第四章 はじまりの光、天使の梯子 Ⅴ
ははは、こんなこと書いてたら、きりがないね。青春小説でも書く気か、ってあきれてる春花の顔が、そろそろ浮かんできたよ。
春花。あたいが、高校を出て鹿児島を飛び出したのはね、あんたと友だちだった高校の一年半が、あまりに楽しかったからなんだ。
高校を卒業したら、春花は地元の大学に進む、そう聞いて、じゃあ、あたいはどうなんだ、って自問自答した。そのとき思ったんだ。あたいはこの一年半、春花を保護者代わりにして、ベッタリたよりきってきたんじゃないのか、ってね。
高校を出ちまえば、もう、今までみたいに春花に甘えるわけにいかない。そうだ、巣立ちをしなきゃいけないんだ、ってなことを、あたいなりに思いつめた。
春花は「また、わけのわからない思いこみで、自分一人だけ勝手に先走って」って、ぜったい怒るよな。それを言われたら、ほんとに弁解のしようがないよ。
なんというか、その……若気のいたりってやつさ。
まあ、地元に未練がなかったのは確かなんだ。春花との想い出をのぞけば、いい記憶なんてものも、ほとんどなかったしね。それに、シロクマなんて、日本のどこにいっても食べられると思ってたんだよ、あのころは……。
だけど、社会の荒波も、博多のビル街に吹く風も、こらえ性のないあたいの性格だけは、そう簡単に変えてくれなかった。だからって、一応啖呵を切ってあとにしてきた鹿児島に、今さら出もどるわけにもいかない。きまぐれに仕事を変えちゃあ、住処(すみか)を転々とする。そんなことを繰りかえすうち、ひとところに落ちつくってことができなくなっちまった。
明日は東、今日は西、どこをねぐらの渡り鳥――なんてね。
そういう生きかたってのは、一度身についちまうと、ほんと、楽なんだよ。重荷ってものが、なんにもないからね。
春花のことは、いつでもずっと気にしてたよ。こっちに出てきていることも、子どもが生まれたことも、聞いていた。
あたいもちょうど、東京あたりをうろうろしてて、いろいろ面倒なことをかかえこんでた時期だった。春花に会いにいこうか……グジグジ迷ってるうちに、自分でもバカバカしくなっちまった。アホくさ、なんであたいは、一番の友だちに会いにいくのに悩んでるんだ?ってね。
あとはもう、頭よりも身体が先に動く地金(じがね)の人間だからさ、郵便の転送でかろうじて受けとってた二年前の転居案内をたよりに、白昼の電撃訪問となったわけなのさ。
あのとき、春花を訪ねて、ほんとによかったと思ってる。
あんたは、だれよりも幸せそうだったね。
われながら陳腐な言葉だけど、愛に包まれてる、って感じだった。
人と人が、たがいを想って結びあうと、こんなに幸せな顔になるんだな、って思ったよ。
春花が、そういう人とめぐりあって、大切な命を授かった。そのことが、うれしくてたまらなかった。ダンナは、あたいが思ってたとおりの、よかにせだった。ああ、この人なら春花もほれるわ、ってわかったよ。
気がつけば、男と男のつきあいで、気持ちよく杯(さかずき)をかわしてた。
あのころのあたいは、幸せいっぱいの春花から、ちょっとだけおすそ分けをもらってる、そんな気分だった。そんでもって、気づいちまった。
そうか、あたいはずっと、こんな家族にあこがれてたんだな、ってことに。
あたいは、いまだに父親の顔も名前も知らないし、知ろうと思ったこともない。
