第四章 はじまりの光、天使の梯子 Ⅵ

 ほんとうは、靴を履く時間さえもどかしかった。

 玄関を飛び出し、駅へ向かう道を走りながら、わたしは、吐く息だけを荒くしていた。

 ミュウが、まだどこかにいる――そんなこと、あるわけがない。時計はもう、六時をまわっている。ミュウが家を出てから、もう一時間近くたっていた。

 少しずつ濃度を増していく夕暮れの空は、同時に魔法のような明るさをたたえている。通りに落ちる光と影のモザイクは、そのままわたしの心だった。

 あのとき、ミュウを引きとめたわけでもなければ、「待っている」と言ってもらったわけでもない。それでも、わたしはミュウをさがした。

 なぜかは、自分にもわからない。ただ、そうしたかったのだ。

 だったら、どうしてあのとき、無理にでも「ここにいて」と言わなかったの?

 今さら意味のない自分への問いを、なんども繰りかえす。

 三叉路を右に折れて少し進むと、左手に大きな空間が開けた。公園だった。

 父が事故にあったとき、母が裸足でわたしをさがしにきた公園。

 美鈴さんが空の話をしてくれた、ジャングルジムのある公園。

 この公園の思い出をたどると、いつでもそれは、夕映えの光の中にあった。

 そう、今、このときと同じように……。

 立ちどまると、とたんに全身から汗が噴き出る。わたしの足は、そのまま迷うことなく、入り口の車止めを越えて公園の中へ向かった。

 十分もすれば、ひとまわりできてしまう小さな公園。人影は見あたらなかった。まるで、オレンジ色の光の海に沈んだみたいに、世界のすべてが不思議な明るさに包まれ、ひっそりと静まりかえっている。

 シーソー、ブランコ、滑り台……鉄棒に掛かってゆれているのは、だれかが忘れていったビニールの跳び縄。どうして、子どものいない遊具は、こんなにも寂しそうなんだろう――そんなことを思ううち、自然とわたしの目は、隅にあるジャングルジムへ向けられていた。

 その瞬間、心臓が、大きく鳴った。

 ジムのてっぺんに、帽子をかぶった小さな女の子が座っている。女の子は、歌うように身体をゆらしながら、黒タイツに包まれた両足をぱたぱたさせていた。

「おそかったね」

 女の子が、わたしを見おろして笑った。

「おそかったね、って……だって……」

「言わなかったかい? “じゃあ、また”って」

「言ったよ。でも、それって、ふつう、また別の日に会おう、っていう意味でしょ?」

「まあ、そうかもね」いつものように、飄々(ひょうひょう)と笑うミュウ。「でも、きみはきたよ」

「きたよ。きたけど、でも……」

 もし、わたしがこなかったら……。

 まるで、わたしの思いを吸いとってしまうように、ミュウは答えた。

「いいじゃないか。ぼくは、ただこの場所で、この景色を見たかったんだ」

「この場所?」

「うん。美鈴さんが言った、空に少しだけ近い場所だよ」

 ああ、覚えててくれたんだ、ミュウ。

 気づいたときには、わたしもジャングルジムに手を伸ばしていた。

 いったい何年ぶりだろう。高校生になってここにのぼることになるなんて、思ってもみなかった。両手で鉄の棒をつかみ、地面から一段高い横棒に足を掛けると、それだけでやんちゃな子どもに戻ったような気持ちになる。

