。
「あっ、これ……」
そこには見開きで、あの希州らしき人物が描かれていた絵画と似た景色の写真が掲載されていた。
「ああ。これは水谷昂の故郷、金沢を撮ったものだ。彼の描く風景画の原点はここにあると書かれている」
「水谷先生って、金沢の出身だったんですね……。とても綺麗なところですね」
「ああ。観光で訪れるには今の季節は最適だが、今はこの不可解な怪異の正体を暴く方が先だ。すぐに行くぞ」
「なるほど~確かに……って、すぐ?今すぐですか?えええええええっ!」
双葉はれむの手を取ると、スタスタと歩き出す。
すると歩いてすぐの駐車場に一台のタクシーが待っていた。
双葉はドライバーに軽く頷くと、そこにれむを押し込んだ。
「すぐに空港へ行ってくれ」
「ちょっ…、あたし何も支度もしてないんですけどぉぉぉぉっ!」
れむの叫びも空しく、タクシーは一路空港へ向けて走り出した。
「鬼~っ、横暴所長~っ!」
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