母親は、子育てなんぞ端(はな)から放棄してるような人間だったけど(今なら、ネグレクトとかいう高級な言いかたをするんだろうね)、だからって、自分をことさら不幸だなんて思ったことはなかった。
放任されるまま、好き勝手に生きてきて、世間体って意味では、おっかんが一応最後まで「母親」でいてくれたことには、これでも、あたいなりに感謝してる。
でも、そうじゃなかったんだ。
あたいはただ、自分は不幸じゃないって、思いたかっただけだった。
ほんとは、わかってたよ。あたいが、世間一般で言うような“ぐれたガキ”にならずに、なんとか踏みとどまったのは、なんてこたあない、それじゃあ、あまりにもまんますぎて、悔しくてみじめで、自分がかわいそうだったからさ。
結局その反動で、万年不良少女みたいな生き方をしてきちまったわけだ。
そうさ、この家で春花と再会して、涙が出るほどうれしかったのは、あたいがずうっと想い焦がれてきた幸せが、ここにあったからなんだ。
だけど、この幸せにあたいが入っていく余地なんて、ぜんぜんないってことも確かだった。
ここで、あたいにできることなんて、たぶんなにもない――勘違いしないでほしいんだ。あたいは、そのことも含めて、うれしくてしかたなかったんだよ。
それと――あのとき、身をかためようかと思ってる、みたいなことを言ったのは、まるっきりでたらめってわけでもないんだ。まあ、それが、さっき書いた、あのころあたいがかかえてた面倒ごとのひとつでもあったんだけどね。
あたいと所帯を持ってもいい、っていう奇特な男がいてさ。あたいも、それであっさり情にほだされるほどウブでもないし、家の中にちんまりおさまってる自分も想像できないしで、さて、どうしたもんかな、って悶々としてたんだよ。
だけど、あんたたちを見てるうちに、魔がさしちまった。
今さら、高望みをしようなんて気持ちは、これっぽっちもなかったけど、一度くらいはあたいも、世間なみの夢――家族ってやつをつくる夢を見てもいいんじゃないか、なんてね。
そのあとのことを、ここにグダグダ書く気はないよ。待ってたのは、笑っちゃうくらいに、ありきたりな三文芝居の結末さ。
あくびをする暇もないくらい、こっぱ短い夢だった。ていうか、乗っかったつもりの夢が、実はもうとっくの昔に終わってることに、あたいひとりが気づいてなかったんだ。
しかたないから、もう一度旅の風に吹かれて、修行をやりなおすことにしたのさ。
……なあんて、要は、自分にとって一番楽な場所にもどっちまった、てことだよ。水が低きに流れるがごとし、さ。
それからも、そりゃあいろいろあった。女ひとり、きれいごとだけで生かしてくれるほど、世の中は甘くない。でも、そこから先にいっちゃいけない、っていう一線だけは、あたいなりに守りとおしたつもりだよ。落ちるところまで落ちたってしかたのないあたいを、なんとかその寸前に押しとどめてたものは、なんだろう。
プライド? そんなものは、とっくの昔に捨てちまった。
たぶん、そこを越えたら、春花に二度とあわす顔がない、そんな人間にはなりたくない、ただその想いだけが、あたいをこの世界につなぎとめてたんだ。
そんな折りも折り、例の病気さ。
後ろから、突然ハンマーで殴られた気分だった。
その……子宮でガンが進行してる、患部切除の必要があるって、お医者さんに言われたとき、その言葉の意味するところは、バカなあたいにもすぐわかった。
前に話をしたときは、えらくかっこのいいことを言ったね。お医者さんの前で啖呵をきったって話もほんとさ。けど、本音はちがった。正直、つくづく情けない人生だなって思ったよ。なんで呼びももしないのに、こんな、ろくでもないものばっか引きつけちまうかな、ってね。