 久々にのぼったジャングルジムは、頭の中で思っていたよりもずっと小さかった。

 真ん中の一番高いところを占めているミュウの脇、一段低い場所に腰をおろす。

「たったこれだけの高さでも、風景って変わるんだね。もう忘れてたよ……」

 あの日、美鈴さんと見た風景を、今、ミュウと見ている不思議。

 雲の切れ間から射す光が、公園の木々に降りそそいで、とてもきれいだ。

「見て、光の柱――」

「確か……薄明光線っていうんだ」

「なんだか、味も素っ気もない名前だね」

「気象用語なんて、そんなもんじゃないかな。もう少ししゃれた言いかただと、レンブラント光線なんてのがあるよ」

「レンブラントって、画家の?」

「そう。あとは“天使の梯子”とか“ヤコブの梯子”なんて呼び名もあるね」

「ヤコブ……?」

 首をあげてミュウの顔を見る。目を細めながらこちらを見ていたミュウと視線がぶつかってドキリとする。

「旧約聖書の中のお話さ。ヤコブという人が、天上と地上を結ぶ梯子を、のぼったりおりたりする天使を夢で見るんだ」

「ふうん……天使の梯子かあ」

「虹のたもとと同じで、すぐそこに見えるけど、手は届かない。伸ばした指の先で、夢のように消えてしまう。だからきっと、天使の梯子なんだ」

 わたしが、口もとをおさえながらクスクスと笑うと、ミュウは、けげんそうに「どうしたの?」とたずねた。

「深雪って……やっぱり、けっこう詩人だよね」

 夕焼け色に染まったミュウの頬が、さらに赤くなって、リンゴのようにぷくっとふくれた。

「だから、ぼくにそういう才はない、と言ったはずだけど」

「はいはい」

「“はい”は、一回でいい」

 わたしは、噴きだしてしまいそうになるのを、なんとかこらえた。美鈴さんならここで、性懲りもなく「はいはいはい」と答えるんだろうな――そう思ったからだ。

「でも……やっぱりちょっといいな。ここで見る景色」

 透明な光を全身にとりこむように、すうっと息を吸ったわたしは「あ」と小さく声を漏らした。

「ん? どうかした?」

「……うん、なんだか甘い、いい匂いがするなって思って」

 わたしの言葉を確かめるように、空に向かって鼻をクンクンさせたミュウが「ああ、確かにいい香りがするね」とうなずく。

「でしょ? 花の香りかな……」

 そう言うと、ミュウがくすりとほほ笑んだ。

「すぐそこに植えこみがあるの、気づかなかった?」

「植えこみ?」

「うん、白い花がちょうどきれいに咲いてたよ――クチナシの花がね」

 わたしは「え!?」と叫んでしまう。「これ、クチナシの花の香りなの?」

「そうだよ」とうなずくミュウ。わたしは、もう一度、ゆっくりとその甘い香りを吸いこんだ。そっか、これが……。

 空を見つめ、わたしは、そこにいる美鈴さんに呼びかけるように、心の中でそっとつぶやいた。ねえ、夕暮れは、クチナシの香りがしたよ……。

 リンゴみたいな頬をふたつの手のひらで包んで、ミュウが言った。

「ほんとに不思議だね。なんでもないようなことがふっと結びあって、奇跡みたいな想いを連れてくる」

「うん……」

「なんていうか、胸キュンだ」

「うん……胸キュン、だね」

 ふと、いつか美鈴さんが、このジャングルジムで話してくれた“天使を呼ぶ機械”のことを思いだす。もしかしたらこの光も花の香りも、美鈴さんが、天使を呼ぶ機械を使って、運んできてくれたものなのかもしれない……。

 ね、そうなんでしょ? 美鈴さん。

 だから、もう一度だけ“ありがとう”と言わせてください。

 あなたがくれた大切なもので、世界は今、こんなにもまぶしく輝いています。

「ねえ、深雪」

 わたしは、ミュウの顔をもう一度見た。“ん?”という表情で、ミュウが、わたしを見かえす。

「あの梯子を伝って、雲の上の国に飛んでいっちゃったりしないでね」

「なんだい、それは」

 首をかしげたあとで、ミュウが、口の端(は)をふっとゆるませる.

「だいじょうぶだよ、ぼくは、天使じゃない」

 インディゴブルーに沈みはじめた空に、ゆっくりと光が消えていく。その空の向こうで、美鈴さんが笑いながら手を振っているような気がして、わたしはそっと、手を振りかえした。

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