それでも、あたいなりに覚悟をつけたつもりだったんだよ……女としての、自分の一部を切りとることに対してはさ。今さら、惜しむほどのもんでもないだろ、なんてね。
なのに、手術が終わったあとのあたいは、ほんとうにただのふぬけになってた。こんなに打ちのめされちまうなんて、思ってもいなかった。
なくして初めて気づく、なんて、まるで陳腐な歌謡曲の歌詞みたいだけどね。それを永久に失って、初めてあたいは、どうしようもなく女である自分を、真っ正面から突きつけられちまったんだ。
気がつくと、あたいは、なんにも見えない暗闇の中で、膝をかかえ震えてた。自分の中に真っ黒い穴がぽっかり開いてて、いつまでも血を流し続けてる。ふっと心がゆるむと、自分を支えてる糸がぷっつり切れて、その穴へ飲みこまれちまいそうになるんだ。
踏んばろうとしても、足もとにはなんにもない。心のどこかに、いっそこのまま、闇の底まで落ちていっちまうのもいいか、なんて考えかける自分がいた。ああ、そうか、あたいはこんなにどうしようもないヘタレ人間だったんだ、って、とことん思い知らされちまった。
春花に会いたい。心からそう思った。
なのに、春花がどんどん遠くなっていく、そんな気がしてた。
そんなとき、人づてに、ダンナに起こったことを聞いた。
すぐにでも春花のところに駆けつけたかった。けど、いってどうするんだ、とも思ったよ。
今さら友だち面して押しかけて、それでどうする? どん底ヘタレ女のあんたに、なにができる? 「がんばれ、負けるな」とでもいうつもりなのかい? 今のあんたのいったいどこに、そんなことを言う資格があるんだい?
あたいの中に何人もの園田美鈴がいて、次から次とあたいを責めたてた。
だけど、最後のひとりが言ったのさ。
おいおい、また屁理屈こねて尻ごみするのかよ。あとさきも、他人様(ひとさま)の迷惑も考えず、やりたいことをやるのがあんたの流儀だろ? あんたのやりたいことは、いったいなんなのさ。
あたいのやりたいこと? そんなの、決まってるじゃないか。
春花に会いたい――ただ、それだけだ。
その瞬間、迷いなんて吹き飛んでた。ばかばかしいくらい木っ端みじんにね。
気がついたとき、もう、あたいはこの家の前にいた。
自分で言うのもなんだけど、帰ってきたんだ、ていう気持ちが自然にこみあげてきたよ。
玄関に入って声をあげたら、ちっちゃな女の子がトコトコ走ってきて、不思議そう顔であたいを見あげた。
その瞬間、たぶん、あたいの中ですべてが決まっちまったんだ。
あたいは、生まれて初めて、心の底から“生きたい”って思ったんだよ。
ここで、春花やこの子といっしょに生きていきたい、ってね。
あんたたちを助けようとか、えらそうなことを考えたわけじゃない。自分の生き方をまるまる変えよう、なんて思ったわけでもない。どうがんばっても、あたいはあたいだ。あたいにできることしかできない。
でも、それでいいじゃないか、って、自分に言い聞かせた。
あたいのやり方であんたたちに関わって、したいことをして、それがたとえ、ただのはた迷惑だったとしても、ぜんぜんかまわない。あんたたちにはたぶん、そのはた迷惑が必要なんだ、ってね。
善意の押し売り、けっこう毛だらけさ。売り惜しみして腐らせるくらいなら、.大安売りで棚ざらえしたほうが、何ぼかましだろ?
まあ、いってみりゃあ、究極の開き直り人生だよ。
要は、車寅次郎が、いけしゃあしゃあと居残り佐平次に宗旨替えしちまったってわけさ。あたいは、まだまだ生きるんでい!ってなもんよ。
で、つまるところ、あたいは、この八年間を自分の思うとおり楽しんだ。
おかげさまで、こんないい人生をおくらせてもらった。
生きる意味。生きる時間。だれかといっしょに生きてく場所――ずっと、さがしてた光。なにもかもが、そこにあった。
春花――あたいはこの家で、あんたとアリ子から、そのすべてをもらったんだよ。 春花たちと過ごした時間。この家でいっしょに笑いあってきた時間。なにもかも、まるごとぜんぶ、あたいは愛した。
その一分一秒が、あたいにとっては永遠だったんだ。
そして今、あたいは、自分に残されたノートのページを、もう思い残すことなんてひとつもないくらい、ぜんぶ春花たちへの言葉で埋め尽くしたくて、この手紙を書いてる。
窓を少しだけ開けると、気持ちのいい夜風が入ってきて、あたいを包む。
ゆっくり目を閉じると、真っ先に浮かんでくるのは、夕暮れの光に照らされた教室。それから、あたいの声に振りむいた春花の少し驚いた顔。
あの日、あのとき、春花が教室に残ってなかったら、あたいが、遅れた宿題を届けに職員室にいかなかったら――あたいと春花は、卒業写真の端と端におさまってるだけの、ただの同級生で終わってたんだろうか。
……なあんて、考えるだけでもバカらしいや。
だいじょうぶ。なんど生まれ変わったって、そのたびにあたいは、あの日、あの場所に飛んでいく。そして、夕陽に染まった春花の背中を見つける。
だって、そこがあたいの銀河ステーションだから。
あたいたちの旅は、そこからはじまったんだから。
そう――いつだって、春花のハは、はじまりのハなんだから。
目を閉じると、おもちゃみたいにちっちゃな、青い汽車がやってくる。
あたいたちを乗せて、ゴトゴトゴトゴト走り出す。
線路のそばに咲くりんどう、銀色の波を打って輝くすすき野原、プリシオン海岸やケンタウルの村――ゆきすぎる風景に手を振り、あたいたちは、たがいに肩を寄せあって、星々をめぐる。
銀河鉄道の旅の終わり近く、ジョバンニは、カムパネルラに向かってこう言うね。
「どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んでいこう」
それは、あの日のあたいの願いだったよ。
このまま、この汽車で、銀河の海をわたってどこまでもいけたなら……。
春花。
ありがとう。あたいと出会ってくれて。
ありがとう。こんなあたいの友だちでいてくれて。
それから――
あはは、やっぱ、ありがとう、しか浮かんでこないや。
だから、もう一度。ありがとう、春花。
ねえ、あたいは、春花のカムパネルラになれたかな。
永遠の心の友、美鈴より
* * * * * *
手紙を読み終えた母は、ゆっくりと両手を膝の上に置いた。
「……バカね」
ぽつり、ともれた母の声は、少しだけ震えていた。
「あんたに“ありがとう”って言われたら、わたし……いったい何倍にしてそれを返したらいいのよ。だいたい、なんなの。永遠の心の友って……」
母は、うずくまるように顔を伏せた。
「それに……言われなくたって、わたしは、いつだって、あの場所にいるよ」
美鈴さんに語りかけるように、母は、言葉をふりしぼる。
「わたしが、あの日……教室にいたのが……偶然なんて、そんなこと……あるわけないじゃない」
母の目からあふれたしずくが、頬を伝い、手紙の上に次々と落ちた。母は、あわてたように手紙と写真を胸に抱きしめる。
わたしは、母の肩を両手で包むように抱き、それから、そっと離れて立ちあがった。
ここからはもう、母と美鈴さんを、ふたりきりにしてあげる時間だ。
そのまま部屋から踏み出そうとして、わたしは、一度だけ振りむいた。
「ねえ……お母さん」
母が、はっとしたように、くしゃくしゃになった顔をあげた。
「え……なに?」
「『銀河鉄道の夜』、わたしが譲り受けてもいいかな」
「ああ……うん」母は、泣きながら笑った。「これは、美鈴にあげた本だもの。そして、あんたがこの本を見つけた。それは、そのまま、美鈴の一番望んだことよ」
「……ありがと」
お母さんと美鈴さんの宝物――今度は、わたしが大切に守るよ。
「そうだ、今度ね、お母さんをつれていきたいお店があるの」
「お店? どんな?」
「ないしょ。ヒントはね、クチナシとアカシヤだよ」
不思議そうな顔でこちらを見る母を残して、わたしは、廊下へと走り出た。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます